五の巻

別離 一の節

 夏の盛りの蒸した夕べ。淑気舎しゅくきしゃ付きの者達が、勤めを終えて、挨拶していく。各々に応じ、とこにつく。

 二週間の支度の末、ようやく明日の朝、都を出発する。

 入内じゅだいしたとはいえ、あの夜以来、あおぼしの渡りもなかったから、まさかこれほど時がかかるとは、思ってもみなかった。

 社にも、多くのしきたりがあるが、宮中の決まりごとは、微に入り細に入り、多岐にわたった。決定にも、想像以上に多くの者が関わるようで、何事にも、それなりの時を必要とした。

 それでも、帰れるのだ。瞼の裏に、山吹やまぶきの笑顔が浮かぶ。

 何か間違いがあってはと、先に帰した雌童めのわらわ

 ふみには、大御巫おおみこの世話をしつつ、修練に励んでいるとあった。いずれは、〈要〉の巫子みことして、かみの社の中核を担っていくだろう。

 修練で、困っていることはないだろうか。少しそそっかしいところがあるから、心配で仕方ない。

 指導する側になってみて、母が何かと世話を焼こうとする理由が、よくわかった。大変なことも多いが、慕ってついてくる姿は、何ものにも代えがたく、いとおしかった。

 尊い光を仰ぐ時、母は必ず、子を育てる喜びに感謝した。今こそ、母を得た幸せが、より一層、胸に迫ってくる。

(……母上様……早く、お会いしたい……)

 微睡んで、ゆっくりと沈んでいく。

 遠く、呼ぶ声が聞こえて、目を開ける。宙に浮かぶ姿が、足元に立っていた。

「母上様っ……!」

白梅しらうめ――よく、お聴きなさい」

 強く、首を振る。涙が滲んで、駄々をこぼす。優しく諭す声が、心に降ってくる。

「あらまあ、もう、子供ではないのですよ。我がままは、およしなさいな」

「でもっ……母上様! ああ、そんな……!」

 言いつけを聴いてしまったら、もう二度と会えなくなる。

 明朝、都を発つのに。社までは、たった二日の距離だというのに。

「思い出しますね――あなたがまだ、ほんの幼子だった頃、外に出たいと、よく泣いてせがんだこと……でも、わたくしが困っていると、気づいて我慢する――まこと、健気な子でした」

 日光で、目と肌が焼けてしまうとわかっていても、外遊びしたかった、あの頃。母の心の声を聴いては、涙をこらえていた。

「あなたには、我慢させてばかりですね。せめて、ひとつくらい、思うままにさせてあげたかった……」

 きっぱりと、かぶりを振る。直向きな思いで、心を紡ぐ。

「我慢などと思ったことは、一度もございません。母上様に育てていただきましたこと――どれほど幸せか、言葉に尽くせません。感謝こそすれ、どうしてしく思いましょう」

 露草色の瞳が、潤んで煌めく。慈しみに満ちた声が、優しく語る。

「わたくしも、幸せでした……まだ赤子だったあなたが、お乳を含んだ、あの瞬間――初めて母と呼んでくれた、あの春の日――あなたの成長を見守ることこそ、わたくしの生涯の喜びでした」

 語り尽くせぬ、数多の思い出。まだまだ、紡いでいたかった。これからも、ずっと、ともに日々を過ごしたかった。

「――白梅。この先、あなたには、大きな苦難が待ち受けているでしょう。しかし、心を強くお持ちなさい。あなたなら、きっと、正しい道へと導いていけると――母は、信じていますよ」

「……母上様……」

 はらはらと涙をこぼしながら、それでも強く頷く。母の顔に、安堵した微笑みが広がる。

「ありがとう、白梅……わたくしの、愛でし子。どうか、健やかに――」

 優しく柔らかな、母の声。おもむろに遠ざかると、光の粒となって、天へと昇っていった。


 明くる朝、火急の用であるとして、若竹わかたけが訪ねてきた。そして、ただ哀しく、母の訃報を聴いた。いささか意外そうに、若竹が呟く。

「……驚かれないのでございますね」

「昨夜、大御巫様が、夢枕に立たれましたので……」

 納得した表情。それから一瞬、逡巡して、頭を下げた。

「叶いますれば――これよりは、内密にお話しいたしとうございます」

 真摯な眼差し。何事かあったのだと察して、承諾する。筆頭の者のみを置き、皆が退出していく。

 一段と静けさの深まった中、若竹が、低く切り出す。

「実は、真神の社より、もうひとつ、知らせが届いております。――今夏は、日照りが続き、旱魃が起こる、とのうらにございます」

 途端、誤りであると、心に閃く。思いつきではない確信に、満たされる。

 起床した瞬間に感じた、力の巡り。この豊葦原とよあしはらのあらゆる全てを見通すような、開けた感覚。やはり神々は、〈要〉の巫子に、己を選んだのだ。

 しかし、託宣以外で、告げることは許されない。ましてや、皇族ではない若竹に教えるなど、もってのほかだ。

 ただ、誤った占のまま、対策を講じれば、民の命が危うい。

 怖れを押し込めて、切り出した。

「……主上おかみにであれば、お話しいたします」

「承知いたしました。早急に、しかるべき場を設けましょう」

 若竹は、深く礼をすると、足早に発っていった。


 早速、その日の昼、触れがあった。昼餉のあと、青星が渡ってくるという。

「私も、お声の届かないところではございますが――お側に控えておりますゆえ、何かご用がございましたら、ご遠慮なく、お申しつけくださいませ」

 そう、若竹は請け負ってくれた。

 深い忠心。おかげで、ずいぶん心丈夫に過ごせた。話を聴き終えた青星が、思案しつつ呟く。

「――なるほど。そなたの見立てでは、野分のわけによる大水おおみずであるのだな」

「はい――堰を補修しなければ、必ずや決壊し、都は大きく流されます」

 はなだいろの瞳と、ひたと視線が合う。白銀の尾が、すっくと伸びながらも、わずかに揺らめく。

「それほどに断言できるのは――やはり、そなたが〈要〉の巫子に選ばれたゆえか」

「左様にございます。真神の社にて、大御神おおみかみ様より、御印を頂戴できましたら、証も立ちましょう」

 両の耳が、ぴんと向く。底冷えする声が、問いかける。

「……よもや、帰ろうとは言うまいな?」

 予想外の言葉に戸惑う。聴こえてきた心の声に、血の気が引く。

「わたくしには、帰らなければならない理由が、他にも数多ございます……! どうか、主上、お許し賜りませ!」

 炯々と光り出した瞳が瞬く。ふっと鼻で笑って、低い声が囁く。

「心を読んだか――さすれば、そなたの為すべきことも、わかるであろう?」

 切なく、眉根が寄る。優しく哀しい調子が、耳を撫でる。

「朕の傍にいてくれ、白梅……その力で、朕の政を支えてほしいのだ」

 不意に、幼い日の、無邪気に褒める笑顔が浮かぶ。

 恋慕い、ときめいていた心。季節の折り目を、楽しみに待っていた日々。しかし今、その温かな思い出に、絡みつき、覆い被さっていくものは。

 弾けそうになって、几帳の先の御簾を振り見る。隙間から覗く、灰銀の尾。声高く、その名を呼ぶ。

「若竹様……っ!」

「――そなたのまことの伴侶は、この私だッ!」

 強い衝撃が、背中を打つ。息を詰めて、迫った影を見る。とっさに突き出した手が、あっという間に、板張りの床に縫いとめられる。

「嫌っ……主上! おやめあそばされ――」

 唇に、生温かい感触が降る。途端、目の前が、真っ赤に染まった。

 指で、その赤をすくう。ぬるついて、滴り落ちる雫。視線を上げれば、一匹の狼が、大岩に潰されていた。

 短い悲鳴を掻き消すほどの轟音。

 福慈岳ふくじのたけが、神火を噴き上げ、岩をまき散らしていた。もうもうと、黒煙が空を隠し、日の光の届かない闇が、豊葦原を覆った。

 大地が揺れて裂け、民が、次から次へと、淵に呑み込まれていく。化身して、かろうじて落下から留まれた者さえ、激しい揺れに、振るわれる。

 雨のように降る岩に潰され、痛みに泣き叫ぶ者。地面を掘り返して、下敷きになった父を助けようとする子狼。

 裂けゆく地面に足を取られた家族の手を取って力尽き、ともに落ちていく者。燃え盛る家から、炎をまとって駆け出す者。

 絶叫。慟哭。枯れ果てた大地。

 生き残っても、待ち受けるのは、終わりのない飢え。

 鶏。兎。牛。鹿。あらゆる動物が狩り尽くされ、死骸すら、骨の髄まで喰われ、残る食糧は――。

「お父ちゃん! いたいっ……いたいよおッ!」

 骨を、咬み砕く音。雄の狼に促されて、腹の膨れた雌の狼が、似姿の子供を喰らう。ばりぼり、ばりぼりと。強烈な臭気。土くれと化した大地に、鮮血が染み込んでいく。

 舌なめずりする、二匹の狼。しかし、次の瞬間には、血を噴いていた。

 そしてまた、骨の砕ける音が響く。ばりぼり、ばりぼり。襲った狼は満足し――その血飛沫が躍る。

 最後の一匹は、縹色の眼をしていた。雷鳴の轟く黒雲を仰ぎ、高々と遠吠えする。

 激しい後悔の念。己の所業を恥じる悲嘆。

 ――そして。

 叫んで、走り寄る。牙が、腹に突き刺さる。あっという間もなく、白銀の毛皮を引き裂いた。

 臓物が、ばたばたと飛び出す。

 倒れ伏し、口から血を流す姿。必死に閉じようとしても、手は虚しく擦り抜けていく。

「……い、いや……」

 命の失った、その眼。優しく笑っていた、縹色の――。

「いやあああぁっ――!」

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