再会 二の節

 御簾越しに、正装した白い姿を見つめる。凛とした声が、畏まって挨拶する。

「この度は、直々の御召し、誠に恐悦至極に存じ奉ります。誠に僭越ながら、大御巫様の名代として、拝謁に参じました」

 春めいた風が、匂い立つ香りを運んでくる。尾の毛が逆立つのを感じながら、重々しい声音で応じる。

白日巫しらひのかんなぎよ。此度の働き、まこと称賛に値する。今後も、その貴き力により、朕を助けよ」

「もったいなき御言葉、恐れ入り奉りましてございます」

 堅苦しいやり取り。この邪魔な隔たりを取り払って、美しい真朱の瞳を眺めたかった。

 簀子縁に控えていた若竹わかたけが、淡々と告げる。

「初めての外界で、お疲れでございましょう。拙宅に、お部屋をご用意いたしました。どうぞ、ごゆるりと、お過ごしなされませ」

「有難う存じます。お世話になります」

 わずかばかり、白梅しらうめが顔を上げる。しかし、瞳は、こちらを向いていなかった。

(……若竹になど、渡すものか)

 すぐにでも、内裏に連れ帰ってやると、暗い思いで、その景色を見つめた。


「――それでは、おやすみなさいませ」

「ええ、おやすみなさい」

 丁重に礼をして下がる、山吹やまぶきを見送る。

 髪を乱れ箱に収め、衣に身を滑り込ませる。しんしんと這い上がってくる冷気。震えながら、体温で暖まるのを待つ。

 都は寒いと聞いていたが、想像以上だ。もう少し着込んでくればよかったと、今さらながらに思う。

 それでも、見知らぬ者の家でないだけ、ずっと安心できた。

 冷静に考えてみれば、内裏は帝と后妃のためにある。ただの客が、寝泊まりできるはずがないのだ。

(わたくしったら、考えすぎたのね……)

 暗がりの中、息をついて、うとうとと微睡む。今日は、懐かしい顔に会えた。

 若竹の家族の、温かいもてなし。垣間見える、父親の面立ち。幼かったあの日々が、今は遠い昔に思える。

 きっとこうして、穏やかに、着実に、日々は過ぎていくのだろう。そして、その平穏を守ることこそ、巫子みこの務めだ。

(……母上様……)

 無事、謁見は済ませた。一刻も早く、帰らなければならない。

 おもむろに沈みゆく意識の中、ふと、微かな物音が、鼓膜をかすめる。耳を傾けると、足音のようだった。背筋の冷える予感に、目が冴える。

 軽く身を起こせば、影があった。その正体に、思わず悲鳴を上げる。

「――主上おかみ……!」

 どうして、こんなところにいるのか。

 この邸宅は、内裏から、ずいぶん離れているはずだ。まさか、身ひとつで来たというのか。――内院に、忍び込んできた時と同じように。

 闇に浮かぶ顔が、楽しげに笑む。

「四つ足ならば、かような距離など、どうということはない。――たかが、灰銀の者共。朕の前には赤子同然よ。化身すれば、気取られずに入り込むことなど、造作もない」

 渦巻く、黒い感情。炯々と、縹色はなだいろの瞳が光る。

 途端、寒気が走る。逃げなければと閃いて、すくんだ肢体に阻まれる。

 一息に伸びてくる腕。背後から抱きすくめて、熱い吐息が語る。

「ああ、白梅……ずっと、こうしたかった……まこと、そなたは、なんとよい匂いであるのだろうな」

 掻きいだかれて震える。首筋を撫でる息に跳ね、必死に哀願する。

「……わたくしを、いかがあそばされるおつもりですの……? どうか、お放しになられまして……っ」

 ふっと、低く笑う声。緩慢で熱い呼吸が、耳に吹きかかる。

「心が読めるのに、なぜわざわざ問う? 私が、そなたをどれほど慕っているか、わかっているであろうに」

「いいえ、いいえっ……かような御振る舞いをなされます御方など、わたくしは存じ上げておりません……! お願いにございます――お放しあそばして……!」

 滲む視界で、ただただ悲鳴をこぼす。

 何か、もっとよい方法を。そう思っても、何も思い浮かばなかった。想像以上の強い力に、身体の芯が震える。

 腰紐の解ける、衣擦れの音。激しい熱に覆われているのに、寒くてたまらない。

「嫌っ……主上! おやめくださいませ! 主上! 主上っ! ああ、誰か……!」

 小袖が、肩からずれ落ちる。まるで、追い詰めた獲物で戯れるように、衣越しに、ねっとりと手が這う。為す術なく、拒絶をひたすら叫ぶ。

 と、慌ただしい足音が迫ってくる。雄子おのこの怒声が、灯火に照らされた闇を突き抜ける。

「主上ッ! これ以上の御無体は、神々がお赦しになられませぬぞ!」

「……若竹――邪魔をしおって」

 するりと、縛めがほどける。甲高い悲鳴が、駆け寄ってくる。

「――白梅様っ……!」

「……山吹……」

 慮る、丸い苔色の瞳。衣をかけてくれる、小さな手。震えながら、乱れた小袖を掻き寄せる。

 厳しい声が、諫めて促す。

「さあ、お戻りになられませ。今ならまだ、幻であったと、私共も思えましょう」

 緩慢に、首が巡って、縹色の瞳と目が合う。

 浅く喘いで、身を縮め、成り行きをつぶさに見守る。

 すると、おもむろに、面立ちから熱が抜けていった。深い後悔の念が、声となって、心に響く。かすれた言葉が、苦く落ちる。

「……許せ、白梅」

 そして、すっと立ち上がると、若竹の元へと歩いていった。


 意匠は慎ましくも、技巧を凝らした道具類。奉納品という名目の褒美が、初春の和やかな陽光に照らされている。

 その品々を前に、こうべを垂れたまま、感謝の意を述べる。

 退去の挨拶を続けようとして、息を継ぐ。しかし、

「……若竹。これらは、淑気舎しゅくきしゃに運べ」

 あおぼしが、妙に淡々と話し出す。臨席していた大臣達に、動揺が走る。帝は意に返さず、話を継いだ。

「白日巫を、朕の妃とする。――左大臣。そなたが後ろ盾となれ」

「しかし、主上……!」

「話は以上だ。任せたぞ」

 腰を上げる影を、茫然と見つめる。

「お待ちあそばされませ! 主上! 主上ッ!」

 若竹の制止も届かないまま、直衣と長袴を擦る音が、遠ざかっていく。

 一体、何が起きたのか。今日、帰るために、参じたはずなのに。

 若竹が、苦い口調で告げる。

「白日巫様。誠に申し訳ございません。ひとまず、拙宅にお戻りください。主上には、私共が奏し奉りますゆえ」

「はい……よろしくお頼み申し上げます……」

 血の気の引いていく頭を、おもむろに下げる。慌ただしく動き出した周囲の中、震える衵扇あこめおうぎを見つめた。


 暗澹たる心持ちで、渡殿わたどのを進む。これからどうなるのか――言いようのない不安が、胸を食んだ。

 結局、青星は、頑として、諫言を聞き入れなかった。

 急なことで、入内じゅだいの準備には、三月みつきかかるという。そこで、後見となった左大臣の屋敷が、それまでの居所きょしょとなった。

 しかし、同じ敷地には、后宮きさいのみやが里下がりしているのだ。どのような顔で、会えばいいというのだろう。

 御簾をくぐって、正面に座す。こうべを垂れ、挨拶を述べる。

「お初にお目にかかります、后宮様。白日巫と申します」

「父上と兄上から、事情は伺っています。しかし、あのお優しい主上が、かような横暴をお働きあそばされるとは、到底思えません。ゆえに、そなたから、直に話を聴きたいと、考えていました」

 身を起こせば、あでやかで美しい姿に出会う。

 気高く雅な佇まい。あまりにも畏れ多くて、耳と尾が縮こまる。目も合わせられず、微かに震える喉で、返事を口にした。

「……全て、まことにございます……」

 后宮のまとう気が、すっと冷える。見定める視線。疑念の滲む声が問う。

「仮に左様であるとして、主上はなぜ、そなたに御執心あそばされる? 大御巫様が名代と定めるほどの巫子を失うことは、この豊葦原とよあしはらにとって、取り返しのつかぬ損失。かようなことなど、主上が、おわかりになられぬはずもございませんでしょうに」

 それは、己こそが、最も知りたいことだった。

 初めは、恋というものは、そういう御しがたいものなのだと、思っていた。だめだとわかっていても、会いたいと願ってしまう――そんな切なく儚いものである、と。

 しかし、あの恐ろしい夜を思うにつけ、違和感は、増すばかりだった。抱きすくめられた己は、まさに、これから喰い殺される獲物であった。

 這い回る感触が、肌に浮かんで震える。

 浅くなりかけた息を飲み込んで、言葉を押し出す。

「……わたくしも、御真意までは……ただ、主上は、わたくしはよい匂いがするのだと、よく仰せにございました――気もそぞろになるような、えもいわれぬ芳香である、と」

「匂い……? そのようなものは――」

 后宮が、言い差して、はたと止まる。納得の色が、華やかな面立ちに広がっていく。

「……そうか……そなたは、主上の……」

 真の伴侶。青星の心から、幾度も聴こえてきた言葉が、胸に流れてくる。

 哀しみと嫉妬の渦巻く声。しかし、慮る調子で、后宮は呟いた。

「そなたには、わからぬのですね……巫子たる、そなたには――」

 獣のさがを忘れて生まれた、己が身。悲しく、理解が沁みていく。しかし、だからこそ、為すべきことは、ひとつだった。

「――事情は、よくわかりました。御聖旨を覆すことはできませんが、そなたが無事に帰社できるよう、手を尽くしましょう」

 静かながら、決然とした言葉。心から礼を述べて、深くこうべを垂れた。


 高雅な婚礼衣装。厳粛ながらも、絢爛な儀式。贅を凝らした宴。本来ならば、喜ばしいはずの時は、重苦しい心持ちで過ぎていった。

 今はただ、その時を、耳を澄まして待っていた。

 先月、后宮が、無事に一の姫を出産して、内裏に戻った。

 青星は、居所である明月殿めいげつでんに日参し、乱心は収まったという。

 今夜は、帝の供として、若竹がつく。大丈夫とは思っても、恐怖は消えてくれなかった。身体が、芯から震えてやまない。

 衣擦れの音が、間近に迫って、出迎えの姿勢をとる。はたして、青星が現れた。

 座したところで、顔を上げる。端正なおもてが、はっとして、悲しく歪む。

「……泣いておったのか……白梅……」

 そっと、手が伸びてきて、思わず身を引く。縹色の瞳が、微かに滲んで揺れる。静かな声が、問いかけた。

「ひとつだけ、訊きたい。……そなたは、朕のことを、如何に思っている?」

 心に届く、切ない怖れと淡い期待。まだ甲高い、傷ついた叫びが、胸に去来する。

「……わたくしは、巫子にございます。捧げられたこの身に、心はございません」

「巫子で……なければ?」

 おもむろに、青星の腰が浮く。苦しくも柔和だった心の声が、黒い熱情に侵蝕されていく。

 たまらず弾けて、半ば悲鳴のように、乞い願った。

「お願いでございますっ……真心から、わたくしをお慕いくださっていると仰せになられるのでございましたら――どうか、ただ御側でお仕え申し上げるのみで、お許し賜りませ……!」

 ぴたりと、青星の動きが止まる。身を縮めて、行く末を見つめる。

 強ばり始めていた面立ちが、ゆっくりと解けていく。青星は、眉根を寄せて、微かに笑んだ。

「……朕は、いつもそなたを泣かせているな」

 青星が、静かな所作で、立ち上がる。涙する心の声と重なって、淡々とした口調が告げる。

「里下がりしたければ、いつでもするがよい。身の潔白は、朕が保証しよう」

 そうして、若竹を伴って、宵闇の中を去っていった。

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