真神の社 三の節

 明けた朝、いつも通り、身を清め、本殿を参拝した。

 眠たかった祈祷の時間も、大御巫おおみこをよすがに、白梅しらうめを思い出せば、ときめくひとときに変貌した。

 母を語る、あの優しい微笑み。なんと愛らしく、胸の高鳴る光景だろう。

 内裏に出仕する雌童めのわらわ達と、恋の真似事をしてみても、これほどに心弾むことなどなかった。それに、あのえもいわれぬほどに、芳しい匂い。

(ああ、きっと……まことの伴侶にちがいない……きっと、きっとそうだ……)

 神々から似姿を賜って以来、血を繋ぐために、高位の雄は、多くの雌を娶るようになった。しかし、唯一の伴侶と生涯をともにするのが、そもそものさがである。

 そして、その伴侶に出会えたならば、至上の幸福を得るという。ありとあらゆる全てが輝き、心躍って胸が高鳴り、まさに常春の境地である――と。

 今度はいつ、機会が巡ってくるだろうか。早く、会いたくてたまらない。

 ほのかで控えめな声。あの可憐な響きを、ずっと聴いていられたら。あの紅に染まった白い頬に、触れられたら。

「――東宮様」

 ふと呼ばれて、耳を向ける。託宣を終えた大御巫が、穏やかに語る。

「かの小さき花は、大御神おおみかみ様が、わたくしにお託しになられた尊き子。乳飲み子の頃より、慈しんで育ててきました。わたくしのきしのちには、〈要〉の巫子みこに選ばれましょう。そのこと――どうかくれぐれも、御心にお留めおきくださいませ」

 ぎょっとする。思わず、尾を振るってしまう。

 父の、冷たい眼差し。静かな声が、問いかける。

「大御巫様。はたして、このままでよいものでしょうか。これは、確かに才はあるが――いささか驕りが過ぎる。何よりも、うらの通りであるならば、なおのこと。我が望みは……やはり、叶いませぬか」

「親なれば、子に、喜び多き道を歩ませたいものでございましょう。しかしながら、全ては、神々の思し召し。宿命さだめは、受け入れなければなりません」

 父の横顔に、落胆が滲む。意外な心地で、おもむろに礼をする姿を眺める。

「――尊き大御神様のまにまに。本日の託宣、謹んで拝受いたす」

「本日も、どうぞ、よく励み、よくお勤めなされますよう」

 優しく慮る微笑み。白梅と重なって、惚けかける。突き刺さる視線に、慌てて頭を下げた。


 その日の昼下がり、待ち望んだ機会は、思いがけずやってきた。

 さすがに、同じ手は効かないと、寝転びつつ考えを巡らせていると、若竹が、口を開いたのだ。

「……お出かけになられるのでございましたら、わたしも、お供いたします」

 苦渋に満ちた声。溜め息を憚りもせず、しかめた顔が告げる。

「あれの好きにさせよ――との、御聖旨でございますれば」

「……え……主上おかみが……?」

 思わず呆ける。

 どういう風の吹き回しだろう。もしかして、今朝の大御巫とのやり取りと、関係があるのだろうか。

 占で示された宿命。確かに、帝に子が生まれると、かみの社に知らせて、行く末を占わせる。皇子みこであれば、東宮にふさわしいかなど、かなり詳しく調べるのだ。

 しかし、父から、結果を聞いたことはなかった。出産が元で、命を落とした母の話を周囲から漏れ聞くにつけ、尋ねてはいけない気がしていた。

 幸運にも、まことの伴侶だった両親。

 父が東宮だった頃から、仲睦まじく、誰もが微笑む光景だったという。そして、母は、降嫁した先帝の姉宮の二の姫で、きさいに立てるにも、申し分なかった。

 最良の伴侶を得て、父は才覚をいかんなく発揮し、即位ののちは、英明と讃えられる帝となった。

 まさに、理想的な巡り合わせ。

 だから、ふたりを突然襲った悲劇に、宮中で涙しない者はいなかった。

 そうして、新たに立てた后を厭わず、温かく慈しむとは、なんと立派なことかと、むせび泣くのだった。

(……だから、きっと……父上は、わたしにつめたいのだ……)

 唯一の伴侶を殺めた。引き換えに、皇子を得たところで、子はいくらでも生まれるのだ。一体、何の慰めになろう。

 悪い占でも、もはや如何ようにもなれ、ということなのだろうか。父の心など、わかるはずもない。

 起き上がり、改めて若竹を見遣る。毛並みは灰銀だが、なんとかなるだろう。

「さすれば、ついてまいれ。じゃまはするなよ」

「……承知つかまつりました」

 大きな溜め息。忌憚のなさがおもしろくて、にんまりと笑んだ。


 似姿で歩いていくのは、それなりに時間がかかったものの、思うほど遠くはなかった。

 板戸にたどり着いて、桟に手をかける。しかし、がたと音がしただけで、全く開かない。何度押しても、同じだった。控えて立つ若竹が、淡々と話す。

「かぎが、かかっておりますね。東宮様、戻りましょう」

「そんな……どうして……っ」

 昨日は、あれほどにも親しく語り合った。身の上も、話してくれた。それなのに、締め出すなんて、酷い仕打ちがあるだろうか。

 大御巫の言葉が、頭をよぎる。

 あるいは、養い子から遠ざけるためか――しかし、阻まれるいわれはない。

「白梅さま! いらっしゃるのでしょう⁉ どうか、ここを開けてください!」

 板戸を叩いて叫ぶ。若竹の厳しい声が飛んでくる。

「東宮様、おやめあそばされませ! いかにご随意にとて、度が過ぎます!」

「いやだ! そなたになど、わかるものか! だって、だってっ……!」

 白梅は、真の伴侶なのだ。漂ってくる匂いが、そこにいると知らせているのに。この声が、届いているはずなのに。

(会いたい! 会いたい! 白梅……!)

 もっと近くで、あの可憐な笑顔を眺めながら、胸いっぱいに収めたかった。寂しくて、切なくて、たまらない。身を打ち震わせて、名を呼び、乞い願う。

 揺らめく匂い。奥へ行ってしまうのかと、涙が滲む。

 しかし、ややして、より強く香ってきた。期待に声が弾む。

「白梅さま、わたしです! あおぼしです! あなたに会いにまいりました!」

 戸の向こうに立つ気配。濃密な芳香に、頭がくらくらする。期待に胸を躍らせて、その時を待つ。

 淡い声が、戸惑いがちに告げた。

「……きのうきりと、おやくそくいただいたはずでございます……どうか、おゆるしくださいませ……」

 確かに、そうだった。ただ、それならば、どうして微笑みなど、向けたのだろう。冷たく接してくれていれば、諦めもついたというものを。

「東宮様。もう、いい加減にあそばされませ。先方は、お困りでございます。宿所に戻りましょう」

 いささか苛立ちの混ざった声。振り返って、睨み据える。

「じゃまはするなと、もうしたはずだ。それとも、官職はいらぬとな?」

「……まことに、いかがされたのでございますか。宮中での御身は、そのような御無体を仰せにはなられませんでした」

 それは皆、只者だからだ。白梅は特別なのだ。これほどにも、心が掻き乱されたことなど、今までなかった。

 口元がわななく。泣くなど、雄子おのこがみっともないと思っても、身を切るような悲しみが、どうしようもなく湧いてくる。

(いやだ……このまま、会えないなんて……)

 それでも、臣下の子に、泣き顔は見られたくなくて、涙を飲み込む。閉ざされた板戸を、切なく見つめる。

 と、かたんと、硬い音が鳴る。軽く軋みながら、目の前が開ける。

 純白の景色。眩しそうに細まった、真朱の瞳。慮る声が告げる。

「……どうぞ……青星様……」

 名を紡ぐ音色が、耳に甘く響く。尾を振り回して、歓喜に笑む。

「ありがとうございます。お会いできて、これほどうれしいことはございません」

 さっと、白い頬が赤く染まる。あこめの袖を口元に当てて俯く、可憐さ。晴れやかな心持ちで、庭へと足を踏み入れた。


 顔が、どうしようもなく熱い。

 燦々と輝く、はなだいろの瞳。あどけなくも、凛々しい面立ち。甘い言葉を紡ぐ、涼やかな声。真っ直ぐな好意が、心から聴こえてくる。

 気を確かにせねばと思っても、とくとくと、胸が高鳴ってやまない。雄子と話す――あまつ、姿を目にすることすら、初めてだからだろうか。

 密かに、横目で、灰銀の雄童おのわらわを見遣る。

 淡々とした眼差し。しかし、心の声は、大切な東宮をたぶらかしたと、敵意に満ちていた。

 社には、様々な雌子めのこがいる。当然、雄子も様々なのだ。

(……しっかりするのよ、白梅……さもなければ……)

 母の語った占が、心に浮かぶ。

 ――大いなる冬星ふゆぼしの名を授かりし皇子、豊葦原とよあしはらの命運を握る。吉星となれば、豊葦原は、永久とわに富み栄え、凶星となれば、命なき呪われし地とならん。星の吉凶は、白き巫子みこの導くままに――。

 己に課せられた宿命は、国を左右する重大事なのだ。間違っても、青星を恋慕い、結ばれたいなどと、願ってはいけない。

 それでなくとも、釣り合いすら取れない身の上である。

 青星は、真の伴侶だと確信しているようだが、東宮が娶るべきは、皇族や大臣といった高貴な身分の姫である。

 巫子は力があるからこそ、崇敬されるのだ。化身もできない半端者に、居場所などない。

(わたくしは斎子いむこ……この豊葦原を、とこしえにさかえる地へとみちびく巫子となるのだから……)

 心中で何度も繰り返しながら、ときめく胸を抑えた。

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2024年11月30日 20:00
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神狼物語【中編】 清水朝基 @asaki0530

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