真神の社 二の節
「ねえ、
「なりません」
決然とした返答。尾は、従順に床に伏せっているのに、全く頑なだ。
即位したら冷遇してやるなどと、理不尽なことを考えてみる。これほど帝に忠誠心の厚い者を、そんな扱いにできるはずもないのだけれど。
社に到着して四日目。外といえば、本殿の参拝、湯浴みと厠、日光浴だけだった。
日の光は、
辛抱たまらなくて、自らの尾を、ぐるぐる追いかける。みっともないなど、もはやどうでもよかった。動いていないと、もうおかしくなりそうだ。
さすがに目が回ってきて、勢いのままに倒れ込む。
ゆっくりと巡る天井。こんなにも大きな音を立てても、父は現れない。
気配や物音で把握しているのか――内裏であれば、誰かしらが
(……帰りたい……)
ぬくもりが、微笑みが、恋しかった。ここはなんと、冷たい場なのだろう。
それでも、と思い直して、身を起こす。気がかりを解消せずして離れるなど、到底できない。
「……東宮様。どちらへ?」
「かわやだ。いちいち問うな」
不審に思う面立ち。しかし、この理由なら、引きとめることはできない。
控えて歩く気配を感じながら、簀子縁を黙々と進んだ。
鼻先で掛け金を外す。淡く鳴る、硬質な音。開いた扉の隙間に、身体を滑り込ませれば、振り向きかけた若竹と出会う。
はっとした面立ち。何事かを発する前に、すかさず回り込んで、灰銀の尾を甘噛みする。
「――ひあっ⁉」
途端、腰を抜かして、へたり込む。しばらくは、声を出すこともできないだろう。
それでも、用心するに越したことはない。煽りたい気持ちを抑え、一目散に駆け出した。
初日と同じ道をたどると、やはり、簀子縁で陽光を浴びる姿があった。弾む心で、声をかける。
「
ぴんと、純白の耳が立つ。目を凝らしてすぐさま、深々と
「どうか、こちらには、おこしになられませんよう、切に、おねがい申し上げます。――東宮様」
思いがけない呼びかけに、立ち止まりかける。
確かに、白銀の毛並みは、帝に連なる者の証だ。しかし、先日は、何の疑問も持っていないようだった。急にどうしたというのか。
「……わたくしの目には、御光がまぶしすぎて、ものがよく見えないのです。その代わり、相手の心が、声となって、聴こえるのでございます。そして、こちらは、
恐縮して下がりきった耳を見つめる。
神々に最も近い証である、純白の毛並み。
そういった力を持っていても、全く不思議ではなかった。
ただ、もっと声を聴きたかった。可憐な顔が笑う瞬間を、見たかった。態度が遠く離れただけで、こんなにも苦しいのに、このまま別れてしまうのは、嫌だった。
「……わたしは、東宮ではございませんよ、白梅さま。もうしおくれてしまいましたが、わたしの名は
逡巡するように、微かに震える吐息。ただ静かに待つ。
淡い声がこぼれて、問いかける。
「……今回きりと、おやくそくいただけますのなら……」
一瞬ためらう。しかし、若竹があの調子なら、また訪ねられるだろう。その時に、再び考えればいい。
しっかりと頷いて、請け負う。
「わかりました。――上がっても、よろしいでしょうか?」
いささか困ったように、小さな耳が動く。しかし、顔を上げて、どうぞと、白い手が指し示した。
「かようなところまで。それでは、話しづろうございます。どうか、こちらに来てはいただけませんか?」
おもむろに、衣擦れの音が揺らめく。簀子縁との境で座り直して、淡い声が乞う。
「……こちらで、おゆるしください。これ以上、御光を拝見いたしますと、目がやけてしまいます」
できれば隣合いたかったけれど、可哀想なことはできない。忍耐して、承諾を伝える。
ほっと、ほころんだ面立ち。あまりに愛らしくて、思わず尾が跳ねる。真朱の瞳が瞬き、白い頬が紅色に染まる。それだけで、心が躍った。
「あなたは、なんてかわいらしいのでしょうね。都中をさがしても、あなたほど、うつくしく、かがやしい方は、きっといませんよ」
「……そのようなこと……わたくしは、いやしいいなか者にございます。都などにまいりましたら、道ばたの花よりも、きっと目立たないでしょう」
「けんきょなのですね。まこと、ますますあいらしい」
感じ入って微笑みかければ、長い睫毛が伏せられた。都の
それにしても、なんとよい匂いなのだろう。
日陰でも、白く輝く容貌もさることながら、この芳香はたまらなかった。身を寄せて、うなじを嗅げたらと、全身が疼いてやまない。
「……あの、青星様……?」
ためらいがちに呼ばれて、はっとする。浮きかけた腰を下ろし、苦笑いする。
「あ、いえ――あなたから、とてもよいかおりが、ただよってくるものですから。
白く長い睫毛が、不思議そうに瞬く。小首を傾げて、ほのかな声が答えた。
「薫物などは……ここは、尊き
確かにそうだった。しかし、本当に、よい匂いがするのだ。たまらない心地をどうにか抑えて、眉尻を下げる。
「あなたが、あまりにも、うつくしいものですから、きっと、わたしの目と鼻がつながって、かんちがいしたのでしょう。――それに、ほら」
庭を指し示す。立派な枝ぶりの梅が、蕾をほころばせていた。
「あなたの花も、今にも咲きそうですよ。満開ともなれば、きっと見事なものでしょうね」
「……その白梅をごらんになって、大御巫様は、わたくしに名づけてくださったのです。生まれて間もないうちで、名もございませんでしたので……」
純白の毛並みと肌。一歳まで待たずとも、奉納すべきだと、両親は、里の宮司に託したのだろう。
憐れな心地で、控えめに微笑む面立ちを見つめる。
「それでは――あなたは、ふるさとを知らぬまま……」
そっと、小さな顔が頷く。しかし、穏やかな声が、優しく語った。
「でも、さみしいと、思ったことはございませんわ。大御神様のお計らいで、わたくしは、大御巫様のおちちで育ちました。かのお方は、わたくしにとって、母に等しい方なのです」
「左様でございましたか――さすれば、ここが、あなたのふるさとなのですね」
赤い瞳が、瞪って瞬く。そして、おもむろに、笑みが広がった。
「――はい……」
まさしく、白梅のような可憐な光景。心が溶けて、胸が高鳴る。抑えようもなく、尾が振れる。この一瞬を絵巻物に綴じ込めたらと、切なく願う。
幸せに見つめていると、耳に違和感が引っかかる。鼻を向け、正体を探る。
白梅の類い稀な香りの中、揺らめく別の個体の匂い。この、秋草のような景色は――。
(――大御巫さま……!)
長袴が床を擦る音。まだ遠いが、さすがに鉢合わせはまずい。
しかし、白梅は、不思議そうに小首を傾げている。まだ察知できない距離なのだろう。顔を戻して、説明する。
「かのお方が、おもどりのようです」
途端、愛らしい面立ちが、申し訳なさそうに下がる。淡い声が詫びる。
「申しわけございません……気づかずに……」
「いえ、いたし方のないことでございますから――それでは、わたしはこれにて」
丁寧に礼をし、階で絲鞋を履く。地面に降り立つと、再び頭を下げた。
「……どうか、お気をつけて」
慮る声音。身を起こし、明るく微笑む。控えめな笑顔を目に焼きつけて、竹垣の板戸へと走っていった。
戻ってみると、意外にも、何もなかった。
急所を攻められて、腑抜けたことを恥じたのか――いずれにせよ、好都合にちがいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます