一の巻
真神の社 一の節
車を降りると、目の前には、長い石段がそびえていた。頂上の二の鳥居が、白く霞んで見えるほどだ。
圧倒されて、あんぐりしたまま眺める。隣に立った父の気配に、ようやく口を閉める。
「ここは、
「はい、
太古の昔、この
まだ、ただの狼だった先祖は、その姿に
こうして、
(……でも、一体どこまでつづくのだろう……)
四つ足であれば、こんな急な階段も、楽々登れるのに。
しかし、この豊葦原を統べる帝の
ようやく登りきって、ほっと息をつく。そして、次の瞬間には、疲れは吹き飛んでいた。
一点の曇りもない、白木の社殿。朝日を浴びて、無垢な光を放つ様は、まさに天と地を繋ぐにふさわしかった。
到着を知らせに走った
「お待ち申し上げておりました。ご案内いたします」
父が応えて、歩き出したあとに続く。
小さな背中で揺れる、
宮中にも、可愛らしい
しかし、この
今朝訪れたのも、無事に七歳まで生きられたことを報告し、政の是非を問うためだ。
託宣によっては、父は、進めている施策を転換しなければならない。折り目ごとの訪れは、帝にとって、何よりも重要な務めだった。
本殿の扉が、おもむろに開く。
父が挨拶を述べると、
顔を上げれば、しわの浮いた
それでも、祈りを捧げ、託宣を告げる姿には、えも言われぬ凄みがあった。高みの極致という点では、これもまた、美しさなのだろう。
おおむね宜しい、との評価を得て、長い祭祀が終わる。宿所に案内されると、厠と称して、抜け出した。
「すぐに、戻ってくるのだぞ」
と、父は釘を刺したが、初めての外なのだ。
しかも、
地面に膝をついて、意識を集中させる。
肉と骨が軋む感覚。痛くはないけれど、妙な気分になる。
衣が皮膚に貼りつき、髪が伸びて、全身を覆う。取りまく感覚が、急速に鋭敏になっていく。
似姿よりも、ずっと低い視点。しかし、それを補って余りある情報に、満たされる。
頭をひとつ振ると、意気揚々と駆け出した。
森の中をひた走る。小鳥や鼠などのおやつがあるかと思ったのに、しんと静まり返って、梢の音しかしない。
さすがに、本殿を横切るわけにはいかなかったから、社をぐるりと囲む森を行くことにした。ついでに小腹も満たせたら万々歳と、にんまりしていたけれど、神域では、そう都合よくはいかないらしい。
父も斎子も、敷地の北は立入禁止だと、話していた。本殿は西、宿所は南、出入りの門は東にある。とすれば、考えられる建物は、限られてくる。
少しだけ、垣間見られればいいのだ。神々に仕える暮らしというものを――化身と引き換えに、美しさと神宿りの力を得た、巫子達の姿を。
ふと、いい匂いが漂ってきて、立ち止まる。鼻を高く掲げ、大きく深呼吸すれば、なんとも言えない心地がした。誘われるように、微かな道筋をたどる。
急な眩しさに、眼を細める。
森が途切れて、竹垣がそびえていた。芳香は、その向こうからだ。出入口がないかと、垣に沿って、歩を進める。
ほどなくして、小さな板戸があった。身を震わせ、似姿に戻る。
思いきり伸びをすると、様子を窺いつつ、押し開けた。
嗅覚は、いささか落ちていたものの、もはや苦労しなかった。源が、そこにいたからだ。
息を呑んで、立ち尽くす。
簀子縁で座す、雌童。
その清らかさに、これ以上ないほど似つかわしい、可憐な横顔。血の色が透けた、丸い頬と豊かな唇。よくよく見れば――瞳も真朱だった。
白と赤だけの景色。胸が締めつけられて苦しい。触れてみたい、という思いが湧き立って、気づけば、足が動いていた。
白い面立ちが、はっとこちらを向く。どの角度も美しいのだと、妙な高揚を覚える。
しかし、装束の袖で顔を隠し、腰を上げたのを認めた途端、我に返った。
「――まって! 行かないで!」
必死さが伝わったのか、ぴたりと止まる。か細い声が、囁いた。
「……どなた……? どうして、こちらに……」
改めて問われて、逡巡する。
きっと、正直に名乗れば、宮中の者達と同じ態度になる。せっかくここまで来たのに、そんな窮屈なことはしたくなかった。
「東宮さまのご用をおおせつかって、もどろうとしたら……まよってしまいまして」
「まあ――それは、たいへんでございましたね」
袖が下がる。心から、気遣う表情。見惚れかけて、はっと気を引き締める。
「あなたは斎子ですよね。ということは、こちらは、外院でしょうか?」
「いいえ。こちらは――」
はたと、鈴のような声が止まる。少し困ったように首を傾げて、言葉が継がれる。
「かなり、おくまったところにございます。だれかに見つかりましたら、さわぎになりますから……どうぞ、お早く。そちらの板戸から出て、竹がきを東に行きましたら、門に着きます」
急な態度の変化に戸惑う。いつもなら、他者の心など、手に取るようにわかるのに、この斎子は、全く読めなかった。
もう少し話したいと、話題をひねり出す。
「あの、せめて名を。ご親切にしていただいたのに、何も知らないでは、恩知らずになってしまいます」
途端、繊細な白い眉が寄り、赤い瞳が伏せられた。気まずい沈黙が流れる。
この顔で微笑めば、大抵のことは叶う。世辞ではない崇敬の眼差しで、皆、喜んで応えるのに、どうしたことだろう。だからといって、せっかくの好機を逃したくなかった。
さやさやと、囁き声。聞き返すと、ためらいまじりに告げられた。
「……
優美で繊細な、初春の花。感動に打ち震える。
「あなたのためにこそある、よい名ですね。――せっかくのご縁です。今少し、語らいませんか?」
勢いをつけ、簀子縁のふちに腰かける。しかし、白梅は、なめらかに下がると、深く礼をして言った。
「……どうか、おゆるしくださいませ。この身体のために、わたくしは、長く日に当たれないのでございます――そろそろ、中にもどりませんと……」
そんな憐れなことがあるだろうか。これほどに光輝く者など、この豊葦原を探しても、きっといないというのに。
しかし、そういう事情なら、無理をさせるわけにもいかない。潔く地面に下りる。
「わたしは、しばらくとどまりますので――また、お目にかかりましょう」
白梅は、
進んで承諾できないとわかっていたから、とりあえずはよしとして、宿所へと帰っていった。
(……どうしよう……)
大変なことになってしまった。まさか、東宮が、内院まで巡ってくるなんて。当人は、雄童だと名乗っていたが、聴こえてきた声は、偽りだと告げていた。
満ち溢れた自信。戯れたいという疼き。機会を惜しむ、もどかしさ。
ただの雄童が感じるには、あまりにも尊大だ。そして、隣合った時に、はっきりと見えた、その姿。
眩しかったのは、昼間だったからだけではなかったのだ。
照日大御神の象徴である陽光をたっぷりと浴びて、皇子は燦然と輝いていた。朧気に見えていたのに、どうしてすぐに奥へと下がらなかったのだろう。
とくとくと鳴る、胸を押さえる。本当に、困ったことになってしまった。
真っ直ぐな好意。高揚。玲瓏な声。ただの雌子なら、夢心地で喜べただろう。しかし、この身は、神々に捧げられた供犠だった。
(……しっかり、しなきゃ……そうでなければ――)
生まれは、辺境の寒村だと聞く。社を穢したとなれば、必ずや追い出される。
そして、受け取った
暗がりの中、南西の方角を向く。
夕べ見た、恐ろしい夢。
覆い被さる影は、確かに東宮だった。見目麗しく成長し、美丈夫となった、一の皇子。主上と呼んでいたから、帝となったあとだろう。
ただ、その顔は、凄まじい形相だった。怒りと悲しみ――それから、知らない感情。理由はわからないが、泣き叫んで、拒んでいた。
畏怖ではない、純度の高い恐怖。必死に抵抗していた、あの場面は、一体何だったのだろう。
(……ただの、ゆめでありますように……どうか、どうか――)
静かに座し、書を読む父の傍らに、腰を下ろす。視線は落としたまま、父が口を開いた。
「随分、長い厠であったな」
「とちゅう、道にまよってしまいましたので」
ふんと、父が鼻を鳴らす。高々と上がる、白銀の尾。針のように逆立った、鋭利な毛。思わず、尾が下がる。
「偽りを申すか。
ぎょっとする。念のため、少し離れた場所で化身したのに、察知してしまうとは。
尾を完全に床につけて、腰に添わせる。威儀を正し、
「まことにもうしわけございません、主上」
刺さる視線が痛い。おもむろに、耳が伏せっていく。
父が、隅に控える雄童を呼びつける。そして、進み出て礼をした姿に、冷たく命じた。
「朕の世話はよい。逗留中、東宮から目を離さぬように」
「――承知つかまつりましてございます」
雄童が、恭しく低頭する。面倒なことになったと苦る。
あと九日、ただただ座して過ごすなんて。こんなことであれば、都の方が、よほど刺激的だ。遊び相手に事欠かないし、講義だの稽古だのと、何かと予定が巡ってくる。
控えの位置に戻った雄童を、ちらりと見遣る。
濃い
(……うーん、だめそう……)
心中で溜め息をついて、ひとまずその場を丁重に辞した。
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