日常に少しのスパイスを

幸まる

本日も平和なり

「はぁ……」


領主館の子供用広間で、午後のお茶をしていた領主の子供たち、第四子五歳のアントニーと第五子四歳のエミーリエは、目の前で悩まし気に溜め息をついた領主奥方母親を見て眉を下げた。


「お母様、何か良くないことがあったのですか?」


アントニーが尋ねると、エミーリエはぴょんと椅子から降り、母の膝に寄り掛かった。


「どこか痛いのですか、お母様」

「まあ。大丈夫、何でもないのよ二人共。少し考え事をしていただけ」


奥方は「ごめんなさいね」とエミーリエを膝の上に抱き上げ、彼女のふわふわの金髪を撫でた。




お茶の時間を終えて、夕方までの座学の為に部屋に戻ろうとしていたアントニーは、ふと足を止め、後ろに付いて歩いていた専属侍女のコリーを見上げた。


「ねえ、コリー。お母様とお父様は、ケンカされているのかな……」

「何か気になることがありましたか?」

「ううん、朝食の時はいつも通りだったよ。でも、昼食はお父様は出掛けられてた」

「お仕事で出られていたのでは?」

「……そうなのかもしれないけど……」


食事の世話は給仕達が行う為、食堂での様子をコリーは見ていない。

たが、様々なことに敏感なアントニーには、何か感じることがあったのかもしれない。


コリーは、アントニーの深い空色の瞳を見つめる。

利発そうなその瞳は、どこか不安気に揺れている。

ぐんぐん成長していると言っても、このあるじはまだ五歳の子供なのだ。


「……それは気になりますねぇ。ちょっと、探ってみましょうか?」


コリーが身を屈め、アントニーに耳打ちした。

アントニーは、側にある彼女の顔に向けて小さく頷く。


「お願い」

「はい、坊ちゃま」


水を得た魚のように、コリーはニンマリと笑ってすぐに動き出した。





洗濯室にて。


「そういえば、この何日かはご夫婦別々にお休みだったねぇ」


洗濯室の古参のメイドが、太い腕で山盛りのシーツを抱えて言う。


「そうなの?」

「そうだよ。奥方様が月のものの時以外は、いっつも一緒にお休みなのにさ。おかしいなぁって思ったのさ」


毎朝シーツが下ろされてくる洗濯室には、そんな事情も筒抜けのようだ。


「やっぱり喧嘩されてるのかな?」

「何なに、お二人喧嘩されてるの?」


コリーが呟けば、若いメイド達が寄って来て、噂話に花が咲いた。




侍女達の控え室にて。


「そういえば奥方様、今朝旦那様に『もう、また貴方は……』って仰っていたわ」


今朝奥方の支度を手伝った侍女を捕まえてみれば、そんなことを言う。

コリーは身を乗り出した。


「何それ、何それ!?」

「よく分からないけど、そうしたら旦那様が、『たまのことなのだから、許してくれ』って」

「許すって、何を?」

「知らないわよ。それだけ仰ったら旦那様は部屋を出ていかれたもの」


侍女達は、基本的に女性と子供の世話をするので、成人男性の旦那様の事情までは、なかなか知れないものなのだ。


まさかの旦那様の話題に、他の侍女達も興味あり気に寄って来る。


「まさか旦那様、浮気とか……?」

「バカね、それならそんな堂々としてないでしょ」

「じゃあ何よ?」

「……ギャンブル? とか?」

「え〜? 旦那様が?」


今は領民思いの現領主旦那様も、若い頃は羽目を外しすぎて、前領主であった老紳士父親から廃嫡を匂わされたこともあるという話だが、それも本当のことかどうかは怪しいものだ。


そもそも、日々側に仕えているとはいえ、所詮侍女達は、殆どが平民だ。

貴族の事情などそうそう分からない。



結局、ありきたりの想像を口にしたところで、皆それぞれの仕事に戻って行く。


「ふ〜む……」


コリーは顎に指を置いて、首を捻った。





姿勢よく廊下を歩いていた従僕のカイは、突然曲がり角から伸びてきた腕に引かれて、体勢を崩した。


「わっ! コリー!?」

「しーっ!」


唇の前に人差し指を立てたコリーが、カイをそのまま大きな観葉植物の陰に引っ張り込む。

カイは、領主付き従僕の一人だ。


「何だよ、仕事中だぞ」

「大事なことなの! ねえ、旦那様、何で奥方様を怒らせたの?」

「怒らせた!?」

「しー! しー!」


カイは咳払いして、周囲を見回すと声を落とした。


「……奥方様は、怒ってらっしゃるのか?」

「こっちが聞いてるんだってば。何だかさ、夫婦間がギクシャクしてるっぽいって皆が噂しててさ」


カイは年齢より童顔だが、その表情を難しくして目を細めた。


「……俺の予想では、その噂は増長してるんだと思うね」

「何でよっ!?」

「自覚無しかよっ!」


思わず声が大きくなって、二人は互いの口を手の平で覆った。


数度呼吸をして、同じタイミングでゆっくりと下ろしたが、カイはそのままコリーの顎下に手をやって上向きにした。


「お前さ、本当に考えて口を開けよ。アントニー様の専属になってもうすぐ一年だろ。口が災いの元になってクビ…なんて、つまんねぇぞ」

「うるさいな。その坊ちゃまが不安そうだから、こうして聞いてるの」


コリーが顎に掛かったカイの手を払って、下から睨んだ。


「不安?」

「そうよ。あのね、子供って親の様子に敏感なの。大人が思うよりずーっとね」


噂話をする時の悪戯っ子のような表情は消え、コリーの真剣な眼差しがカイを見据える。

しかし暫くすると、それはフイと逸らされた。



「……はぁ、お前はホント相変わらずだな……」


カイはだるそうに前髪を掻き上げて、壁にもたれた。


「心配ない。いつも通り、ご夫婦仲は円満だ」

「本当に?」

「こんなこと嘘つくかよ。旦那様の用意された贈り物に、奥様が呆れられただけだ」

「贈り物って?」

「ドレス」


カイが肩を竦めるので、コリーは納得した。

旦那様は時折、思い立ったように妻に贈り物をする。

それらは大概衣服や服飾品であるが、彼自身が妻に身に着けてもらいたいと思う物で、妻の意向を反映した物ではない。

だからこそ、奥方が微妙な反応になっていたというわけだ。


「なんでも、王都で人気の店、半年先まで予約いっぱいのとこをさ、ご領地の南端の家門が繋ぎを取れるとかで、最新デザインのを手に入れたって」

「ああ〜…南端の……」


コリーは苦笑いした。


先日、領内に逗留している周遊サーカスを一家が観に行った際、一緒に食事をした南端の家門の子息が、エミーリエに意地悪をしたのだ。

立腹していた領主夫人奥方の機嫌を取る目的で、その家門の家長が奔走したということか。



「そういうわけだから、心配ない……」


改めて言ったカイが、コリーの肩に手を伸ばそうとして顔色を変え、急いで壁から離れて姿勢を正した。

コリーが怪訝そうにした途端、後ろからよく通る高い声が響く。


「おやおや、アントニー坊ちゃまの側にいるはずの専属侍女が、どうしてこんなところに?」


振り返ると、そこには白い髪をキリと結い上げた、年嵩の女性が立っていた。


「じ、侍女長……!」


侍女長は、背中に棒でも入っているのかというようにピンと姿勢良く立ったまま、どこから出したのか分からない竹棒を右手に持ち、ピシリと左手の平を打った。


「領主夫妻の心配でなく、自分の心配が必要だねぇ、コリー?」

「ひいぃぃ……」

「カイ、もうすぐ業者が来ます。ご夫妻の寝室へ案内を」

「は、はい、侍女長」


急いで裏口へ向かうカイに伸ばしたコリーの手は、寂しく宙を泳いだのだった。





「こんなドレス、田舎領地でいつ着るというのですか」


夜、夫婦の私室では、贈られたドレスを侍女に着付けて貰いながら、姿見鏡の前で奥方が呆れ顔で笑った。

着ているのは紺と深紫の華やかなドレスで、大きく開いた胸元には、赤い石の連なる首飾りが光を弾く。


「王都の新年祝賀に着れば良い」


当然のように言った領主は、窓際の椅子にゆったりと腰掛けて、巻煙草を手にしたまま、着飾る妻を満足気に見遣る。


「私が自分で選びたいと思っていましたのに」

「それも良いが、君に一番似合うドレスを選べるのは私だと思うがね」

「まあ」


苦笑いしながらも、まんざらでもなさそうな奥方が、テーブルの上に置かれた衣装箱を指す。


「それで? あれも私に似合いそうだと購入されましたの?」

「そうだよ。これはこの田舎領地でも着られるだろう?」


箱の中に入っているのは、向こうが透けて見える程の薄布の夜着だ。


「なんなら、ドレスの後に試着してみないかね。新しいマットレスの寝心地も確かめたいだろう?」


最近ベッドのマットレスの具合が悪く、この数日は夫婦それぞれの私室で休んでいた。

今日業者が来て新調されたところだ。


領主が立ち上がって近付けば、軽く手を振られた侍女達は、心得たとばかりに静かに退室して行く。


「もう、貴方、こういったドレスは一人では脱げませんのよ?」

「知っているよ。だが、なら私が手伝える」


ふふと笑った奥方の腰に腕を回し、二人は唇を寄せ合った。





「もう、何が『喧嘩してるかも』よ。いつも通り熱々じゃない」

「またコリーにやられたわね」

「も〜あの子、とっちめてやらなきゃ」


退室した侍女達が、ブツブツ言いながら使用人部屋へ戻って行く。

その部屋で、コリーが既に侍女長から大目玉を喰らっていることは、この後すぐに知れるだろう。



これもまた、領主館の日常のことだ。




《 終 》


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