【おじいちゃんアクション短編小説】静かなる番人 - The Silent Guardian(約8,100字)

藍埜佑(あいのたすく)

【おじいちゃんアクション短編小説】静かなる番人 - The Silent Guardian(約8,100字)

●第1章:「古い写真」- 日常の中の違和感


 朝の散歩は、霜月惣一郎の日課だった。七十二歳になった今も、この習慣だけは欠かさない。いつもの公園のベンチに腰を下ろし、温かな朝日を浴びながら、惣一郎は深いため息をついた。


「おはようございます、霜月さん!」


 声の主は、近所に住む女子高生の倉持みのり。

 登校途中にいつも顔を合わせる間柄だった。


「おや、みのりちゃん。今朝も元気だねえ」


 惣一郎は穏やかな笑顔を向けた。みのりの制服姿は、まるで春の花のように明るく、清々しい。


「今日も書道部の朝練なんです。霜月さんも書道、されるんでしょう?  この前、お宅の玄関に掛かってた作品、すごく素敵でした」


「まあ、年寄りの道楽さ。みのりちゃんも頑張るんだよ」


 そう言って微笑む惣一郎の表情には、どこか深い懐かしさが漂っていた。


 みのりが去った後、惣一郎はポケットから一枚の古い写真を取り出した。三十年以上前のモノクロ写真。制服姿の若い警官たちが並ぶ中で、一際凛々しい表情を見せる青年が写っていた。


 その日の夕方、惣一郎は近所のスーパーで買い物を済ませ、帰路についていた。すると、いつもより遅い時間に学校から帰ってきたみのりの姿が目に入った。


「あら、みのりちゃん。こんな時間まで部活?」


「はい……でも、最近ちょっと気になることが……」


 みのりは言葉を濁した。その表情には、どこか不安の影が見え隠れしていた。


「何かあったのかい?」


「いえ、大したことじゃ……」


 みのりは強引に笑顔を作り、そそくさと立ち去ろうとした。その背中を見送りながら、惣一郎の目は鋭く光った。警察官時代に培った直感が、かすかな違和感を察知していた。


 その晩、惣一郎は古い日記を開いた。几帳面な字で記された過去の記録。特殊潜入捜査官として活動していた日々の記録だ。表向きは温和な市民を装いながら、闇の中で蠢く犯罪者たちを追い詰めていった日々。


「まさか、この歳になってまた……」


 惣一郎は深いため息をつきながら、机の引き出しから古い携帯電話を取り出した。


●第2章:「過去の影」- 明かされる秘密


 それから数日が過ぎた。惣一郎は毎朝の散歩で、意識してみのりの様子を観察するようになっていた。


 表情の微かな曇り、動作の小さな乱れ。かつての捜査官としての目は、異変を見逃さなかった。


「霜月さん、おはようございます……」


 その朝、みのりの声は普段より弱々しかった。


「どうしたんだい?  顔色が悪いよ」


「あの、実は……」


 みのりは周囲を見回してから、小さな声で話し始めた。書道部の顧問である佐伯先生の様子がおかしいという。生徒たちの私物に無断で触れていたり、部室に不審な人物が出入りしているのを見かけたり。


「でも、きっと気のせいだと思うんです。佐伯先生は優しい方ですし……」


 惣一郎は黙って聞いていたが、その目は徐々に鋭さを増していった。


「みのりちゃん、一つ訊いていいかな。佐伯先生は、いつから様子がおかしいんだい?」


「えっと……新学期が始まってからですかね。それと、部室の鍵が見当たらなくなったこともあって……」


 その言葉を聞いた瞬間、惣一郎の脳裏に一つの可能性が浮かんだ。


 その日の午後、惣一郎は自宅の書斎で古いノートパソコンを開いた。画面には三十年前の未解決事件のデータが映し出される。スクロールする画面に、「学校」「貴重品」「複数犯」というキーワードが浮かび上がった。


「やはり、あの手口か……」


 惣一郎は立ち上がると、クローゼットの奥から小さな金庫を取り出した。開けると中には、警察手帳と小型のデジタルカメラが収められていた。


「頼むぜ、相棒」


 惣一郎は静かにつぶやくと、カメラを手に取った。


 翌日、惣一郎は普段より早く公園のベンチに座っていた。手元には高校の校舎が見える位置に三脚を立てたデジタルカメラ。表向きは風景写真を撮る趣味の老人を装っていた。


 時刻は午前六時半。まだ誰も登校していない時間帯に、一台の不審な車が校舎の裏手に停まるのを確認した。


「ピント、合ってるかな……」


 惣一郎は老人らしく呟きながら、さり気なくシャッターを切った。車から降りた男性は、どこかで見た顔だった。


「マスターキーを持っているということは……」


 惣一郎は写真を確認しながら、記憶を手繰り寄せた。三十年前、都内の高校で連続して起きた窃盗事件。捜査の過程で浮上しながら、証拠不足で逮捕に至らなかった容疑者の一人。


 その時、携帯電話が鳴った。表示された番号は、三十年前の同僚、現職の警部・浅見からだった。


「久しぶりだな、霜月」


「おや、珍しい。何かあったのかい?」


「ああ。お前の担当地区で、気になる動きがあってな」


 電話の向こうで、浅見は深刻な声で続けた。都内の高校で、教職員を装った窃盗団による犯行が相次いでいるという。


「被害に遭った学校は三校。いずれも部の動費や部員の私物が狙われている。犯人は内部の人間を取り込んで、マスターキーを入手するようだ」


「そうか……」


 惣一郎は写真を見つめながら、静かに答えた。


「霜月、もしも何か気付いたことがあれば……まあ、あればでいいんだが」


「ああ、分かってる。老体に鞭打つつもりはないさ」


 電話を切った後、惣一郎は再びカメラのファインダーを覗き込んだ。朝日に照らされた校舎に、不穏な影が忍び寄っているような気がした。


●第3章:「静かなる戦い」- 潜入捜査の始まり


 その週末、惣一郎は学校でおこなわれている書道教室の見学者を装って高校を訪れた。


「失礼します。実はわたくし書道に興味がありまして……」


 佐伯教諭の表情が、一瞬こわばるのを見逃さなかった。


「あ、はい。どうぞ」


 部室の様子を観察しながら、惣一郎は気付いたことを頭の中で整理していった。不自然に散らかった書類、微妙にずれた机の位置。そして何より、佐伯の落ち着かない様子。


「先生は、いつから書道を?」


「え?  ああ、大学時代からです」


「失礼ですが、先生は臨書と創作、どちらを重点的に指導されているのですかな?」


「え?  ああ、両方まんべんなくです」


 佐伯の答えは曖昧だった。惣一郎は意図的に、さらに踏み込んだ。


「なるほど。私も若い頃は九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)を基本に……」


「はい、そうですね」


 佐伯は慌てて相槌を打った。しかし、惣一郎の目には、その反応の不自然さが明確に映った。九成宮醴泉銘は、書道家なら誰もが知る古典中の古典。その価値や特徴について、もう少し具体的な反応があって然るべきだった。


「最近の生徒さんは、どの筆を使われているんです?」


「ええと、普通の筆ですね」


「やはり、蘭竹は難しいでしょうか?」


「ああ、そうですね。蘭竹は確かに……」


 惣一郎は静かに目を細めた。蘭竹という筆は存在しない。自身が今場で作った言葉だ。それに頷く佐伯の反応に、確信が深まる。


「米法はいかがですか?」


「米法?  ああ、時々使いますよ」


 これで完全に分かった。米法とは「永字八法」の略称で、基本中の基本。その言葉の意味さえ理解していない様子は、明らかに不自然だった。


「そうですか。私も道具は一通り持っているんですがね。特に二十年前に求めた曲尺は、今でも大切に……」


 惣一郎は意図的に間違った用語を使った。曲尺は大工道具であり、書道具ではない。しかし佐伯は、それにも気付かず頷いている。


「先生のお手本、拝見できますかな?」


「あ、いや、今日は準備していなくて……」


 佐伯の額に、小さな汗が浮かんだ。


「そうですか。では、また改めて」


 惣一郎は穏やかに微笑んだ。その表情からは、先ほどの鋭い観察の痕跡は完全に消えていた。しかし、この短時間のやり取りで、彼の中の確信は揺るぎないものとなっていた。


 部室を後にする時、惣一郎は最後にもう一度、さり気なく問いかけた。


「そうそう、先生は古典の臨書で、どの時代がお好みですかな?」


「やはり、平安時代ですかね」


「平安時代の書と言えば、どなたの作品がお気に入りで?」


「そうですね……菅原道真でしょうか」


 惣一郎は静かに頷いた。菅原道真の真跡の書は、ほとんど現存していない。好みとして挙げるには、あまりにも不自然な選択だった。


 廊下に出てから、惣一郎は小さくため息をついた。かつての特殊潜入捜査官としての経験が、偽装の裏側を見事に暴き出していた。


「やはり、ただの教師ではないな……」


 夕暮れの校舎に、長い影が伸びていった。


 見学を終えて外に出ると、携帯電話が震えた。浅見からのメッセージだった。


『容疑者の一人、城島竜也の写真を送る』


 添付された写真を見て、惣一郎は確信した。朝方の不審な車から降りた男と同一人物だ。


 その夜、惣一郎は自宅で情報を整理していた。書き込まれたホワイトボードには、断片的な情報が並ぶ。


- 佐伯:新任教師、書道の知識不足

- 城島:前科あり、三十年前の未解決事件に関与か

- 被害:書道部の活動費、部員の私物

- 手口:内部協力者によるマスターキー入手


「やはり、あの事件の続きか……」


 惣一郎は古い写真を見つめながら、静かに呟いた。


 翌週、惣一郎は毎朝の散歩コースを変更し、学校周辺の監視を続けた。カメラは常に携帯し、不審な動きを記録していく。


「おはようございます、霜月さん!」


 みのりの声に振り返ると、その横顔には依然として不安の影が残っていた。


「みのりちゃん、最近の部活はどうだい?」


「実はその……部費の管理がおかしいみたいで。でも佐伯先生は、単なる計算ミスだって……」


 惣一郎は黙って頷いた。状況は予想以上に進行している。


 その日の午後、惣一郎は浅見に電話をかけた。


「浅見か。例の件で動きがあった」


 電話越しに状況を説明し、撮影した写真データを送信する。


「分かった。こちらでも張り込みを始める。だが、霜月。決して無理はするなよ」


「分かってるさ。今の私は、ただの市井の老人だからね」


 電話を切った後、惣一郎は再び写真を見つめた。表情は、かつての特殊潜入捜査官の顔に戻っていた。


●第4章:「記憶の中の約束」- 危機と決断


 事態が動いたのは、その三日後のことだった。


 早朝の公園で、惣一郎は不審な会話を聞いてしまう。


「明日の夜だ。全て用意したな?」


「ああ。マスターキーも手に入れた。警備員の巡回時間も把握済みさ」


 会話を交わす二人の男の姿。一人は城島、もう一人は見知らぬ男だった。


 惣一郎は即座に携帯電話を取り出し、浅見に連絡を入れた。


「動くぞ。明日の夜だ」


「了解した。だが、お前はもう……」


「分かってる。ただの老人の散歩に過ぎないさ」


 電話を切った後、惣一郎は深いため息をついた。その時、背後から声がした。


「霜月さん?  どうしたんですか?」


 振り返ると、みのりが立っていた。


「ああ、みのりちゃん。ちょっと考え事でね」


「最近、霜月さんの様子がおかしいです。何か、あったんですか?」


 惣一郎は一瞬、言葉に詰まった。そして、ゆっくりとポケットから古い写真を取り出した。


「実はね、みのりちゃん。昔の話なんだが……」


 夕暮れの公園に、二人の影が長く伸びていた。惣一郎は古い写真を、そっとみのりに差し出した。


「これはね、私が四十二歳の時の写真なんだ」


 モノクロの写真には、凛々しい表情の警察官が写っている。制服姿でありながら、どこか特別な雰囲気を漂わせていた。


「霜月さん、警察官だったんですね!」


「ああ。でもね、これは表の顔でしかなかった」


 惣一郎は静かに目を閉じ、かつての記憶を手繰り寄せるように言葉を紡いだ。


「私は特殊潜入捜査官、通称『影』という部署に所属していたんだ。普通の警察官のように制服を着て巡回するのではない。一般市民を装って、犯罪組織に潜り込む。そういう仕事さ」


 みのりの目が大きく見開かれた。


「時には教師として、時には会社員として……様々な姿に化けて、犯罪者たちの内部に入り込んでいく。でも、それは単なる演技じゃない。その人物として、本当に生きなければならないんだ」


 惣一郎の声は低く、しかし芯が通っていた。


「一番辛かったのは、善良な人々と関わる時だよ。私の正体を知らない人たちと友人になり、時には信頼関係を築く。でも、任務のためにはいつか別れなければならない。その度に、心が引き裂かれるような思いだった」


 ベンチの木目に沿って、指先でなぞるような仕草をする。


「ある時は、暴力団の資金洗浄を追って、六ヶ月間会計士として働いた。また、ある時は、危険ドラッグの密売組織を追って、三ヶ月間バーテンダーを演じた。その度に、新しい人生を生きるような気持ちだったね」


 惣一郎は、ふと空を見上げた。


「でもね、みのりちゃん。どんな姿を演じていても、譲れないものが一つだけあった。それは『正義を守る』という誓いさ。警察官として、人々の平和な暮らしを守るという使命感。それは今でも、この胸の中で脈打っている」


 みのりは黙って聞いていた。


「引退してからも、この目は街の異変を見逃さない。この耳は不審な音を聞き分ける。この勘は、危険の予兆を察知する。それは呪いのようでもあり、祝福のようでもある」


 惣一郎はポケットから、もう一枚の写真を取り出した。そこには、十年前に解決した誘拐事件の新聞記事が写っている。


「最近の私は、こうして公園のベンチで過ごすのが日課だ。通り過ぎる人々の表情、会話の断片、そして何より、この街の『空気』を感じ取っている。それが、かつての私の仕事のやり方さ」


 夕陽が二人の横顔を赤く染めていた。


「だから気付いたんだ。みのりちゃんの学校で、何かがおかしなことが起こっているということにね」


 惣一郎は静かに立ち上がった。その姿は、七十二歳の老人でありながら、どこか凛として見えた。


「私にはまだ、守れるものがある。守るべきものがある。たとえ、この体が年老いても、この魂の炎は消えない」


 みのりは惣一郎の横顔を見つめていた。そこには、温厚な老人の表情と、鋭い眼光を持つ捜査官の顔が、不思議な調和を保っていた。


「霜月さん……」


 空には、夕焼け雲が燃えるように広がっていた。


 みのりは真剣に聞いていた。その目には、驚きと共に深い理解の色が浮かんでいた。


「霜月さん……私、明日の夜も部活なんです。何か、おかしいことがあったら……」


「ああ、任せておきなさい。今夜は、いよいよ私の出番かもしれないね」


 惣一郎は静かに微笑んだ。


 翌日の夕刻、惣一郎は公園のベンチに座っていた。日が沈み始め、校舎の影が長く伸びている。携帯電話には浅見からのメッセージが入っていた。


『張り込み態勢完了。不審な動きを確認次第、すぐに動く』


 時計は午後六時を指していた。部活動の生徒たちが、次々と下校していく。しかし、書道部の明かりは消えない。


「霜月さん!」


 突然の声に振り返ると、みのりが息を切らして駆け寄ってきた。


「どうしたんだい?」


「佐伯先生が、部室に鍵をかけて出て行きました!」


 惣一郎の表情が一瞬、引き締まった。


「みのりちゃん、警察に通報してあるから。これからは私の指示に従ってくれるかい?」


 みのりは大きく頷いた。


 惣一郎は携帯電話を取り出し、浅見に状況を報告。その後、みのりと共に校舎の死角に身を隠した。


 日が完全に沈み、辺りが暗くなった頃。予想通り、城島たちの車が校舎の裏手に停まった。


「みのりちゃん、ここで待っていなさい」


「でも……」


「大丈夫。この老体にも、まだ少しは力が残っているさ」


 惣一郎は静かに立ち上がると、かつての捜査官時代の足取りで、音も立てず校舎に向かった。


 暗闇の中、三人の男が部室に忍び込もうとしているのが見えた。佐伯の姿もある。


 惣一郎は校舎の陰から、一部始終をカメラに収めた。そして、決定的な瞬間を待った。


 突然、部室から物音が聞こえた。


「誰かいるぞ!」


 城島の声が響く。惣一郎は即座に判断した。


「今だ!」


 懐中電灯の光が闇を切り裂く。同時に、待機していた警察官たちが一斉に動き出した。


「動くな!  警察だ!」


 混乱の中、佐伯が逃げ出そうとした。しかし、その行く手には惣一郎が立ちはだかっていた。


「もういい加減、観念したらどうだい?」


「どけ!」


 佐伯の声が、不自然に裏返る。


「まあまあ、落ち着きたまえ」


 惣一郎の声は、驚くほど穏やかだった。しかし、その目は暗闇でさえ鋭く光っていた。


「くそっ……!」


 佐伯は突然、右手でネクタイをはずすと、左手に巻きつけて殴りかかってきた。その動きは素人臭く、全身に隙だらけだった。


 惣一郎は、かすかに微笑んだ。


「やれやれ……」


 佐伯の拳が顔面を狙って伸びてきた瞬間、惣一郎の体が左に半歩ずれる。まるで風が吹き抜けるように、自然な動きだった。


「なっ……!」


 佐伯の拳が空を切る。その勢いで体勢が大きく崩れた瞬間、惣一郎の右手が相手の手首を掴んでいた。


「これは、合気道の基本だよ」


 惣一郎は静かに呟くと、掴んだ手首を軽く内側に捻った。同時に、左手で佐伯の肘を支点に、円を描くように導く。


「あがっ……!」


 佐伯の体が、自然な流れで前方に投げ出される。しかし、惣一郎は最後の一瞬で力を緩め、相手が大きな怪我を負わないよう調整した。


「これは、合気道の『小手返し』という技だ。警察学校で習う護身術の基本でもある」


 無様に転がった佐伯は、痛みに顔を歪めながら、信じられない表情で惣一郎を見上げた。


「お、お前……何者だ……!」


「私かい?  ただの散歩好きのお爺さんさ。ただし……」


 惣一郎は、ゆっくりと佐伯に近づいた。その足取りには、かつての特殊潜入捜査官としての威厳が漂っていた。


「若い頃は、少しばかり腕に覚えがあってね」


 月明かりに照らされた惣一郎の姿は、七十二歳の老人とは思えないほど凛としていた。その背後には、三十年の経験と鍛錬が作り上げた確かな実力が見え隠れしていた。


 佐伯は、もはや抵抗する気力も失っていた。


「諦めるのが賢明だろう。君の仲間たちも、もう警察に確保されているはずだ」


 惣一郎は、佐伯の手首を離すことなく、慣れた手つきで押さえ込みの体勢を取った。その動きには無駄が一つもない。長年の経験が生み出した、完璧な制圧技術だった。


 やがて、階段から警官たちの足音が近づいてきた。


「霜月さん!  無事ですか?」


 浅見の声だった。


「ああ、何とかね」


 惣一郎は、まるで孫の悪戯を諭すような、穏やかな表情を浮かべていた。しかし、その技の確かさは、紛れもなく現役時代と変わらぬものだった。


 月の光が、静かに廊下を照らし続けていた。


 事件は呆気なく解決した。城島グループは現行犯で逮捕。佐伯も共犯として連行された。


 後日、浅見から詳しい報告があった。これまでの被害校も含め、全ての証拠が押収されたという。


●第5章:「新しい朝」- 世代を超えた絆


 それから一週間後の朝。惣一郎は、いつものように公園のベンチに座っていた。


「おはようございます、霜月さん!」


 みのりの声が、朝の静けさを破った。


「ああ、みのりちゃん。今日も元気だねえ」


 みのりは惣一郎の隣に腰を下ろした。


「新しい顧問の先生、とても良い方なんです。本当の書道家だってことが、すぐに分かりました」


「そうかい。良かったねえ」


 惣一郎は穏やかに微笑んだ。


「霜月さん……あの日のこと、誰にも言ってません。でも、私、忘れません」


「ふふ、何のことかな?  私はただの散歩好きの爺さんだよ」


 そう言いながら、惣一郎はポケットの中の古い写真に触れた。若かりし日の自分が写る写真。そこには「正義は、静かに貫け」という言葉が添えられている。


「でも、霜月さん。これからも、時々アドバイスをいただけませんか?  書道のことも、それ以外のことも……」


 惣一郎は、ゆっくりと頷いた。


「ああ、もちろんさ。この公園のベンチで、いつでも待っているよ」


 朝日が二人を優しく照らしていた。七十二歳の元特殊潜入捜査官と、十六歳の女子高生。世代を超えた絆が、静かに育まれていく。


 惣一郎は空を見上げた。若い頃に選んだ道は、今でも自分の中で生き続けている。それは形を変えながらも、確かに誰かを守り続けているのだ。


「さあ、今日も一日が始まるねえ」


 惣一郎の言葉に、みのりは元気よく頷いた。公園には、新しい朝の光が満ちていた。


(了)

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