第11話 異界列車。

「これは……?」

 伊藤は貨物室に入ると、思わずそう口にしていた。

 怖気が背筋を駆け抜けていったのである。

 護衛にいる男たちを見るが、自分のような感覚を覚えた者はいないらしい。伊藤の反応に困惑しているのが見て取れた。

 それで確信した。

「危険だ。撤退します」

 その時に、突然に足元から白い煙のようなものが湧き出した。またたく間にそれは彼らの身体に巻き付く。

「蛇だ!?」と叫ぶ誰かがいた。

(蛇だと?)

 そう思った瞬間に、彼の身体に巻き付いていたものが白い蛇となった。南米の密林にはアナコンダなる大蛇がいるというが、あるいはこれのようなものかもしれない。 

それは瞬く内に五人全員の身体に巻き付き、身体を締め付けていた。

(これに、あの子は殺されたのか!?) 

 そう思った伊藤であったが、幾原女史は刺殺されたのだ。死体だって見た。彼が見誤るはずがない。

(違う。違うはずだ。彼女は――)

 そうすると、目の前にまた新たな煙が湧いた。

 今度は、その姿は柳葉刀を持った中国人の姿になった。

「これは、――」


雷の鎚よ!我が敵を討ち滅ぼすべしアブラカタブラ


 声と共に、紫電が薄暗い大気の中を走り、中国人を打った。そして同時に彼らを縛る白い蛇が

「一体、何が……」

「エクトプラズムね」

 と言ったのは、貨物列車の外で待たせていた少女だった。彼女はクマのぬいぐるみを抱えたままで中に入ると、少女らしからぬ冷酷な眼差しで満鉄職員たちを眺めて、ほっと一息つけた。

「エクトプラズム……というと、英国の心霊科学でいう……」

 不定形な霊的な物質のことだ。

「この国ではなんというのかは知らないけどね。あんなに濃く実体化したものは、私も久々に見るわ」

「あなたは…………」

「アメリカ中央情報局、大連支部のメアリーよ」

「――――」

「知らなかったの? 満鉄調査部は大陸随一の情報機関だという噂だけど?」

「いえ……」

 満鉄調査部は各情報部の異能の使い手たちも調査はしていて、アメリカの擁するメアリーという魔女のことも、突き止めてはいた。だが、肝心のその容姿までは解らないままだったのだ。フルネームも何も解らない。

 伊藤が深入りを避けたというのもある。幾原女史のような有能かつ密偵にむいている人材もほとんどいないのに、下手なことをさせて人材を消耗させるという愚は犯せないのだった。

「あなたが噂の、魔女メアリーでしたか」

「その呼び方は、好きではないけれどね」

 そうして女優のように肩をすくめてみせた。どうも見かけどおりの歳ではないらしい。

「しかし、あなたがどうして私たちを?」

「あなたたちの仲間の女の子? あの子を見殺しにしてしまった借りを返すため――と、やっぱり私は、人が死ぬのは好きではないから……」

「……なるほど」

 聞けば、メアリーは幾原女史を一瞥して術者であると見抜いて、反射的に逃げてしまったのだという。

 彼女は、逃亡者であった。

 事件に巻き込まれたくないと考えた彼女は、とりあえず満鉄で新京、そしてハルビン駅にまでいき、そこからカナダにまで船便で逃げるつもりであったのが、満鉄の中でそうめったにいない術者を見かけ、ついつい走ってしまった。

 幾原女史は彼女の正体に気づいてなかったが、なんだか怪しい挙動には違いなくそれで反射的にこちらも追っていった。

 追いかけっ子はしばらく続いたが、やがて貨物室に逃げ込んだメアリーは、そこで術を使ってしまい、応戦した幾原もまた――

 それで、この術を発動させてしまったのだという。

「なるほど。逃亡というなら亡命先について――いや、それは後でいいですね。この術がどういうものか解りますか?」

 メアリーは俯き。

「恐らく、荷物の中のどれかに、近くで術の気配があれば働く魔術がかかってあったのよ」

 どの系譜に連なる術かまでは解らなかったが、どのような術かは解る。エクトプラズムを操り、短期間だけ周囲にいた人間に襲いかかり、その人間の恐怖心に応じたものに変形していく――そういう類のものだ。

「恐怖が実体化して、攻撃してくる……ということは」

「彼女は、ここで盗賊の姿を想像してしまったのね」

「それで……」

 暗闇の中から刃を掲げて襲いかかる者に、何度か遭遇したことがあったのだろう。多分。

「それで殺された彼女を見て、悲鳴をあげてしまったと」

「……そうよ」

 悲鳴と共に発せられた声で、魔術を一時的に打ち破ることができた。魔女の声には魔力が宿るのだ。

 それで這々の体で逃げ出したところを職員に見つかり、保護されて――

「いや、それだと時間が合わない。死体はすでに三十分は経過してたと聞きましたが?」

「それは、この術が守っているモノの仕業ね。多分、死体から精気を吸い取るような何か……だったんだと思う」

「――――」

「精気を奪われた死体は、通常より乾きやすくなるわ。見つけたのが一時間遅かったら、彼女の遺体は木乃伊になっていたかもね」

 メアリーはぬいぐるみを「はい」と伊藤に手渡し、両手をぺたりと貨物列車の床につけて、何事か不気味な呪文を唱えた。

 すると床が黄色い紙の札でいっぱいに覆われた。いや、床そのものが札になったかのようだった。

 それの一枚一枚には『勅令』と朱色の字で書かれ、その下には奇妙な絵ともつかぬ文字で書かれていた。

「これがその術よ。解るようにしてみたわ。道教タオの方士が使うものによく似ている」

「…………私は術にはそこまで詳しくはありませんが、これが、先程の幻を生んだりしたのですか?」

 伊藤の言葉に、メアリーは「ちょっと違う」と言った。

 それだけで、何故か背筋に震えが走った。

 いや。

 これは。

「…………ちょっと迂闊なことをしたわ。この術の札、多分、複数の効果をもたせるために、こんなに変な字が書かれているのだと思う。その一つがエクトプラズムで相手を殺す罠。それ以外は、守っているものを隠すため。あと、それの力を封印すること、かな」

「迂闊なこと、というのは!?」

 伊藤は、思わず声が上ずらせていた。本能的にまずい状態になったということに気づいたのだ。

「…………えーと。」

 メアリーは顔を逸らせて、ぼそぼそと呟く。

「ちょっと、その、怒らないでほしいのだけど……」

「怒らせるようなことをしたのですか!」

「……怒らなくても」

 じわりと目に涙をにじませた少女であるが、そう言いながらスカートのポケットから黒い手帳のような小さな本を取り出していた。

「なんだか、もしかしたらだけど、それの封印を破ってしまったかも――――」

 その言葉の直後、貨物列車の奥底から雪崩のように白いもやが溢れ出て、彼らを飲み込んだ。



「――――ふむ」

 王様は顔をあげた。

 レイラはその直後に、背筋を駆け上がる悪寒を感じた。急激に体温を奪われたかのような感覚だった。全身が震える。

 しかし部屋の中にある石炭ストーブは、火が入ったままだ。

「な、何、なんですかこれ!?」

 両手で自分自身を抱きしめるレイラに、王様は「落ち着け」とだけ言った。

「どうやら俺たちはあたりを引いたらしいぞ」

「当たり、当たり……それは?」

「備えろ。

 扉の隙間から、白いモヤのようなものが入り込みだした。



「――――あら」

「どうしました、レディ?」

 酒を飲んだ後、自分の個室に同行してくれた美女と詩について語り合っていたテリーは、その美女が突然に壁の一点へと視線を向けたのを夢見るように見つめた。

 まるで猫のような仕草だと思った。

 なんだか猫って、突然に何もない方向を見たりするよね。

 そんなことを言ったような気がする。

 言わなかったような気もする。

 そのあたりの記憶がぼんやりとしているのは、直後にシースーメイの胸に顔を埋めたからだ。

「一体、」

「口を閉じて。鼻と耳を抑えて。あとあなた、十五分くらい、呼吸しなくても大丈夫?」

 シースーメイは真剣な顔と声をしていた。

「十五分!? 無理。無理ですよレディ! 人間は蛙じゃない」

「なんでそこで蛙?」

 不思議そうな顔をしたシースーメイであるが、微かに溜息を吐くと、懐から黄色い紙切れをとりだし、くるくると丸めて口の中にいれた。

 と、みるや突然にテリーの首に手を廻して抱きつき、口づけする。

「――――――ッ」

「これで、半時間は呼吸なくても大丈夫」

 そう言ったシースーメイは、何処からか魔法のように布を取り出し、ぐるぐるとテリーの顔に巻いた。

「いい? ずっと呼吸をしないこと。耳は自分の手で抑えて。あとお尻の穴を意識して締めて。あと、お臍は私が手で抑えといてあげるから、くれぐれも静かにしてね」

 有無を言わさぬ言葉にがくがくと頷き、テリーはシースーメイの横顔を見た。

 ずっと壁の方を見つめる彼女の横顔は、夢のように美しかった。

 

 突然、貨物列車の方から溢れ出た白い煙に、すわ火災かと騒いだ者たちは一瞬でそれに飲み込まれて意識を失った。

 

 いや、正しくは意識を失ったのではなく、意識が「浮いた」。

 それは、そのようにしか言えなかった。

 魂のようなものが肉体から離れた。

 

(なんだこれは)

(おかあさん)

(怖い)

(こわいよ)

(殺さないで、殺さないで!)

(ああ、神よ!)

(すみません。私が彼女を殺しました)

(おなかすいた)


 

「…………なんでしょう? 声が聞こえた、ような……」

 白いもやの中、視界が見えなくなったわけではないが、ぼんやりと霞む景色の中、距離を無視して届く誰かの声に思わず首を振り、見渡した。

「気にするな」

 王様はするりと腰の刀を抜いて、扉を開けて出ていった。

「お、待ってください!」

「時間がかかると、それだけ助かる命が減るぞ」

「! ――――これって、そんな危険なものなんですか!」

 ――――ならば早くどうにかしないと、と思ってから、レイラは自分の感覚に違和感を覚えた。

(どうしたのよ、私。いつからそんな人道主義に目覚めたわけ?)

 レイラは諜報員として、多くの非人道的な作戦に従事してきた。テロリストや敵とはいえ、アジトを爆破して鏖殺したことすらあるし、何も知らない、なんの罪もない民間人を事件に巻き込んで、あたら若い命を失わせたこともある。望んでそうしたことは一度もなかったけれど、それはただの言い訳でしかない。

 だから、今更一般人の命を心配するのもおかしなことだと思った。

 まず優先すべきは任務遂行のための環境かどうかの確認ではないのか。

「原因は解ります?」

 王様の背中を追いながら聞くと、「知らん」とにべもない。

「ただ、この空気には覚えがある。黄泉路が開いたのに似ている」

「黄泉路!?」

 そう言ってから、扉の外で倒れる乗務員たちの姿を見た。

「これは、――」

「これに飲み込まれて、魂が抜けたのだろう。この空気は生者にはキツい」

「え。」

 王様はこちらも見もせずにそういうと、すたすたと列車の廊下を歩いてゆく。

「それは、どういう意味ですか!?」

「その話は、後だ」

「本当に! それ絶対に話してくださいよ! ごまかしたりしないで!」

 自分でも思ってなかったほどに大きな声が出た。どうやら自分は相当に焦れていたらしい。今この場で聞きたいことは他にもあるというのは確かであるが、このことは絶対に後で聞かなければならないと思った。

「とりあえず、何者かが異界の道を開けたか、そこの空気が詰まったものを開けるなりしたようだな」

「……それって、例のあれですか? 王様を吹き飛ばしたとかいう……」

「他に思いつかんな」

 と言いながら王様の足は止まらなかった。一瞬立ち止まったレイナであるが、すぐに駆け出して追いつく。

「大陸での言い方だと、何になる? 陰の気だとか?」

 王様はひとりごちながら、歩くペースは衰えなかった。レイナにどう説明しようとしたものかを考えてくれているようでもある。案外と親切なのだろうと思ってしまった。

「とにかく、黄泉でも冥界でも、言い方はなんでもいい。だ、これは」

 そうして至った結論がそれであったらしいが。

「死、ですか」

 今ひとつぴんとこない。

「死の世界の空気、のようなものだ。人間が生きている間は陽の気を発しているように、死者は陰の気を発する。死の国はそれがみちみちたる場所だ。同様に、死者が増えていけば、そのような気配が周囲に満ちる」

 墓場に嫌な雰囲気があるのはそのせいだ、といってくれた。

「墓場の空気、ですか?」

「今は火葬もされるから、そうでもないか」

 火は浄化する。日の陽気は死者の陰気などをたやすく散らす。

 死者の陰気というのは、本来その程度のものである。墓場のように人の死体が集まる場所であっても、そのあたりは変わらない。夜でもなければ、死の気というのはさしたる脅威にもならない。

「今は日が上りきった頃だが、それでもこの気か」

 死の気は片っ端から陽光の中に消されていくはずであるが、列車の中という特殊環境のせいなのか、それとも発する者があまりにも濃密な死を体現させているのか、あるいはそのどちらもなのか。

「これだけの死の気の中では、生半の人間ではまともではいられぬ」

 それは、正気ではなくなるということだろうか。

「違う、が―――――」

 はじめて、立ち止まった。

 王様は抜いた刀を中段に構えた。

「ふむ。これはちと厄介だな」

 そう言った。


 目の前にいたのは、猛獣だった。


 体長2メートルはあろうかという、巨大な狼であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼哭戦線  奇水 @KUON

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ