緩やかな血
鹽夜亮
第1話 緩やかな血
私は腕を切る。
錆びた刃が皮膚を裂き、痛みは熱に変わる。刃を離すと、ゆるりと滲み、そして少しずつ流れ落ちた。
痛みはない。代わりに熱があった。ただ私は流れ落ちるそれを眺めていた。紅く、美しいそれは、血だ。柘榴を思わせる紅は、ツーッと一本の筋を描いて流れる。
呆けたようにただそれを眺める。
また一度、刃を皮膚に当てた。先ほどと同じ動作を繰り返す。先ほどと同じように、痛みは熱に変わり、紅い血がゆるりと滲む。そして流れ落ちていく。
ああ、私は。これほどまでに何も感じなくなってしまったのか。そこにあるのは熱と、流れ落ちる血と、ただそれだけだった。感情もなければ、詩情もなく、思考もなければ、感性もない。そこにあるのは、認識だけだった。
服が湿るのを感じた。流れる血は腕を這い、一筋の線となり、袖口で消えた。滲んだそれからは、紅色さえ消えていく。
ふとワインを連想した。なんと陳腐だろう、と思った。書き記すことですらない。咲いた皮膚に柘榴を思った。なんと陳腐だろう、と思った。これもまた書き記すことですらない。
刃を当てる。痛みは熱に変わり、紅い血がゆるりと滲む。そして流れ落ち、一筋の線となって、やがて袖口に滲んで消える。
何度繰り返しても、何も変わらない。感覚はある。連想も生きている。
だが、既に感受性が死んでいた。
この紅を、舐めてみようか。飲んでみようか。それとも傷口を広げて、いっそのこと齧り付いてみようか。そう脳に現れた酔狂は無意味だと切り捨てた。私はその行為に香りを感じ、味を感じ、食感を覚え、咀嚼するだろう。だが、それだけのことだろう。
生き永らえるということは、感受性を流れ落とし、失っていくことだ。後に残るのはつまらない生体反応と、認識に過ぎない。私はそれに意味を感じない。残るものがそれだけならば、私が私である必要などどこにもなかった。
数十年も前から、日々息をするごとに擦り減る感覚があった。私はそれを精神疲労や、寿命の使い減らしだと思っていた。今ならば違うと答えるだろう。
擦り減らしていたのは、この体に流れる唯一の、ただ唯一の誇りの感受性だった。
流れ落ちたそれをまた体内に取り込む術はある。皿にでも受けて、一滴も残さず飲み干して仕舞えば良い。滑稽な、あまりにも滑稽な抗いだ。一度形を変えたものは、二度と元通りにはならない。私はその修復…いや、原型の模倣に何の意味も見出すことができない。
喪失とは、失うことではない。二度と元には戻らぬことだ。付け焼き刃による修復は、延命措置に過ぎない。そこに価値はない。
感受性の喪失は、腕をゆるやかに流れ落ちる血のように、ゆるやかに、確実に進んでいく。それを鈍麻と生優しい言葉で包むのは、今の私には慰めにすらならず、ただ無意味だった。
時計の針が音を立てる。その度に感受性が流れ落ちていく。増えた腕の傷と、そこから流れ落ちる紅と共に。喪失される感受性の隙間を埋めるように、認識が、理性的な思考が、私の神域を侵していく。流れ落ちた血は、すぐに体内の造血によって生命活動にさしたる影響すら与えないだろう。
それでも、今この瞬間に皮膚から流れ落ちたその血は、二度と私の血管を流れることはない。その事実は、そのあまりにも当然な、ありきたりな事実は、確かに私を蝕むに事足りた。
私は流れ落ちる血を眺めている。
私は流れ落ちる感受性を眺めている。
時計は針を進めていく。
興が覚めた私は、煙草を買いに外へ出た。
…………….
緩やかな血 鹽夜亮 @yuu1201
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