思いつき短編

モニカ 白兎

隙間

 また、開いてる。

 背後から視線を感じて、振り返ったら案の定だ。細い暗闇が、こちらを見ていた。

「今日は襖か」

 引手に手をかける。と、酷い臭いが鼻をついた。

「あぁ、はいはい。今日はアンモニア臭ね」

 袖口で鼻を抑えながら、引手から手を離す。私は、またソファに座りなおすと、リモコンで再生ボタンを押した。後頭部に視線が刺さるが、それよりも映画の続きが気になった。

 エンドロールが流れる頃には、視線は消えていた。襖の前に立ち、また引手に手をかける。暗闇はそっと閉じられた。

 

 思い返せば、隙間が開くようになったのはいつからだろうか。高校生の頃の、教室のカーテンの隙間。中学生の頃の、食器棚の隙間。小学生の頃の、障子の隙間。

 初めて視線を感じたのは、五歳くらいだったろうか。夜、眠りにつこうと目を閉じた時に、強烈な視線を感じたのだ。何処からかと探すまでもない。天井だ。目を開けると、薄暗い中に一層暗く、壁と天井の角に隙間があるのが分かった。何かがいる。誰かが私を見ている。

 私は、絵本を片付けようとしていた母の後ろ姿に助けを求めた。

「おかあさん……。なんかいる。あそこ、うえ」

「あら?起きちゃったの?」

 母は、微笑みながら振り返った。その顔にほっとしつつも、不愉快な視線の存在を訴える。

「あそこになんかいるよ! 」

「何もいないよ」

 母は、被せるようにして言った。

「何もいないよ」

「おかあさん? み、見てよ……上に」

「何もいないよ」

 母は、微笑んでいた。しかし、決して上を見ようとはしなかった。母は、豆電球さえも消し部屋を真っ暗にすると、また私の傍に来て肩を優しく叩いてくれた。いつもの優しい子守唄に、心地よいリズム。私は納得がいかなかったが、その温もりに気付けば目を閉じていた。

 あれはきっと真夜中だったのだろう。ふと目を覚ますと、暗闇の中で母は椅子に上り、天井に手を伸ばしていた。母が振り返ったような気もするが、眠気に勝てず私はまた瞼を閉じたのだった。

 翌朝目が覚めると、天井の隙間は消えていた。いや、元から無かったのか、あったのか。普段気にも留めていなかったので、元の姿がどうだったかすらも分からない。母は、いつも通りエプロンを着け、私を起こしに来てくれた。

「おかあさん、てんじょうのすきまが……」

「なんのこと? まだ寝ぼけてるのね。さ、早く起きなさい! 今日は特別に、目玉ふたつの目玉焼きよ! 」

 母は、私に続きを決して言わせないし、聞かなかった。

 それからと言うもの、隙間は度々開き、こちらを見ていた。ガラス戸の隙間、風呂場の扉の隙間、果ては引き出しの隙間まで。

 優しい母だったが、隙間に関しては頑なに聞き入れようとはせず、私もそういうものなのだ、と受け入れる……というより、慣れていった。

 

 じっとりと品定めするような、時には舐るような視線も不愉快だが、もう一点、不快なことがある。閉めたり、逆に更に開けようとすると、いつもその隙間から拒むように悪臭が漂ってくるのだ。魚の腐った臭いだったり、髪の毛を焼いたような臭いだったり。明確に拒否されている、と分かる。手を離すとその臭いは消え、放っておくといつの間にか視線も消えるのだ。

 しかし、実家を離れてからというもの、月日を追うごとに、隙間は頻繁に開くようになった。慣れたとは言え、不快なことには変わりない。それに……。

「臭いが薄い……? 」

 映画鑑賞を邪魔されてから、五日と経たずして隙間は開いた。また、同じ押し入れの襖だ。引手に手をかけたが、昨夜のアンモニア臭よりもかなり薄いものだった。弱くなったのだろうかと、ふと思う。何が、どう弱くなったというのか。このまま閉めてしまおうか、いや、開けて正体を確かめるか……。引手に触れる手に力を込めた。じわりと、手に汗が滲む。

 

 ブーッ、ブーッ。

 

 唐突に、ローテーブルの上のスマートフォンが、低く鳴り響いた。驚き、引手から手を離す。スマートフォンを取ると、それは珍しくも母からのメッセージだった。

 「駄目よ」

 「えっ」

 通知の画面から見えた文字を見て、思わず声が出た。直後、母から電話がかかって来た。驚き、滑る指先のまま受信をタップする。

 「何時まで起きてるの! 明日は仕事じゃないの? 早く寝なさい。夜更かしは駄目よ」

 「お母さん!? あぁ、びっくりした……。何?急に。驚かさないでよ! 」

 「駄目よ、危ないことしちゃ。早く寝なさい」

 子供の頃のままの、優しい口調で諭すように言う。

 「危ないことって……。今家だよ、大丈夫だよ」

 ふと、後ろからの視線が消えたのが分かった。

 「眠れないなら、昔みたいに子守唄を歌ってあげようか」

 「はぁ? 何言ってんの。ていうか、何で起きてること知ってんのさ」

 母のつまらない言葉に笑ったが、母は構わず歌い始めた。久しぶりに聴く歌声に、つい笑みがこぼれる。いつもと違う隙間の様子に少し恐怖したが、スマートフォンから聞こえる母の声と、消えた感覚に小さく安堵のため息を漏らす。さっさと閉めてしまおう、と引手に手を伸ばした。

「駄目よ」

 母の声が響いた。

 「あっ」

 私は、隙間を閉めようとしたのだっけ。それとも、開けようとしたのだろうか。隙間の奥で、笑う口元だけがはっきりと見えた。

 母の子守唄は、遠くに聴こえていた。

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思いつき短編 モニカ 白兎 @kuratsukamoni

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