曇り切った空

真花

曇り切った空

 この人は一生ここから出られない。

 廊下を歩く椿つばきの後ろ姿を見付けた。初秋の小雨とは関係なく病棟は明るく、清潔で、少し乾燥していた。他には患者も看護師も誰もいないが、左右の病室には誰かが寝ていたり、処置をしていたりするだろう。茶色く傷んだ髪と怒り肩、上背に、僕は、椿さん、と、他のどこにも触れずに椿にだけ届く声を投げる。放物線を描いて椿の背中に当たり、椿の歩みが止まる。砂を捻るように振り返る。一見不機嫌な、だが、そこには何の感情も乗っていない顔で、睨むような何も見ていないような目をする。

「先生」

 僕は近付きながら会釈を乗せて、握手の出来る距離まで踏み込む。

「部屋に行きましょう」

 椿は頷いて静かに後ろに向き直り、体を揺らせて進む。自室の前に到着すると滑らかに右折して中に入った。四床室で、右奥のカーテンで区切られた範囲が椿のベッドで、椿の背中を追うように僕もカーテンの内側に立つ。椿はベッドに座って、僕も横にある椅子に腰掛けた。カーテンの端の隙間を閉める。空間の上も下も開いているが、僕達は密閉された。

「調子はどうですか?」

 椿はたっぷり黙って、僕を観察する。僕は目で押し返す。二人の視線は押し合いにならず、混じり合ってひとつの橋になる。橋の完成を見て、椿の唇が動く。

「私のことは、結子ゆいこと呼んで」

 橋を渡って来たのは急な切実だった。

「そうでしたね。失礼しました。結子さん。調子はどうですか?」

 椿は僕の呼びかけを咀嚼する。

恭一郎きょういちろう、今日は何の日だか覚えている?」

 考えても「普通の日」でしかなかった。黙考のジッパーをすぐに開ける。

「ごめんなさい。分かりません」

 椿は一瞬だけ顔を固くして、すぐに元の無表情に戻る。

「そんなものよね。私達が恋人同士になった記念日よ」

 担当になったのはいつかの四月だから、それとは別に設定されたのだろう。

「よく覚えていますね。何年前ですか?」

 今度は椿が考える。今から何を引き算しているのか。

「五十年前ね。ちょうど。忘れもしない、二十七歳の秋よ。私達は偶然出会って、でもそれは必然で、その日の内に恋人になった。あのときの胸の高鳴り、今も鮮明に思い出せる。でもね、恋のピークは最初じゃないわ。今よ。毎日最高を更新しているわ」

 僕はその頃まだ生まれていない。椿の最初の入院は確か二十七歳だった。それから人生の大半を病院の中で過ごしている。ここ十五年はこの病院にいる。左の脳で考えながら、右の脳では恋の告白の受け身を取る。椿の表情は変わらないのに、恋の気配が突風になって僕に吹き付ける。受けて立たない。曖昧に終わらせるつもりはなかったが、口を突いて、そうなんですね、と漏れた。

「そうよ。大事なのは今。でも、記念日は忘れちゃダメよ。そう言う、節目みたいなものがあるから、今がもっと輝くのよ。……ほら、声が聞こえるでしょう? 二人を祝福するって」

 僕には聞こえない。

「誰の声ですか?」

 椿は耳を澄ませる。僕は音を立てないように息を殺す。

「男の人と女の人。誰かは分からない」

 僕は静かに息を吸い込む。吐き出す息がため息にならないように調節する。

「どこから聞こえますか?」

 椿はくるくると首を振ってまた僕に向く。

「遠いところから。どこかは分からない」

 そのことが不満ではなさそうで、聞かれたから答えているが椿にとってはどうでもいいことのようで、僕は、そうですか、と句点を打った。

「ねえ、恭一郎、今日は記念日だよ。……あのさ、……キスして」

 椿は顔を頭ひとつ分、近付ける。僕は同じだけの距離、頭を後退させる。

「それは出来ません」

 椿はその位置を保ったまま目を見開く。

「どうして? 最近ずっとキスしてくれない。私のこと嫌いになったの?」

 僕の頭の中が大回転する。椿のストーリーに乗って否定するか、症状を俯瞰する視点で否定するか、いずれにせよ否定をするのだが、どう言ったとしても納得はしないだろうし、今後に影響することもないだろう。それならば。

「ここは病院で、僕は医者で、結子さんは患者さんです。だからダメです」

 椿は顔を引っ込める。

「いつもそう言うよね。そうじゃなくなることって、あるの?」

 ない。万が一退院したとしても、医者と患者の関係が消えることはない。

「あるかも知れません。でも、少なくとも今は、ダメです」

 椿の表情は変わらないが、乙女のように不貞腐れている気配が僕達の間を流れる。

「しょうがないね。そう言うことにしといてあげる。……それでね、恋人記念日に恭一郎が何かをしてくれたことは一度もないんだ。覚えている? で、私も待っているだけで何もしなかった。だからおあいこだ。ここに記念品が一つもないのはそう言うことなんだ」

 ベッドサイドは殺風景にキノコが生えた程度に使う物、タオル、洗面器とその中にシャンプーとリンス、ノートなどが整頓されて置かれている。家族からの手紙や写真、趣味のものなどは一切ない。家族はいないから当然だが、趣味があってもいいように思う。だが椿はそう言うことを何もしない。椿は僕の反応を待って、待ち切れない。

「最初の記念品を今日くれてもいいんだよ。だって結婚していたら金婚式じゃない。ささやかな何か。……そう、キスなんて素敵じゃない」

 椿は手をパンと鳴らす。拝む形に似ているが、違う。

「だから、それはダメなんです」

 椿は指を組む。欲望の証なのに敬虔で、それを切り裂くように悪戯っぽさが噴き出す。

「分かっているわ。でも、お願い」

 僕との間に架かっている橋の上を、本気が半分、冗談が半分、行軍して来る。それは密集していて、僕を溺れさせようとする。溺れてしまったら、僕は椿の言うことを聞いてしまう。だから、理性の刀で軍隊をスパスパと切って僕に届かせないようにする。いや、僕は椿とキスをしたいなんて思ってないし、我慢もしていない。かと言ってキスをすることに嫌悪感がある訳でもない。立場上出来ないと言うのは建前ではない。

「ダメです」

 だから椿は押して来るのだろう。

「一回だけ」

 椿は再び顔を前に出して、キスを受ける準備をする。僕はキスすればこの押し問答が終わるのなら、やってしまえばいい、と反射的に思ってそれを大急ぎで打ち消す。もし一回キスをしたら、次に会うときにもまた求められて、それは習慣化して、いずれもっと激しい行為を要求されることになる。そんなことをしているのが看護師にバレたら僕の居場所はなくなる。継続的リスクを背負うかどうかの分水嶺に今はいて、それはつまり、自分の職業人生を失う可能性と椿とのキスの天秤だ。ゼロ回と一回の隔たりにはそれだけの重みがある。

「ダメです」

 椿は、ちぇっ、と口で言って、元の位置に戻り、両手をベッドの端に突く。

「記念日でもダメかぁ」

 僕はそこに区切りを感じた。追加で話したいことはなかったから立ち上がる。

「それじゃあ、行きますね。……失礼します」

「はーい」

 僕はカーテンを出て四床室の全体を見渡す。他のベッドはカーテンを開け広げていて、その内二つに患者が横になっていた。二人とも起きている。やり取りは聞かれていた。僕は会釈もせずに部屋を出て、ナースステーションに戻る。


「先生、先生の患者さんじゃないんですけど、根津ねずさんが、腕が腫れているのを診て貰えませんか?」

 ナースステーションに入り次第看護師の佐藤さとうが声をかけて来て、僕はカーデックスの前に立つ。根津は八十二歳の女性で、転倒はしていないとのこと。バイタルは正常。

「じゃあ、診に行きましょう」

 僕は佐藤に案内されて根津のところに行き、腕を診察する。精神科だが、入院中の患者には身体的な問題が起こることはよくある。僕で出来る範囲のことはやるし、その範囲を越えたら病院の内外にコンサルトする。根津の二の腕は赤く腫れ上がり、熱を持っていた。圧をかけると痛がり、若干痒いと言う。腫れている部位の中に傷があり、かさぶたになっていた。

「根津さん。バイキンが入ったみたいです。お薬を出しますからしばらく飲んで下さい」

「そう」

 根津は興味ない顔で僕を見て、すぐに目を逸らした。僕は、失礼します、と言ってその場を離れた。

 ナースステーションの横でカルテを書き、佐藤に処方箋を渡す。佐藤は処方箋にではなく僕に一礼した。

「ありがとうございました」

「いえ。全然」

 僕はさっと今日病棟ですべきことが終わっているかを頭の中で確かめて、終わっている、外に出た。医局で論文の続きを読んでいる内に退勤の時間になったので、お疲れ様、と何人かに挨拶をしてバス停に向かった。

 バス停には僕の他に誰もいなくて、ベンチの左端に座る。陽はもうほとんど落ちていて、街灯がカッと僕を照らす。冷えが這い上がって来て、同時に降っても来て、挟まれた僕は石になる。さっき読んでいた論文に書かれていた、アカシジアにどの薬剤がどれだけ有効かが、おぼろに思い出される。不確か過ぎるので、実際に使うときには読み返さなくてはならない。根津の腕。そんなに重症ではないが、放置するのは危険だから抗生剤の投与は妥当だ。椿はキスを求めていた。今日が記念日だ。今までそんなことを言ったことはなかった。今日と同じ日付を五回は通過している。僕が「恋人」になったのは担当してそんなに経っていない頃からだから、やはり五回今日があった。キスとかハグとかを求めることは何度もあったが、理由が明確なのは初めてだ。いや、「恋人」だからと言う理由はある。それ以外の理由が初めてなのだ。「恋人」の延長線上の記念日ではあるが――

 気の抜けた音を響かせるバスのヘッドライトと電光掲示が視界に登場した。僕は思考も視線も奪われて、がらんどうのバス待ち人形になる。バスが正面に停まって、鼻息を吐いてドアを開ける。僕は乗り込み、乗客は一人しかいなくて、いつもの席に座る。僕の後ろから二人が乗って、ドアの閉まる音に重なって運転手の、出発します、の声が聞こえる。

 もう少し前の季節なら、一番好きな夕暮れの中をバスに運ばれて帰れるのに。室内で仕事をしている間に夕暮れが終わってしまう。椿はあと何年かわからないが、死ぬまで病棟にいるだろう。夕暮れはもう過ぎているのだろうか。それとも、「恋人」に想いを懸けている今こそが夕暮れなのだろうか。窓の外の対向車線を救急車が音を鳴らさずに擦れ違って行った。椿はサイレンを鳴らし続けている。僕だけが聴いている。

 バスは何度も止まりながら終点に向かって進み続ける。バス停ごとに乗客は増えて、立つ客もいっぱいになった。人間の体温と湿度で咽せる。前の席の人が窓を開けた。冷たい風が刺して、息が出来た。椿は息が出来ているのだろうか。ずっと同じ場所同じ毎日で、僕だけを待っている。僕が「恋人」なのは原因が僕にあるのではなくて、結果的に僕がそうなっただけなのかも知れない。僕は風ではなくて、窓だ。……分かったところで明日僕がすることが変わる訳ではないし、椿の毎日が変化する訳でもない。

 バスが終点の駅に着いた。ゆっくり押し出されるように乗客がバスから一人ずつ放出される。僕も立って、列に並んで、降りる。地面の感触にほっとして、駅に入るためのエスカレーターに乗る。駅には人間がたくさんいて、その誰もが他人で、お互いに興味を持っていない。関係性のない人間は、動くマネキンに過ぎない。椿と僕も出会う前はマネキン同士だった。異動で担当変えになり、僕達は最初から患者と医者と言う役割を与えられて出会った。役割を貫いて、椿は僕を「恋人」にした。

 コンコースを抜けて改札を通るとき、人々が急いでいるのが不思議だった。乗り換えとか早く帰りたいとか、いつくかの理由は想起出来るが、こんなに大量の人間がみんな同じように急ぐのには理由の分量が足りない。だが急いでいる他人をマネキンを捕まえて、どうして急いているのかを問うには僕の不思議の強度は不足している。僕は波に押されて改札を越えて、ホーム行きのエスカレーターに乗る。もし、その中に知っている顔が、椿でもいい、あったなら、並走しながら問うたかも知れない。

 ホームで電車を待って並ぶ。カバンから文庫を出して読む。僕の人生とは関係のない小説だ。職能は上がらないし、患者を理解する助けにもならない。生活の質が改善することもない。だから読む。電車という物理的な移動に加えて読むことで、ここからは仕事の時間ではなくて僕の時間だと自分に分からせる。電車が来て、乗って、読みながら帰る。小説から顔を上げて夜景が走るのを見て、今日は夕食を買うためにデパ地下に寄ることに決めた。

 目的地の駅から出るとき、誰も急いではいなかった。デパ地下ではもっとゆっくりで、人々は大きな鍋に入れられてじっくり煮詰められるみたいに動く。緩慢な流動に身を乗せながら、ショーケースの中の料理をひとつひとつ吟味する。さっきまで根っ子しかなかった空腹が腹の中いっぱいに花開いて、漂う香りに涎が搾られる。

 人々の流れは単純ではなく、複数の潮流になって随所でぶつかる。その度に流れの粒子はミックスされる。一度目のぶつかりで僕は向こうからの勢いに流されるように針路を変えたが、僕の行きたかった方向でもあった。買いたい料理を決めきれずに進む内に、二度目のぶつかりに遭遇した。

 僕は並んだ料理に視線を向けていたが、ぶつかりの気配で顔を上げた。

 そこに、怒り肩の女性がいた。二十代くらいで、茶髪で、上背がある。

 僕は流れから出て、女性の前に立った。僕達は間違いなく初対面だし、明らかに僕はこの人を知っている。女性も立ち止まって、僕達は握手の出来る距離で向き合った。僕達は蠢く人の流れから切り離されて、特別に小分けされた空間で向かい合っていた。人々の音も、料理の香りも吹き飛んで、僕は見知ったその顔が赤く困っていることを認める。

――椿さん。

 椿に子供はいないし、孫もいない。偶然の空似はあり得ない。目の前の女性が椿である確信があった。そこに何の努力もなかった。だが、椿は病棟にいるはずだし、こんなに若くはない。分かっていても女性が椿である確信の方が遥かに勝るから、瑣末なこととして意識にも上らない。

 視線ががっちりと組み合う。僕は名前を呼ぼうとして、やめる。椿も何かを言いかけて口を噤む。僕達は永遠の中に放置されて、それでも言葉を生まず、ついに椿が散る花の微笑みを浮かべてその場を去った。僕は追いかけることが出来ない。追いかけてはいけない。立ち尽くしながらも振り返り、椿の背中が茶色い髪が人々の流れに溶けて行くのを見送った。

 僕は、よし、と呟いて再び流れに乗って料理を選ぶ。心のほとんどは椿だったが、残りのペラペラの心の端でチャーハンと黒酢豚を買った。デパ地下を出て地上に上がり、後ろにデパートの暖光を背負いながら出口の前に立つ。小雨の中を歩き出す前に携帯を見ると病院からの着信と留守録があった。聞けば、病棟からで、コールバックを求めていた。

「もしもし」

 病棟の夜勤らしき看護師が出た。

「お疲れ様です。椿さんが亡くなりました。その報告です」

「分かりました。死因は何ですか?」

「心肺停止状態で発見されたのですが死因は不明です。明らかな自殺ではなさそうですが、まだ分かりません」

「そうですか。ありがとうございます」

 電話を切って、僕は椿を思い出そうとして、若い方の椿ばかりが脳裏に浮かぶ。若い方の椿が儚い笑みを浮かべて僕の前を去ってやっと、五年以上会って来た方の椿が現れた。椿は無表情に僕を見ている。

――恭一郎、キスして。

 僕は目を瞑って空を、曇り切った空を仰ぐ。体の一部が息になって零れたら、壁に傘を立て掛けてからデパートを離れ、雨音の中を行く。


(了)

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