終話  明け暮れの源。

 年があけ、乙卯きのとうの年。(775年、宝亀ほうき六年)

 四月。


 ───わああ……。

 ───めでたや、めでたや……。

 ───なんと立派な遣唐使たちよ。


 たくさんの見送り、見物客が朱雀大路にあふれている。

 すずしは、涙を流しながら、遣唐使として奈良を旅立つ、つまと弟を見送った。


「必ず、帰ってきてください、見狩さま! 

 みなもと、無事に帰ってきて! 

 見狩さまをお守りして。必ず、必ず……!」

「大丈夫だ、我が妻よ。必ず帰る。」

すずしぇ、必ず!」


 彼らは、難波津から、ふね(遣唐使船)に乗るのだ。


「必ず。いつまでもお帰りを待ちます。いつまでも……!!」





 ───めでたや、めでたや……。

 ───なんと立派な遣唐使たちよ。






     *   *   *






 れの  朝霧あさぎりごも


 鳴きて


 かりこひ


 いもに告げこそ






 明闇之あけぐれの  朝霧隠あさぎりごもり

 鳴而去なきてゆく

 鴈者言戀かりはあがこひ 於妹告社いもにつげこそ





 夜明け前の朝霧あさぎりの中を、鳴きながら飛んでゆくかりよ。オレの恋を愛しい娘に告げておくれ。




 ※れ……夜明け前の暗い頃のこと。

 ※いも……恋しい人。愛する女を言う。血縁関係はない。





      万葉集  作者不詳



      

     *   *   *







 ───それから、一年と二ヶ月後───


 丙辰ひのえたつ の年。(776年、宝亀ほうき七年) 

 六月。


 源たちの乗った遣唐使船は、まだ、博多港にあった。






 朝まだき、源は遣唐使船の部屋を抜けだし、


「んん……。」


 白い朝霧のたちこめるなか、背伸びをし、少しだけ明るくなった東の空を眺め、


(恋うてるよ、若大根売わかおおねめ……。オレのいも。)


 と魂の一端を飛ばす。






 この遣唐使船は、波乱続きだった。


 乙卯きのとうの年(775年)、四月に難波津を出港してより。

 いったんは渡海を試みるも、風に恵まれず、四つ船は博多港に帰還した。

 その後、さっぱり風は吹かず。


 八月。

 遣唐大使、佐伯さえきの今毛人いまえみし宿禰すくねさまは、翌年の夏への渡航延期を奏上する。


 遣唐使は、いつ行っても良いものではない。

 元日がんじつ朝賀ちょうがが目的であり、長安ちょうあんで一月一日を迎える為に、博多港を六月から七月までの間に出港する必要があった。


 渡航延期は許可され、今毛人いまえみしさまは一人、奈良に帰っていった。

 副使、大伴おおともの宿禰すくね益立ますたてさまと、藤原ふじわらの鷹取たかとりさまは博多港に残った。

 もちろん、大川さまも、見狩さまも、源も、他の判官、録事たちも残っている。

 遣唐使船には、唐の皇帝へ献上する品がごっそり積んである。それを守り、来年には必ず唐に渡るぞ、という気概きがいを見せる為である。


 十二月。

 突然、副使、大伴おおともの宿禰すくね益立ますたてさまと、藤原ふじわらの鷹取たかとりさまは、副使を解任され、遣唐使船を降りた。

 かわりに、小野おのの朝臣あそん石根いわねさまと大神おおみわの朝臣あそん末足すえたりさまが新しい副使として任命され、遣唐使船に乗り込んできた。

 いったい朝廷では何が起こっているのか? 博多港にいる源には窺い知ることもできない。


 丙辰ひのえたつ の年(776年)、四月。

 大使、今毛人いまえみしさまは、遣唐使船に戻るべく奈良を出立したが、病であるとして、難波津に留まってしまった。

 そこから、ちっとも動かない。

 おそらくは仮病であろう。

 恐れ多くも光仁くはうにん天皇さまにいとまいをした時には元気だったのに、直後に病を得たとの主張は、誰がどう聞いても胡散うさんくさい。


 平城京に戻れば、恐れ多くも光仁くはうにん天皇さまから、大使の任が果たせておらぬと叱責される。

 しかし遣唐使船にも乗りたくない。

 だから難波津に留まり続ける……。


 そのような思惑が透けて見える。


 遣唐使船に残った人々は、これには怒りと不満を抑えられなかった。

 口の悪い者などは、(継人つぐひとさまだが)


「あんのたぬきおきな!!」


 とののしっていた。うん、やっぱりそう思ってたんだ……。

 そして、水夫や、名も無き遣唐使たちが、夜や早朝、こっそりといなくなる事が増えた。



 今も。



 朝霧にまぎれた一人の男が、こそこそまわりを窺いながら、遣唐使船から逃げ出そうとしていた。

 源は冷たい目で、その小さな人影を見下ろした。


「………水夫はともかく、遣唐使にとっては、やっとつかんだ栄光への道だろうに。」

「そう言ってやるな。」


 源の隣に立ったのは、大川さまの従者、三虎だ。


「アレがこたえたんだろ。」


 三虎が口に出さないアレとは、渤海使ぼっかいしのことだ。

 百八十七人で、遠く渤海ぼっかいから大和を目指したが、海上で暴風に遭い、船が大破。生きて大和に到着したのは、四十六人。

 判官はんがんを含め、実に百四十一人が死んだ。

 生き残った渤海使ぼっかいしは、四月、平城京に入った。

 今毛人いまえみしさまは、その渤海使ぼっかいしと会い、怖気おじけづいたのだろう。


 そして、遣唐使船から脱走者が絶えないのも、この船に残るというのは、生きて帰る保証はないのだと、よくよく身にしみたからであろう。


「ほら、見ろ。」


 無表情な三虎が顎をしゃくる。

 その先では、逃げ出したおのこが、迎えにきていた一人のおみなとひしと抱き合っていた。

 おみなは粗末な衣。

 博多のおみなであろう。

 そのまま二人は、明るくなりきらぬ朝の暗い道の向こうに、消えた。


「もう一年以上、博多港に留まったままだ。情の通ったおみなもできれば、そのおみなと生きていきたいと思う者もでるさ。」

「そういう三虎はどうなの?

 古志加こじかを抱いてやった?」


 三虎は、乙卯きのとうの年(775年)の十二月、上野国かみつけのくにに帰り、戻ってきてから、何かが変わった。

 遠く東を見て、一人ぼんやりし、ため息をついている姿が、時々見受けられるようになった。

 多分これは、恋に悩むおのこの顔だ。


「ばっ……!」


 三虎は目を見開き、バカ、と言おうとして、顔を右手で覆った。


「………そういう事を言わないでくれ。頼む。たまらなくなる。」


 三虎は、ふい、といなくなった。


「にゃはは〜。青いの〜。」


 背後から声がして、源は振り向く。

 にこにこ顔の見狩みかりさまが、檜扇ひおうぎを手に歩いてきた。早朝なのに、口ひげがくるん、と上品なを描いている。


「三虎は、見狩さまより年上ですよ。」

「にゃはは〜。青いものは青いのだ。源、我が義弟よ、おまえはどうなのかい?」

「言ったでしょ? 婚姻の約束を交わしたいもを、陸奥国みちのくのくにに置いてきてるって。」


 源は、わたるぃに、遣唐使船が秋津島から出港したら、若大根売わかおおねめに知らせてほしい、とお願いした。


 ───夢をつかむ為に、オレは頑張ってると、恋いしいいもに知って欲しいんだ。

 そして、必ず、生きて帰り、迎えに行く、と、あらためて伝えて欲しい。

 お願いだ、渡兄ぃ。

 薬売りで、各国を渡り歩くのが得意な、渡兄ぃにしか頼めない。


 渡兄ぃは、困ったように笑って、頭の後ろをかいた。


 ───源〜、陸奥みちのくのくには遠いなぁ。

 でも、わかったよ。本当に恋うてるんだな? そんな相手に巡り会えたんだな、源。


 ───そうだ。心から恋うている。陸奥国みちのくのくにでは名家の娘だから、大丈夫だとは思うけど、何か困っているようだったら、力になってあげて欲しい。

 そして、オレが……。

 オレがもし、旅の空で死んだ、とわかったら、わたるぃに、彼女に伝えに行って欲しいんだ。

 わたるぃたちは家族だから、国から知らせが来るだろう。

 でも、離れて暮らす若大根売わかおおねめのところには、国から知らせはいかない。

 後生ごしょうだ、わたるぃ。


 ───源……。わかったよ。それ以上言わないでくれ。わかった。この兄が必ず、知らせよう。


 ───ありがとう……。


 そのような会話を兄としてきたのだ。







 源は、ちゃぷ、ちゃぷ、と波音に揺れる遣唐使船の上で、義理の兄となった見狩さまを、燃えるような目で見た。


「オレは必ず、オレのいもを迎えに行きます。」


 見狩さまは黙って、ふっ、と笑った。朝霧のなか、ぱち、ぱち、しばらく檜扇ひおうぎをもてあそぶ。その手が、少し震えている。


小野おのの朝臣あそん石根いわねさまが、大使代行となったろう?」


 今毛人いまえみしさまは、遣唐大使のまま、使ので、副使であった石根いわねさまが大使代行となり、今毛人いまえみしさまを船に乗せないまま出港することが決まったのだ。誰も予想しなかったとんでもない事態である……。


「一年以上待ったこのつ船も、出港の日は近い。

 いよいよ、遥かなる旅路にでるのだ。生きて帰れるかは……。」

「出港、望むところです。藤原ふじわらの朝臣あそん清河きよかわさまを伴い、必ず、生きて帰りましょう!

 オレの人生はれです。唐にわたり、やっと人生が始まるのです。」

「おまえは恐れるところがないな、我が義弟よ。そなたの強さが好きだ。」

「ありがとうございます。」


 こう、こう。


 朝霧のむこう、空の高いところで、雁が鳴きかわし、飛んでゆく。


 ぱん、檜扇を開き、見狩さまは朗々と響く良い声で歌いだした。


れの───、朝霧あさぎりごもり───、鳴きてく───、かりこひ───、いもに告げこそ───。」


 源は、東に向かい飛んでゆく雁を見た。


若大根売わかおおねめ

 オレは、遣唐使船を降り、夢の全てを捨てて、若大根売わかおおねめの為だけに生きることはできない。

 きっと、寂しい思いをさせているだろう。

 すまない。

 それでも、恋うている。

 若大根売わかおおねめだけを、ずっと、恋うている。

 空を飛ぶ雁よ。

 陸奥みちのくのくにの空まで翼が届くなら、この想いを、愛しいいもに届けておくれ───。)










 風が吹く。


 霧が晴れる。


 六月二十四日。遣唐使船は、博多港を出港した。

 











      ───完───







↓挿絵、其の一。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093089210765529



↓挿絵、其の二。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093089210980728

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明闇の雁  〜夢を追う源〜 加須 千花 @moonpost18

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