第5話

 五月の満月の夜はたまたま金曜日で、しかも夫の給料日だったこともあって、一家三人でお寿司を食べに行くことにした。と言っても、昔は回転寿司と呼ばれていた、チェーン店の安いお寿司のお店だ。今は衛生管理の問題で回らないけれど、一皿の値段が決まっているタイプの寿司屋である。食べ盛りの男の子を連れて行ける飲食店は限られている。


 お腹いっぱいまで食べて帰宅したのは、午後八時ぐらいだった。


 夫の運転で帰ってきて、カーポートに車を止める。


 助手席からおりると、頭上に白い満月が輝いていた。


「あ」


 幸が後部座席からおりてくる。そして私の視線の先にある満月を見上げる。


「今日も、満月なんだね」


 彼は言った。


「僕がここに来たのもこういう夜だった」


 それを聞いて、すぐのことだった。


 私は、視界がぐにゃりとゆがんだのを感じた。


 目眩だろうか。遅れてやってきた更年期だろうか。それとも老眼だろうか。老眼は近くのものが見えなくなる現象で遠くに見える月がゆがんで見えるものだろうか。


 満月が、揺れている。


「……何だ?」


 近くに立っていた夫も、何かに気づいたらしい。彼も足を止めて空を見た。


 夜空に浮かぶ月から、何か、オーラのようなものが出ている。


 馬鹿馬鹿しい、疲れているのだ、と、思いたかった。


 月の周りのゆがみが、次第に形を変えていった。もやのようなものが集まってきて、やがて人の形を取った。


 人間が、宙に浮かんでいる。


 幻覚だと思った。


 現れたのは、端正な顔立ちの青年だった。中国でも韓国でもない、けれどそのへんの文化圏を連想させる着物に似た民族衣装の、アジア系の顔立ちの青年である。


 彼は、月からおりてきて、私たちの目の前に立ちはだかるようにして仁王立ちになった。


 ややあって、「やっと見つけました」と言った。


 そして、その場にひざまずいた。


「たいへんお待たせしました、コウ殿下。お迎えに上がりました」


 爪先から頭まで抜けるような衝撃を受けた。


 私たちの後ろにいた幸が歩み出て、「滋潤ジジュン」と青年に呼び掛ける。


「遅かったな。待ちくたびれたぞ」

「申し訳ございません。殿下を異界に飛ばした巫術師が殺害されまして、足取りが追えなくなってしまったのです。あやつが生きておればひと月もせずにお迎えに上がれたかと思うのですが、面目ない」

「そうか、あの男は死んだのか……残念だ。あの男の妻子に十分な金子きんすを与えてつ国に逃がしてやれ」

「そうおっしゃると思ったので、すでにそのように手配致しました。もう国境を越えているとのしらせを受けております」

「よかった」


 その顔も声も立ち姿も、何もかも私たち夫婦がこの四ヵ月大事にしてきた幸のものなのに、彼はまるで知らない人間のような語り口調で青年と会話をしている。


「お変わりないようで嬉しゅうございます。ひどい扱いを受けて苦しい生活を強いられていたら、この滋潤、喉をかっさばいて皇后様にお詫び申し上げねばならぬと思っておりました」

「よせ、馬鹿なことを言うな。これ以上家臣が死んだら、私は……」


 長い睫毛を伏せ、緩く微笑む。


「とにかくすぐに帰って、皆を安心させたい。こんな私でも皇太子がいると思えば勇気づけられる人もあると聞いたからな」

「もちろんでございます。殿下のお帰りを知ればすべての民が喜ぶに違いありません」


 滋潤と呼ばれた青年が、幸の手を取る。


「さあ、参りましょう。早く戻って母上様をご安心させてください。皇后陛下は、ご心痛のあまりお食事が取れず、ずいぶんお痩せになりました」

「母上……」


 そして、幸は呆然としている私たち夫婦のほうを振り返った。


 彼は、優雅に一礼をして、こう言った。


「長きにわたり私を保護し衣食住を与えてくださったこと、心より御礼申し上げます。何分異界の身ゆえこの世界に合わぬものを持ち込むわけにはいかず何の謝礼も差し上げられませぬが、どうぞお許しいただきたく存じます」


 その後ろで、滋潤が怪訝な目で私たちを見ている。


「殿下、下々の者にそのように頭を下げられては」

「何を申すか、この方々は私を我が子のように思って養ってくださったのだ。お前も礼を言え」

「は。申し訳ございません」


 幸にたしなめられて、彼は私たちに対しても深々とお辞儀をして、「感謝し申し上げる」と言った。


 私は、急いで幸に手を伸ばした。このままでは行ってしまう。私たちの可愛い幸が月の向こう側に連れていかれる。その焦燥感ははてしなく大きく、私は今までずっとためらっていた抱き締めるという行為を今こそしようと思った。


「お父さん、お母さん、今までありがとう」


 しかし、幸はするりと抜けるようにして一歩下がった。


「このご恩は一生忘れません。ずっと、お元気で」


 泣きそうな顔で笑う幸の体が、宙に浮かんでいく。


「唐揚げの味、いつまでも、いつまでも忘れません」

「幸くん!」


 私の叫びもむなしく、幸と滋潤の体は月に吸い込まれるようにして消えていった。


 ああ、あの子はもう二度と戻ってこないのだ。


 それを悟って、私は地面に座り込み、アスファルトを殴りつけながら泣いた。そんな私を夫はしっかりとした手で抱き締めてくれた。彼の目にも涙が浮かんでいた。


 やはりあの子は王子様だったのだ。ふるさとの国に彼の帰りを待っている人間がたくさんいるのだ。当然だろう。あんなに可愛くて、優しくて、賢くて、真面目な子に立場がないわけがないのだ。


 私たちの大事な息子である前に、誰かの大事な王子様だったのだ。


「いいじゃないか」


 だいぶ時間を置いてから、夫が言った。


「本当の母親がいるんだろ。本当の母親のところに帰るんだ。俺たちの幸はべつに虐待されてたわけじゃないんだ。それがわかっただけいいじゃないか」


 それを言われると、私もほんの少しだけ落ち着いた。幸には帰る場所がある。愛情深い血のつながった母親がいて、幸を思って食事も取れないでいる。その事実が、救いのように思われた。それでも四ヵ月我が子のように思って大切にしてきた幸との別れによる喪失感はぬぐい切れなかったけれど、幸が正当に評価される場所に行けるのなら、と自分で自分を慰めた。


 もっとあんなことをしてやれたら、こんなことをしてやれたら、というのが心の中に浮かぶ。仕方がない、麻里香と翔平にしてやるか。私は自分にそう言い聞かせて、よろよろと立ち上がった。


 うちの王子様が、これからもどこかで愛されて暮らしますように。




<終わり>


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うちの王子様 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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