第4話

 四月になって、幸は週に五日学校に通うようになった。

 通信制なので毎日通学する必要はないのだけれど、学習塾のように勉強を教えてくれる教師が常駐しているのがいいらしい。

 賢い幸は独学であっという間に小学校を卒業する程度までの漢字をおぼえたようだが、こういうことはその道のプロに指導してもらったほうがいいのだ、と本人が言う。私は、なんだかその道のプロに指導してもらったことのある人の言葉みたいだな、と思った。学校に通ったことはないはずなのに、勉強したことがある子みたいな考え方をする。


 制服のブレザーを着て、ネクタイを締めてあげると、幸は嬉しそうな顔をした。


「まるで普通の高校生みたい」


 彼は玄関の下駄箱に取りつけられた大きな鏡を見ながら言った。


「こういう人生も悪くないのかもしれない」


 麻里香が、オタク用語で人生二周目と言うのよ、と言っていたのを思い出した。幸は十七歳にして我が家で二回目の人生を生きている。


 いつか韓国ドラマで見た世子のことを考える。幸は本当にどこかの国からやって来た王子様なのかもしれない。けれど本人はもうその話をしないので、私から突っ込むこともしない。


 幸は普通の男の子で、十七歳の高校生だ。そして私たちの可愛い息子、うちの次男坊だ。それ以上でもそれ以下でもない。他に何が必要?




 高校で友達ができたらしくて、幸も夕方学校の後に持たせてやった小遣いでファーストフードの店に寄ることがある。

 ハンバーガーをおやつとして食べてから帰宅して普通に夕飯を食べる。翔平でもあったことなのでそんなに驚きはしないのだけれど、幸の細い体のどこに入っていくのかと思うとちょっと不思議でもある。どうも代謝がいいらしい。健康な証拠だ。

 入学時健診でも全身を調べて異常なしとのことだったとかで、虫歯のない綺麗な歯並びを褒められたそうだ。

 神様仏様に感謝して仏壇に手を合わせる。死んだおじいちゃんがこの調子で幸を守ってくれますように。


 今日もやっと使い慣れてきたスマホで「友達と寄り道してから帰る」というメッセージを送ってきたから、遅くなるのだと思っていた。

 けれど、幸は五時頃帰ってきた。

 昭和のヤンキー文化を横目に育った私たち夫婦からすると、深夜徘徊で捕まったはずの幸がいつも七時前に帰ってくるのが不思議だ。今日はそれよりさらに早い。


「おかえりなさい。早かったわねえ」


 料理をしていた手を止めて玄関まで出迎えてやると、幸はどことなく元気のなさそうな顔をしていた。友達と喧嘩でもしたのだろうか。温厚な幸にしては珍しい。いろいろ質問したいけれど、思春期の男の子から親が根掘り葉掘り交友関係についての話を聞き出すのか、と思うとためらわれる。


「もっとゆっくりしてくるんだと思ってた」


 聞きたいことを抑えて、それだけ言った。幸はこくりと頷いた。


「学校にスピ系にはまってる女の子がいて、その子が今日は満月だって言ってて」

「満月だと何かあるの?」


 靴を脱ぎ、玄関を上がる。そして洗面所に向かう。いつもの流れだ。それに、私はついていった。


 幸は何も言わなかった。ネクタイを緩め、ブレザーを脱いで、無言で手洗いうがいをして、タオルで拭いた。これもいつもの流れだ。私は新婚の頃夫にしてあげていたみたいにブレザーを受け取って、しわにならないように腕に抱えた。


「上に荷物置いてくる」


 質問には答えず、彼はブレザーを私から取り返して二階の子供部屋に向かってしまった。ちょっぴり反抗的ではないだろうか。珍しい。まあ、この家に慣れて自我が出てきたのかも。心配ではあるけれど、私は触れないことにした。


 自分はどこぞの国の皇太子であるなどと言い出す子がそういう系にはまらないとは言い切れない。変な影響を受けないといいな、と思う程度にとどめて、見守ることにする。とりあえず夫が帰宅したら情報共有だけしなければ。


 四月の夕方は明るい。ずいぶんと日が伸びた。

 六時が過ぎてじょじょに太陽が落ちてきて、幸が子供部屋からリビングに出てきた時になってようやく、リビングが薄暗くなった。

 私はまだキッチンで夕飯の支度をしていて手が離せなかったので、幸に「シャッター閉めて」と言った。防犯のために毎日シャッターを開け閉めしているのだ。幸は素直に「わかった」と言って窓に近づいていった。


 窓を開けると、東の空は紫色になっていた。夜が迫ってきていた。


「月だ」


 幸が呟いた。どうやら先ほど言っていた満月が見えるらしかった。

 野菜に火が通ってちょうどいい頃合いになったこともあり、私はキッチンを離れて幸のそばに行くことにした。大皿に中華のソースで味付けをした野菜炒めを盛り、フライパンをシンクに置いて水を張ってから、幸のほうへ向かう。


 幸の視線の先には、案の定、白い月が浮かんでいた。丸くて大きな月だった。


「綺麗ねえ」


 幸がどうしてそんなに満月を気にしているのか、知りたい。けれどやはり、根掘り葉掘り聞くのがためらわれる。自分から話してくれることを期待して、当たり障りのないことを話し掛けた。


「そういえば、子供の頃読んだファンタジー小説で、満月の夜には狼男が狼に戻るって書いてあったわね。学校のお友達もそういう話をするの?」

「狼男はしょせんヨーロッパの伝説だと思うけど」


 幸の口からヨーロッパという地名が出てきたのが嬉しい。高校で地理や歴史の勉強もしているものと思われる。成長している。


「満月の夜には迎えが来る気がして」


 私はどきりとした。まさか幸の生まれ故郷の国から何かが来るというのか。幸の政治的に荒れ果てているという実家からの迎えか。

 それらしい妄想と話をつなげないでほしい。

 学校の友達が余計なことを思い出させようとしているようだ。しかしそんなことを言って幸を否定するのは違う。

 私はできる限り平静を装って、月から迎えにくる話から連想するものを適当に口にした。


「それはかぐや姫ね」

「かぐや姫?」

「知らない? 竹取物語。日本の昔話なんだけど」


 幸をネグレクトしていた親は、そんなことも教えてくれなかったのだろうか。中学に通っていれば古典の授業でやっただろうけれど、幸は学校に行ったことがない。


「月から来たお姫様が、子供のいないおじいさんとおばあさんに引き取られて大事に育てられるんだけど、最終的には月から迎えが来て、月に帰っちゃうの。帝、つまりその時の天皇からも求婚されるくらいに評判の美少女に育つんだけど、最後は全部振り切って、別れを悲しんで泣く育ての親のおじいさんおばあさんも地球に置いて、月に帰ってしまうのよ」


 そんなことを語っているうちに、その竹取物語に出てくるおばあさんと自分が重なった。


 幸はかぐや姫で、いつか月に帰ってしまうのかもしれない。


 竹取物語のおばあさんはどれほど悲しかったことだろう。おばあさんとは違って私には実の子供が二人もいるけれど、子供の数は関係ない。何人でも、何番目でも、可愛いものは可愛い。幸だって手放したくない。それが月というはるかかなた遠くに行ってもう二度と会えないと思ったら、私はいったいどうなってしまうのだろう。


 幸が「ふうん」と呟いた。


「お姫様にも月でやらないといけないことがあったんじゃないの。宿題を置いて地球に逃げてきたんでしょう」


 その解釈がちょっとおもしろくて、私は軽く笑った。



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