第3話

「お母さん、雨降ってきたよ」


 はっと気がついたら、幸がハンガーにかかったままの洗濯物を持って背後に立っていた。

 慌てて窓の外を見たところ、確かに雨が降っている。

 テレビで韓国ドラマを見るためにホットカーペットの上に寝転がっていた私は、「やだあ」と叫びながら立ち上がった。


「生乾きだけどどうする?」

「浴室乾燥で乾かすから、お風呂場に運んでくれる?」

「わかった」


 指示どおりに、洗濯物を持って浴室に向かってくれる。こういう時高校生だった頃の麻里香や翔平なら嫌だの面倒臭いだのと言って駄々をこねていたものだったが、幸はなんといい子なのだろう。本当に、幸はなんにも手がかからないどころか、家のこともよくやってくれる。一家に一人必要だと、心の底から思う。


 二階に上がり、ベランダに出る。幸が持ち切れなかった洗濯物を取り込み、急いで一階の浴室に向かう。幸が入れ違いで出てくる。


「これでもう全部よ。ありがとう。お勉強に戻って」

「ちょっと集中力切れちゃった。何か飲む」

「そう、じゃあお茶淹れてあげる。この前ご近所でお通夜行った時にもらった茶葉で」

「自分で淹れるよ、ありがとう。お湯沸かすね」

「いいのいいの、たまには。そうだ、今朝スーパーで買った新しいお菓子も開けましょ。おやつの時間にしましょ」


 そう言って、二人でリビングのテレビの前、ローテーブルの周りに座布団を並べて座った。


 平日の昼間から、可愛い息子とだらだら、緑茶とクッキーを口にしながら韓国ドラマを見る。素晴らしい人生だ。

 私の人生には何回か生きていてよかったと思えるポイントがあったが、今も幸を引き取ってきて本当に良かったと思えている。幸は私を幸せにしてくれる特別な存在なのだ。

 私たちの宝物。ずっとここにいればいいのに。この子も麻里香や翔平同様高校を卒業したら巣立ってしまうのだろうかという不安が心の中で揺れ動く。


 幸が熱心に韓国ドラマを見ている。


 動画配信サービスで一気見をしているところだったが、私はきりのいいところでいったん止めて、幸に話し掛けた。


「おもしろい?」


 すると、幸が意外なことを言い出した。


「なつかしい」


 彼の目は、テレビの画面に映るサムネイルをじっと見ていた。

 そこに表示されているのは、史劇と言われるジャンルの作品の一幕だ。

 史劇とは、歴史を元ネタにした、日本で言うところの時代劇のようなものである。だいたい李氏朝鮮の話で、王様ないし王子様が出てきて、女官がいじめをしたりされたりしながら、高貴な身分の男性の愛を勝ち得ていく。史実かどうかは歴史に疎いので知らないけれど、私は友達と韓国旅行に行く程度には好きだった。


 幸の指が、サムネイルに映っているイケメンをさした。世子セジャ役の俳優だ。世子とは、現代日本で言うところの皇太子である。


「僕、この人と同じ立場だったから、ちょっと共感する」


 背中にひやりとしたものが流れた。


 出た。これが、警察や児童相談所の職員が言っていた幸の妄想の話だ。幸が作り出したありえない彼の過去の話である。


 幸が初めて自分の幼少期の話を始めた。


 私はたいへん緊張したが、悟られないように「ふうん」と軽く受け止めるそぶりを見せた。パートとはいえ一応介護職で認知症患者の妄想を否定しないというルールを徹底して身につけていたこともあり、私はとっさにそういう態度を取ったのである。


「大変な立場だったのね」

「そう。本当に。毎日いつ毒殺されるのかと不安だった。弟も侍医は病気だと言ってたけどたぶん毒で死んだんだ。母上はとても警戒して、僕に毒見していないできたての料理を食べさせるなと……だからこの家で最初に熱い唐揚げを食べた時本当に感動して……」


 そこで彼は一回口を閉ざした。そして次に口を開いた時には、こんなことを言った。


「なんでもない。ただの妄想だよ。変な話ごめん、忘れて」


 私はなんだかとっても悲しくなってしまった。


 もちろん、幸の話を信じたわけではない。現実にはありえない話だからだ。それこそ、アジアドラマの史劇の話である。幸はきっといつかどこかでこういう歴史ファンタジーの創作物に触れたことがあるのだろう。


 でも、幸にとってはきっと切実な問題だったのだ。

 どこかの国の皇太子として生まれたらしい妄想の中の彼にとって、平和で安全な環境で温かいものを口にする、というのは大変なことだったのだ。


 つまり、彼は私の周りにいることで安心してくれているし、私の料理をおいしいと思ってくれているということである。いい話ではないか。こんなに嬉しいことはない。


「そう……、そういう夢を見たことがあるんだ。全部夢の話だよ。現実っぽかったんだ。たぶん子供の頃のことは何かショックなことがあって全部忘れてしまって、記憶喪失になったところで本物っぽい夢を見て、そのへんがごちゃごちゃになったんだよ」


 幸はそう説明した。私もそれが真相なのだと思う。彼に関わった大人もみんなそう思っている。だからこそなんだか痛々しくて、もっと話を聞いてあげたい気もする。


 それにしても、幸の夢の中の母親はなかなか愛情深い人だったようだ。次男か三男かわからないけれど幸の弟を失ったことを嘆き悲しみ、長男の幸を必死に守ろうとした。これは私が思う母親の姿として正しい。そして、そういう愛情深い母親に育てられてしつけが行き届いたからこういういい子になったのだ、とも。


「全部夢なんだ。だから心配しないでほしい」


 幸の声が泣きそうに震えた気がした。そんなに病院に連れていかれたのがつらかったのだろうか。病院なんて何科であってもかからずに済むならそのほうがいいものね。私も病院は一年に一度人間ドックをしに総合病院付属の健診センターに行く程度、それでも困らない健康ぶりを神様仏様に感謝といったところだ。還暦になっても何の薬も飲んでいないなんて、同世代の友達の間では私だけかもしれない。


「大丈夫よ、幸くん。誰かに言いふらしたりなんかしないし、安心して何でもしゃべってね」


 そう告げると、彼はこくりと頷いた。その様子がなんとも言えず可愛かった。


 可愛い可愛いうちの王子様。夢の中の彼の母上はきっとたいへん心配している。でも返してあげられない。だってこんなに可愛いんだもの。顔も態度も何もかも素晴らしい。翔平も可愛いと言えば可愛いけれど、小さい頃からサッカー一筋で汗臭かったし、今は三十路でおじさんに片足を突っ込んでいる。


 幸は結局その後何も語らなかった。もう一話、一時間分韓国ドラマの続きを見たあと、子供部屋に戻って勉強の続きを再開した。



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