第2話
幸は最初こそ緊張していた様子だったけれど、馴染むまでそんなに時間はかからなかった。
「幸くん、お夕飯。準備するの、手伝ってくれる?」
リビングの大型テレビの前でぼんやり動画を見ていたので、そう声を掛ける。すぐにリモコンで動画を一時停止させて振り返り、「うん」と答える。
キッチンに小走りで入ってきて、三人分の箸とコップを用意する。危なげない手つきでダイニングテーブルにセットする。
ちなみに服装はこの前の三連休に家族全員でショッピングモールに行って買ってやったパーカーとジーンズといういでたちだ。翔平の趣味なので幸の秀麗な顔には合っていない。
お風呂から出てきた夫がダイニングテーブルについて、缶ビールを持ち出して自分のコップに注ごうとした。それを見た幸がすかさず手を出して、コップに注ぐ。夫は目を細めて「どうもね、悪いね」と言った。
サラダや煮物といったおかずをテーブルに並べたあと、最後に大量に揚げた唐揚げを出してやった。
幸の目が輝いた。
この子は揚げ物が好きだ。よく顔が脂っこくならないし、太りもしないものだ、と感心する。翔平はサッカー部だったのでたくさん食べさせてもいい気がしていたけれど、幸はほとんど家にいて、私の買い物に付き合ってスーパーに行くくらいだからちょっと心配になる。
ま、いいか。十七歳の男の子だもんね。
「さ、食べましょう」
「いただきます」
なんでもない、私と夫と里子の幸の、三人の平和な夕飯。これが少しずつ日常になってきて、私はとっても嬉しい。
幸はたいへん素直な子で、まったく手がかからない。賢いし、基本的には大人に従順で、でも言うべきことはちゃんと言えるので、何の不安もない性格をしている。読み書きができないようだから今のところはまだ学校には通わせていないけれど、四月からは通信制の学校に入学させることにしていた。本人も合意済みだ。
上品な、丁寧な手つきで唐揚げを口に運ぶ。箸の使い方が綺麗だ。背中もぴんと伸びていて、姿勢が美しい。
それでも次から次へと唐揚げを飲み込んでいくのを見ると、やはり年頃の男の子で微笑ましい。茶碗から消えていく白米を見て、「おかわりする?」と問い掛けると、「うん、お願い」と言って茶碗を差し出した。
可愛い可愛い、うちの王子様。何もかもが完璧だ。
麻里香も翔平もこの子に夢中で、買い与えたばかりのスマホにひっきりなしにメッセージを送ってくる。といっても幸には漢字が読めないので、絵文字や顔文字やひらがなばかりのようだけれど。幸はスマホの使い方もいまいちわからないようで、ぎこちない手で画面をタップしていた。
「明日は本屋に行きたい。行ってもいい? 僕、本好き。読めないけど。紙がいっぱいあるというだけで安心するんだよね」
「いいわよ、一緒に行きましょうか」
「図書館なんかもいいかもな。子供向けや外国人向けの簡単な本もあるだろうから、いい勉強になると思うぞ。本屋で絵本ばっかり見てると、高校生の大きい子が、って思われないか心配にならないか?」
「仕方がないよ、実際読めないんだから、ひらがなが多い本が欲しい。文字が四種類もあって、本当に大変だよ。一番簡単な、音と文字が一致するものからおぼえていかないと」
読み書きができない、日本地図を知らない、スマホの操作方法がわからない。こんなに賢い子なのに、幸には現代日本人に必要な知識が欠落している。
幸の親は何をしていたのだろう、と思うたびに、はらわたが煮えくり返る。この程度のものも与えることなく家に閉じ込めて育てたのだろうか。それが何かの隙に家を脱走して、夜の街をさまよい歩いたのだろうか。
「幸くん、本当に学校に行ったことないの」
声を低めてそう問い掛けると、幸は唐揚げを挟んだ箸を持つ手を止めた。少しためらったあと、「そうだね」と呟くように言う。
「まあ……、子供の頃は、いろいろあったから」
そのいろいろを説明してほしいのだけれど、幸は話したがらない。
施設の職員から聞いた話を思い出す。
最初に警察が幸を保護した時、幸は奇妙なことを言っていたらしい。
なんでも、自分はこの国の人間ではない、とか。
でも、近隣の実在する国の名前を挙げることもない。幸の整った顔立ちは東アジア系なので、日本人でないのなら韓国人か中国人だと思うのだけれど、幸はどこも知らないという。
幸、という名前も正式なものではない。ただ、コウ、と名乗った。けれど、実在する漢字で自分の名前を書けないというものだから、書類を作るのにあたって施設の職員が仮で字を当てたらしい。
彼は自分の生年月日も言えない。十七歳というのはたぶん間違いないと思われるが、自己申告である。ただ、十七年前と西暦も年号も一致しない。もっと言うと、西暦でも日本の年号でもない年を言って、周りを混乱させた。西暦という概念もわかっていない。逆にイエス・キリストとは何者かと問われてみんな困惑した。
「早く行きたいな、学校。ここの同世代の人間がどんな暮らしをしてるのか見てみたい……」
幸がぽつりぽつりと言って、今度は大根の煮物を食べ始めた。
警察が最初に調書を取った時のことの、変な話である。
本人が言うには、彼はどこかの国の王子様らしい。国で政治的な混乱が起こって、父親である王が暗殺されて、逃亡するために魔法使いだか何だかの力を借りて異世界に飛んだ。そしてたどりついた先がこの令和日本だった。
それを聞いた周囲の人間は、あまりにも真面目に話すので、精神疾患があるのだ、と思って病院に連れていった。だが、幸は自分がおかしなことを言っていることに自ら気づいて、その話をするのをやめた。それはそれで可哀想に思うけれど、かと言ってその話を繰り返されてもこちらも戸惑う。
幸が最初に言ったことが本当なら、幸の両親はどこかの国の王様と王妃様で幸には特別な教育を施したことになるけれど、日本にそういう身分があるのは皇族だけで、周辺各国にそういう制度がある国はない。
日本語を読めない、動画を見たこともない幸がどこでどうやってそういう物語を作ることができたのか不思議だが、実の親に虐待されているうちに現実と妄想の区別がつかなくなったのだろう。なんてひどい人生だ。これからはちゃんと現実に向き合えるように大切にしてやらないといけない。
「ごちそうさま」
幸がそう言って手を合わせた。これは施設で食事の前と後には手を合わせるようにという指導があっておぼえたことらしい。聞くところによると食事の前には何やら変な挨拶をしていたとかで、そういう宗教の家庭に育ったからこういうゆがんだ生い立ちになってしまったのかも、などとも考えられたらしいが、そのへんも自分が変わっていることを察した幸が口をつぐんだようである。
このままでは幸は自分の幼少期の話が何もできなくなってしまう。彼の人生の何が本当で何が妄想なのか何もわからない。そのへんの区別がつかないまま、この子はなし崩しにうちの子になっていく。
「食器、洗うね」
「今日はいいわ。先にお風呂入って。お父さんまだ晩酌してるし、電気代かかるから」
オール電化の我が家では、電気代の節約は切実な課題だ。幸には電気代という概念がなかったみたいで教えるのが大変だったけれど、今は素直に「わかった」と言って浴室に向かっていった。
「……普通の子だなあ」
幸の背中を見送った夫がそうこぼす。
「俺たちが若い頃のヤンキーなんかと比べるとぜんぜん違うな。翔平も真面目といえば真面目だったけど、典型的なスポーツ少年でやんちゃだったし」
「本当にねえ」
正しい姿勢、上品な態度、賢い考え方、美しい顔立ち。
「私、たまに、幸くんは本当にどこかの王子様で、間違えてうちに来たみたいに思うことあるけどねえ」
私がそう言うと、夫がちょっと笑った。
「まあ、うちの王子様だな。それは間違いない」
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