うちの王子様
日崎アユム/丹羽夏子
第1話
どちらかといえば期待のほうが大きかった。
息子の翔平が巣立ってから早十二年、久しぶりに十代の男の子が私の家に住む、と思うと嬉しかった。
世のため人のためになっていることによる高揚感もすさまじい。
もちろん、一番は幸自身の幸せのためを考えている。けれど、恵まれない子供たちでいっぱいになっている児童養護施設のことを思ったら、私たち夫婦が一人受け入れるだけでみんな丸く収まるのではないかと錯覚するぐらい、私は調子に乗った。
私たちも、高校生の男の子と暮らすことで、人生が豊かになるだろう。幸は真面目に生きてきた私たち夫婦のためにやってくる神様からのギフトで、もうすでに十七歳だそうだが、大事に育てなければ、と思うのだった。
私は還暦の主婦である。
訪問看護のパートを週三回、その収入をジムの年会費にあてて同じく週三回プールに通っている。
夫は大きな郵便局の局長で、定年まであと三年。
子供は三十四歳の長女の麻里香と三十歳の長男の翔平の二人。麻里香も翔平もそれぞれ家庭をもっていて、麻里香の息子が二人、翔平の娘が一人と、孫が三人いる。
持病はなし、プールのおかげで筋力もまずまずある。
特にこれといってなんということもない人生だったけれど、世間様の格差社会を思うと、きっと恵まれているほうだろう。
そういう恵まれた境遇とお節介な性格を活かして、社会福祉協議会を通じて子供のお世話をするボランティアを始めたのは、三年前のこと。
一時預かり保育や子供食堂を通じて、いろんな子供に出会ってきた。そして、この世の中にはなんとまあ複雑な家庭環境に育った子供がいるものだ、とびっくりした。なんとかしてあげたい。何かできることはないか。
そうして模索し続けた結果たどりついたのが、里親事業だった。
私たち夫婦は、健康であること、それなりの収入があること、子供を二人育て上げた実績などを評価され、子供を引き取ることが許された。
しかしもうすでに六十過ぎの年寄りなので、今から赤ん坊を育てるのはきつい。
そういうわけで、夫の定年までに二十歳になる幸は、条件にぴったりだった。
養子縁組とは違うので、正式に親子になるわけではない。幸には嫌になったら私たちの家を出ていく自由が認められている。だから幸も気が楽だろう。戸籍上のことはしばらく置いておこう。とにかく、安心して暮らせる家が必要だ。その選択肢のひとつとして、私たちの家があればいい。
よく晴れた冬のある日、私たちは車で幸を迎えに行った。
幸は施設の正面玄関で私たちを待っていた。ほんのわずかな着替えだけが入ったスポーツバッグを抱えて、おとなしくたたずんでいた。
それにしても、なんと可愛らしい少年だろう。
真っ白な肌には年頃の少年特有の脂ぎったところがなく、さらさらの黒髪をしている。切れ長の目にも黒々とした瞳。この整った顔立ちは芸能人もかくや。華奢な手足、薄い肩や胸をしている。どことなく不安げな表情なのが可哀想で、抱き締めてあげたい衝動に駆られた。でもだめ。今日初めて知り合ったばかりの十代の男の子を突然抱き締めるなんて。
距離感を見誤ってはいけない。少しずつ私たちに慣れてもらわなければ。そう、自分に言い聞かせて我慢する。
「じゃ、幸くん、ちょっと待っててね」
正面玄関を入ってすぐのロビーで、施設の職員さんがそう言って幸をソファに導いた。幸は「はい」と素直に返事をして腰をおろした。
「お父さんとお母さんと、少し話をしてくるから。三十分くらい、待てるよね?」
「はい。本を読んで待っています」
「ありがとう」
職員の女性、私と同じくらいの年かしら、彼女は私たちを相談室というプレートのかかった部屋に連れていくと、「どうぞどうぞ、お座りください」と言ってパイプ椅子に座らせた。彼女も机を挟んで向かい側に座る。
「幸くんについては、だいたいは前にもお話ししたとおりですけど、ここ半月で変化があったのでご説明しますね」
私は緊張で汗をかく手を握り締めながら頷いた。
「例の話は一切しなくなりました。自分がおかしなことを言っているという意識が出てきたみたいです。言っていることのつじつまが合うようになってきたので、主治医の先生と話をして、投薬は見合わせることにしました。思春期の一過性の妄想かもしれませんからね……健常児でもたまにあるんですよね」
「何か診断が下ったんじゃないんですか」
「しばらくは様子見ですね。本人も精神科に通うということにすごく抵抗があるみたいだし。といっても暴れたりするわけじゃないんですけど。なんだか悲しげなことを言ったり、そういう顔をしたりするだけなんですけどね。むしろ、そういうところが結構しっかりしていると言いますか。発達には問題がなさそうということです。逆にWAISの結果はすごくいいですね。IQの平均は126だそうです」
「まあ、地頭のいい子なのねえ」
「ご家庭でも気をつけてあげてください。環境が変わればまた症状が出るかもしれませんから」
覚悟を決めて頷いた。夫も隣で神妙な顔をしている。よく似た者夫婦だと言われる。
さあ、なんでも来なさい。精神障害だろうが発達障害だろうが、ちゃんと愛してあげると決めたのだ。心身ともに健康だった麻里香や翔平の育児を思うと知識や経験不足は否めないけれど、社協や、地域活動支援センターや、児童相談所、NPOボランティア団体、その他いろんな機関と連携している。
「じゃ、よろしくお願いしますね」
あと二つ三つ世間話程度の情報交換を行ったのち、私たちは先ほどのロビーに向かった。
幸は白くて細長くてでもやっぱりちょっと男の子を思わせるしっかりした関節の指で、バッグを抱えたまま本を読んでいた。本のタイトルは『やさしい日本語』。日本語、にはルビが振ってある。日本語の読み書きができないのだそうだ。実際にそれを見ると少したじろいでしまうけれど、知能指数は126である。
「幸くん」
私は彼のすぐそばにしゃがみ込んだ。夫も近くで屈んで、幸の顔を覗き込んでいる。
「迎えに来たわよ。一緒に帰りましょうね」
幸が立ち上がったので、私も一緒に立ち上がった。
「よろしくお願い致します」
そう言ってしっかりと頭を下げる様子は礼儀正しく、とてもではないが親にネグレクトされて深夜徘徊をしていたようには見えない。きちんとした教育を受けた、しつけの行き届いた少年のように見える。
でも、ひとの人生なんてわからないものだ。そういう詐欺師だっているわけだし。
「いいのいいの、そんな堅苦しくしないで。私たち、今日から家族なんだから」
「俺のことはお父さんと、こいつのことはお母さんと呼びなさい。それからタメ口で話すこと。今日おぼえるルールはその二つだけだ。いいな?」
夫がそう言うと、幸は少し安心してくれたらしく、肩から力を抜いて「はい」と答えた。
こうして、施設の職員たちに見守られ、幸は施設を出て夫が運転する車の後部座席に乗った。
本当はいろいろ話し掛けたかったけれど、初日からぐいぐい行くのは危険だ。幸は荷物を抱き締めたままおとなしく窓の外を見ている。
私はバックミラーから彼の繊細で美しい顔を見つめて、ひとまず乱暴なことをする子ではないことを悟って、ほっと胸を撫でおろしたのだった。
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