わたしを助けないで

崇期

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 わたしの名前はあん。三十一歳。ここ二年半ほど、ドクさんという男性にうつつを抜かす日々を送らせていただいております。そしてこれからもその日々は続くに違いないと、運命に対してあくなき信頼を寄せているのですが、それでも恋人の声を聴かずに終わる一日があったとしたら、不安でしょうがありません。

 命短し課金せよ乙女──と言ったのはゲームアプリだったでしょうか? わたしも同意するところです。課金の是非はともかく、彼との恋のステージが上昇するならば喜んで犠牲を払う準備があります。それを証拠に、その日も、通話時間が十分を越えたら有料になってしまう契約のことも厭わず、電話をかけたのです。


「ああ、安。実は今、大変なことになっちゃって」


 土管の先はクッパ──と言ったのはゲーム攻略本だったでしょうか? その声はまさにど迫力の敵キャラを前に恐れをなしているような気がするものでした。聞いてみると、ドクさんの勤める会社の中規模ヒット商品「闇鍋」が、食中毒事件の渦中にあったのです。

 ドクさんは言いました。「……『闇鍋』の材料ってさ、プレーヤー……じゃなかった、消費者が、宝箱……じゃなかった、『購入』をクリックするとランダムでアイテム……じゃなかった、食材が選択されるようになってるんだよ。食中毒の原因になった菌も、食べてすぐに症状が出るタイプのものじゃなくて、レベルが高い勇者……じゃなかった、免疫力が高い若者は発症しないらしいし、守護のペンダント……じゃなかった、毒に耐性を持った人も出にくいとかで、発覚が遅れてしまったんだよね。それに加え、販売終了後にアニメ化、海外進出、第二次ブーム……じゃなかった、原因究明の後に解明、そして釈明……という手続きになるというのが気鋭のゲームライター……じゃなかった、担当弁護士さんの話で。だから、いずれにせよ、かなりの時間を要するだろうって」

「そうなんだ……。じゃあ、しばらくは会社に付きっきり?」

「そうだね。しばらく配信は……じゃなかった、家には帰れないかもしれない」

                                


 禍福は引っ張ったら二本のうちどちらかは盥が落ちてくる仕掛けの縄の如し──と言ったのは誰だったでしょうか? ふと気がつくと寒風の舞う繁華街。一か月後には雲を突くようなクリスマスツリーが飾られることが想像できそうな店の壁にもたれ、わたしは一人、行き交う人を眺めておりました。

 そのとき、紳士然とした男性に声をかけられました。

「もしかして、タカハシさんでは?」

「『はい』とは答えられません、残念ながら」とわたしは答えました。

「あっ、しまった。名前を間違えたか」男性は恥じ入るようにうつむくと、かぶっていた帽子のつばを押さえて。「ええっと、舌先まで出かかっているのですけど、その、あなたのお名前がね」

 わたしは思わず笑いました。「このようなナンパは今の今まで経験がなく……」

「いえいえ、ナンパじゃございませんよ」男性は心外、というふうに目を丸くしました。「本当にあなたに一度お会いしたことがあるんです」

「場所はどちらで?」

 迷路からミノタウロス、瓢箪から孫悟空が出てこないのならばその答えも出てきはしないだろう、と思いましたが、街で時間を潰せばこの心の憂いも晴れるかも……などという考えが浮かび、その見ず知らずの男性とバーに行ってお酒を飲むことになりました。


 

 意識が飛ぶこと移動呪文の如し──と言ったのはどこの酔っ払いだったでしょうか? 目覚めると、そこは見ず知らずのホテルの一室でした。矢も盾もたまらず、ベッドから飛び降り、盆の不幸と正月の不幸がいっぺんに降りかかったのではないかと辺りを確認します。例の男の姿はどこにもなく、わたしはわたしで街にいたときと同じ格好で、衣服の乱れもありません。

 ふと、バッグの中の携帯端末が鳴りました。

「君に自白剤を飲ませて携帯端末の番号を吐かせたよ」例の男の声でした。

「なんてひどいことを!」わたしは叫びました。

「財布の中のお金を全部ユーロに変えたことを言ってるのかい?」

「まあ、随分面黒いことがお出来になるのね? ついでに全部の罪を告白なさい。ほかにはなにを──」

「鏡は見たかい?」

「か、鏡?」

 わたしはすばやく動いて洗面台へ行きました。鏡に映ったひどく歪んだ顔。そこには黒のマジックで、猫のような左右三本ずつのヒゲと、赤福の餡と見紛えるような太い眉毛が描かれていました。有り体に言って、ステータスの異常です。

「兇悪なバンクシーさん、お会いできて光栄です」わたしは頬を引きつらせて言いました。「あなたは若い女を捕まえてはこの罪を重ねて、いずれ通り魔として名を馳せるつもり?」

「名を馳せずとも、誰かの記憶に永遠に残る──そんな芸術家も悪くないと思ってね」男はのうのうとのたまいました。

「犯罪者も然り、ですね」

「一つ注意しておくが、それは特殊なインクで、水と反応すると猛毒に変化する。君が顔を洗う前でよかったよ。君に死なれたらこういう会話もできずじまいだったろうから──」

 皆を聴き終える前にわたしはうなだれ、床に這いつくばり、嗚咽寸前といった状態になりました。

 水のみならず、もしかすると涙も起爆剤となるかもしれない。わたしは泣きたい気持ちをぐっと抑え、ホテルを出ることにしました。この顔で表を出歩く勇気もなければ、ホテルで一人苦しみを抱える忍耐力もない。また、お金を払うのに一泊もしないのはもったいないという精神と、このような悪夢を生み出した場所から早く離れたいというジレンマも押し寄せてきて、結局「顔を元に戻せばいいんじゃろがい」というリセットボタンを探す旅に出ることにしました。

 

 一か月後には子どもたちがゲームやらなんやらもらえる輝かしいクリスマス。そのまだ聴こえないキャロルのリズムに乗せているような足取りで街を流れる人々。出会う人、出会う人、わたしに好奇の目、不審そうな目を投げてよこします。マッチを買ってもらえないと家に帰れない少女のマッチが「厄介事」に変わったというように、誰もが「いらないよ」と避けて通るわけです。居たたまれない気持ちで、よろよろと歩きながら、マッチを擦って心を温める火を求めるように携帯端末の番号をタップしてしまいます。

「ドク……。その後、どう? 相変わらず忙しいよね?」

「安、どうした? 声が変だけど」

「いや、なんでも」わたしは無理やり笑顔を作り、元気なふりをします。

「今さ、大変なことが起きて」

「え? 食中毒のほかにも?」大変なことに関してはわたしも負けはしないのでは? と思いましたが。

「そうなんだよ。ほら、以前、急に会社を辞めた徹夜ゲーマー……じゃなかった、同僚がいたって話したじゃない。そいつが動画視聴ガチャ……じゃなかった、会社をずっと恨んでたみたいでさ。で、さっき、交流広場……じゃなかった、会社に乗り込んできて。いわゆる立てこもりってやつ。夏休みの工作みたいなダイナマイト振りかざしながら、学校を爆破させようとする少年みたいに会社を爆破させるつもりらしい。『レアアイテムを出せ』……じゃなかった、『社長を出せ』って怒鳴ってるのが今の状況。ニュースでもやってるんじゃないかな?」

「そんな大変なときに電話してごめんなさい。家に帰ったらニュースを観てみる」

「いや、別にいいよ。ほかの連中も家族とかと連絡取ってるし」


 この瞬間、わたしもドクさんも命の危険にさらされている。運命を感じずにはいられないわけですが、ドクさんの不安を増やすわけにもいきません。今の世の中、便利なアプリが横行しているせいで、流しのタクシーも捕まりません。誰がこんなに便利で不便な矛盾だらけの世の中を想像したでしょうか。電話を切ると、わたしは学生時代の親友にメールをし、彼女のアパートにとりあえず転がり込むことにしました。



木野きのさんと会えないってだけでほかの男の誘いにホイホイ乗るなんて」

 親友・マナカは怒りながら、ノート型PCを叩いています。「二十四時間救急相談ってのがあったから、チャットを送ったわ」

「ありがとう。で、回答はなんて?」

「……専門医にお繋ぎいたしますので、会員登録をして相談料五百円をお支払いくださいって」

「ええっ?」わたしは非難めいた声を発しました。もちろんサイトに対してです。またもや便利で不便な世の中のお出ましです。

「しょうがないよ。わたしに払ってくれたら登録してやっから」

「ごめん、マナカ。わたし今、ユーロしか持ってないの」

「はぁ!?」


 金の切れ目円の切れ目──と言ったのは東京外国為替市場だったでしょうか?

 マナカは言い放ちました。「あんたはほんと、もう……付き合ってられんわ。出ていってくれる?」

「そんなっ」わたしは必死で頭を下げます。「お願い、見捨てないでよ。ユーロの方が円より高いかもしれないじゃない」

「そういう話じゃないでしょ? それに、その顔も水に触れなきゃ大丈夫なんでしょ?」

「水だけじゃない。人目にも触れられないことはわかるでしょ? 元の顔に戻さなきゃ会社にも行けないし、化粧も落とせない、朝起きても顔も洗えないのよ?」

「かーっ、半年遅れの五月の蝿か!」マナカはクローゼットを開けると、そこから、農業用の四本爪のついたフォーク型の道具を取り出しました。

「なっ、なにそれ」わたしは恐れおののいて後退りします。「どうしてそんなもの持ってるのよ」

「そりゃ」と、マナカはフォークを握りしめたまま、やおら振り返ります。「ハロウィンの仮装で使おうと思って六回払いで買ったんじゃないさ。グラント・ウッドの『アメリカン・ゴシック』の丸眼鏡の農夫にわたしがなって、あんたが農夫の娘役になる手筈だったじゃない。結局あんた、木野さんとのデートですっぽかしたけどね」

「え? そんな仮装デュエット、約束したっけ?」

「去年のヘイホーとしろヘイホーを超えるはずだったのに!」

 ピッチフォークというのが道具の正式名称らしいですが、それをグルングルンと頭上で振り回すマナカ。

「危ない、やめて! ラスボスみたいよ」

 わたしはアパートを飛びだしました。やっぱりドクさんに助けてほしい。抱きしめてほしい。声が聴きたい──。

 立てこもり犯はどうなっただろう? こんなときでさえ、恋人のことが心配でならない。愛とは、そういうものかもしれません。


「ドク……」わたしは携帯端末にすがりました。呼び出しの一音一音が世界のディーヴァの気が遠くなるようなロングトーンに聴こえました。

「ああ、あん。どうした?」

「立てこもり犯、どうなったかなって。まだニュースが観られなくて」

「それならさっき警察が突入してさ、捕まったよ」

「よかった」わたしは涙を流したい気持ちをぐっとこらえます。

「でも、また新たな災難のお出迎えさ。夜食に食べたものが傷んでたみたいで、今、トイレに入り浸り中。なんか笑っちゃうよな」

「そんなことない。笑うなんて。厄日なんだよ。そういう日もあるのよ」

「ああ、ほんと、そうだよな。ま、腹を下してなくても食中毒事件のおかげで帰れないし、マンションも契約切れで追い出されちゃったしな」

 二人は離れ離れでも、同じ厄日を味わっている──。そんな苦く切ない気持ちを噛みしめ、それでもそれを終わらせるためならマリオカートも顔負けというくらい奔走するつもりです。

 わたしは交番に駆け込みました。もう、おまわりさんに助けてもらおう。しかし、交番は空っぽでした。机の上に置き手紙があり、「◯◯地区の見回りをしています」と書かれていました。

「悩める高原に咲く一輪のスズランをほっといて、平和な街を巡回してるんじゃないわよ!」

 拳を机に打ちつけてやりましたが、そこに広げてあった新聞紙の広告欄に「ヤブ医者おります(闇医者としても活躍中)」の文字を見つけました。

 住所はこの近くだ……。わたしの手には誰かが切った爪がいくつも刺さっているという始末。でもそれもまあ、ついでに消毒してもらえることに気づきました。警察がダメなら医者。医者がダメなら坊主……というふうに、一縷の望み、最後まで諦めずに繋いでゆくのよ。未来の幸福のために──。

 それは住宅街のはずれの一軒の怪しげな家屋でした。しかしこの際、贅沢は言ってられません。恐怖はどこかへ行ってらっしゃい。戻って来る前に元の顔を、元気を、平穏な生活を、取り戻してみせる!


 戸口をくぐると、ヤブ医者と言うだけあって、二言目には医者を名乗りそうな初老の男が椅子に座っていました。

「この顔を元に戻してほしいんです。罰ゲームでも仮装でもありません。眠り薬を飲まされ意識を失っている間に見知らぬ男に落書きされました。警察に通報していただいても構いません」

「お嬢さんさ、」医者らしい男は目玉を剥きました。「そんなことしたらわたしが捕まってしまうでしょうが」

 もっともだと思いました。

「では、お互い警察には内緒にしておくということで、インクをきれいに落としてくれるだけでいいです。水と反応すると非常に厄介なことになる特殊なインクらしいです。有り体に申しますと、やり方を損なうとわたしは死にます」

 医者は言いました。「それをどうにかできるってなら、それはもうヤブではなくて名医と言えないかね?」

 そのとおりだと思いました。

「じゃあ、あなたはなんのためにここにいるの?」

「それは……」

 

 そのとき、医者の背後で電話が鳴りました。立ち上がり、受話器を取る医者。

「……ああ、例の……ああっ、ちょっと待って。今ちょうど、手に入ってさ。ほんとだよ、若い女の……すぐに手配するから、待っててくれないか?」


 ………………………。


「あの、」わたしは震えながら言いました。「若いっておっしゃいましたが、わたし、もう三十路ですし、枕の横にはいつもスマフォとポテチが置かれているような毎日を送っていると言いますか──」

 医者はわたしに背を向けたまま。「脳の神経細胞であるニューロンは年を重ねるごとに減っていく、と言われているが、それでも二個ある腎臓が年を取って一個になったとは聞いたことがない」

 わたしも聞いたことがありません。

「君が臓器を提供することで、別の誰かがポテチを食べられるようになるんだ」

 そんなバカな。

「もう君は死ぬ。だったら、この世に生きた証として、誰かの役に立ちたいと思わないかね?」振り向いた医者の手には注射器が。

 

 ライフが残り一個であるかのようにプレイせよ──と言ったのはどこのゲーマーだったでしょうか? わたしはまさに、ただ一つの命をかけて走り回っているのに、どうして救われないの?

 ヤブ医者の館を飛び出し、ふと気がつくと息を切らしてアスファルトに両手をついていました。

「幸福よ、わたしを離さないで。不幸よ、いいかげんわたしを離してちょうだい!」


 そのとき、背後で鳴り響いたシャッター音。


 振り向くと、サラリーマン風の男が携帯端末をわたしに向けていました。

「わたしを撮らないで!」わたしは髪を振り乱し、男に突っかかっていきました。「それをSNSにアップして、皆で草草言い合うおつもり? 草草草草って──そこまでしてバズりたいの?」

「ち、違います」男は慌てて言いました。「これを見てください」

 男が渡してきた携帯端末には、わたしの背中が映っており、そこには、『わたしを助けないで』と書かれた紙が貼られていました。

「な、なんていうことなの?」わたしは手を後ろに回すと、その紙をむしり取りました。「どうりで、誰も助けてくれないはず! これも、あの落書き男がやったのね?」 


 

 わたしの長い、不幸な一日が終わりました。後で聞いた話ではありますが、ドクさんのトイレ修行も、先輩がドラックストアで買ってきてくれた薬によって終止符が打たれたということです。

 顔のマジックの落書き──「水に触れたら死ぬ」という男の話も、実は嘘っぱちでした。クレイジングオイルできれいに洗い流すと、不幸という名の憑き物もすっかり落ちた気がしました。知らない人について行っちゃいけないよ──と言われたのは小学生のころだったと思います。まさか大人になって、約束を破ってこんな危険な目に遭うなんて、思いもしませんでした。


 冬は短し楽しめよ乙女──。もうすぐクリスマスです。

 

 2024年11月。

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わたしを助けないで 崇期 @suuki-shu

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