冬夜のタイムマシン・ブレーク

月宮 和香

“アイダ”を紡ぐ記憶の一頁

 それは、さよならのための夜。たった一刻とない泡沫のような出来事。

 とても冷たく、悲しく、切なく、けれど幕間に見るにしては十分過ぎるほどの小噺。


「知ってる? タイムマシンって、もう現実にあるんだって」


 いつも背中と横顔だけを見せ、いつまでも手を引っ張りながら前を歩いていた彼女。

 そんな彼女が今こうして隣に座り、下手くそな微笑みを貼り付けながら、少しばかりはにかんだ表情を見ると、どうしてか胸がざわついた。

 昔は男勝りな性格で、笑う時なんかは誰よりも大きく口を開けながら声にまで出していたと言うのに。


「今乗ってるこの電車、ずっと乗ってたら未来に行けちゃうらしいよ」


 車窓から入る街灯が淡く足元を照らす。

 時折すれ違う対向車が静けさに包まれた車内を震わせる。

 今この時を魅せる小さな箱は水彩画のようにも見えた。


「たった数秒先の未来、だけどね」


 中学校に上がるまではいつも一緒に居た。

 だからこそ、あの時に抱いた気持ちと道が別れた時の喪失感は過ぎ去った後でしか気付けなかったのかもしれない。

 その感情の名さえ知ったのは、一体どれくらい時間が経ってからだったのだろう。

 再び逢った時にはすっかり大人になってしまっていて、何もかもが遅すぎた。

 距離も、関係も、言葉も、手のひらも、何もかも。


「どこまで行けるかな?」


 お酒でほんのり赤く染まった頬を隠しもせず、ぼんやりと呟き、間に置いた彼女の手はすっかり冷たくなっていた。


「……どこまでなら、一緒に行けるのかな?」


 左手の薬指には銀の円環と淡い青色が瞬いている。なんとも知っている彼女らしくなく、けれど今の彼女には相応しい。笑えてしまうほどに。

 今はそれを見て見ぬフリをするように、そっと右手を重ねた。

 自分の左手に付けられた銀に輝く指輪をも忘れたフリをして。


「どこまでって……もう十一時二十分だよ。あと二駅、そこでお別れ」


 小洒落た文句の一つでも思いついたのなら、未だ全身を巡る火照りに身を任せ、ちょっとは格好つけられたかもしれない。

 けれど、残念ながら気の利いた台詞の一つさえも出ては来なかった。

 そして、浮ついていた考えとは裏腹に、吐いた言葉と酔いどれた頭の中は空を覆う真っ暗な帳よりも冷え切っていて、何食わぬ顔のまま視線は動かない。

 変わることの出来ないまま大人になった自分と、否応なしに大人へと変えられてしまった彼女。

 果たして悪いのはどっちなのだろうか。

 そもそも、悪いことなのだろうか。

 それさえも、今はどうでも良くなっている。


「……意地悪。そこは嘘でも『どこまででも僕と一緒に』とかロマンチックなことくらい言ってくれたっていいじゃん」


 口を尖らせ、「女心ってものを分かってないわね」なんてわざとらしい溜め息を吐きながら言う。不細工な作り笑いを浮かべたまま。

 揺れ動く視界で外の世界を見たとて、光り輝く三角標やとうもろこし畑なんか映りはしない。

 その代わりに段々と眠りゆく街の移ろいが垣間見える。ほんの少し落ち着くような、それでいて物悲しい、なんとも名状し難い空気に巻かれた。


『この電車は◯◯線、◯◯◯◯行きです。次は◯◯◯駅です』


 多くの人が一つ前の駅で降りていった。もうここにいるのは二人だけ。

 随分と寂しくなった中に響く無機質なアナウンスは車内を駆ける風圧に流され、時計の針は緩やかに午前三時へと向かい、再び動き出した。


 ふと、彼女は掌を合わせるように上向きに返し、指の間に自分の指を入れ、きゅっと握る。


「乗るんならさ、過去に戻れるタイムマシンならよかったのに」


 窓の外のずっと遠くを見つめながら、はっきりと聞こえる声で、誰にも聞かれたくないと言わんばかりに小さく呟いた。

 そんな言動全てが、本当に彼女らしくなかった。いや、それとも彼女が彼女でなくなってしまったのか。

 どちらにせよ、軽く浮ついた呂律をしていて、相当酔っていることに変わらなさそうだ。

 そう思わせた。


「……戻ってどうするんだよ」


 そんな彼女を見て、ほんの少し感染ってしまったのかもしれない。


「うーん、やり直す。やり直して……」


 だが、そこまで言ったところで、彼女は口を閉じてしまった。

 これ以上言ってしまうと、これ以上聞いてしまうと、本当に一線を超えてしまいそうになってしまう。それ以上を求めてしまう気がしてならなかった。

 途端、他人のいない電車の中は蛍光灯の光と沈黙で飽和する。お互いの温度を確かめ合うように、ずっと握ったまま。


『間もなく◯◯◯駅、◯◯◯駅。お出口は右側です。電車とホームの間が空いている場所がありますのでご注意下さい』


 けれども、ついに時計の針は終わりの一つ手前を指し示した。

 溢れそうな想いを必死に抑え込む。感じ合ったこの温度で妥協しようと、これで満足であると欺く。


 良い意味でも、悪い意味でも過ぎ去った時間が大人に変えてしまった。

 もっとお互いの温度を確かめ合う術も、もっと一緒に居るための方法も、多くのことを知ってしまった。

 そのせいだ。この胸の奥を突き刺すこの痛みは、落ち着かせてくれないこの騒めきは、晴れることのないこの靄は。


 何もかも、再び交わってしまったこの運命さえも、ただただ残酷だった。


「じゃあ、次、だから」


 そう言うと、またぎゅっと、今度は力強く握られた。

 だが、引き留めたいなんていう下らない気持ちからではないことなど、彼女の顔を見ればすぐに分かる。


「……次はいつ会えるかな?」


 柔らかな声が鼓膜を震わせる。

 だが、その問いは心を突き刺した。


「さぁ……また同窓会でもあれば会えるんじゃない?」


 目線を落としながら「そうだね」なんて彼女の口からは漏れた。けれども、赤らめた顔に張り付いた微笑みはまだ消えない。

 視界に入った窓の外はもう日常の風景で、車内アナウンスも丁度聞こえてきた。


「次会った時にはもうハゲてたりして」


「おっさんは嫌だな」


「誰だっておっさんになるもんだよ」


「なら、そっちはおばさんだな」


「ひっど」


「どっちがだよ」


「……ヤダな」


 間も無く減速し、大きな揺れと共に電車が止まる。


「大丈夫か? 気をつけて帰るんだぞ」


 手を離し、立ち上がる。


「分かってるって。そんな酔ってないし」


 最後に一度だけ、彼女の方を振り向いた。

 顔色も問題はなさそうで、心配の必要もあまりないようだ。いや、そもそも心配など何一つとしていない。


「そか」


 だが、未だに揺らぐ心は違った。

 きっと、この感情は容易く消え失せるものではないのだろうし、何をしたからといって晴れるものでもなさそうだ。

 だから、振り返らないことにした。


「じゃあな」


 開いたドアへと歩みを進める。


「じゃあね」


 そんな挨拶に背中を向けたまま、手を一つ振った。それだけして、止まったホームへと下りる。同時に、聞き馴染んだ音色がホーム中に鳴り響いた。

 やがて残響もなくなった途端、ドアが閉まる。


「ま……」


 最後に出そうになった言葉を飲み込んだ。

 きっともう彼女と会うことはない。

 本当は、もうとっくにどちらの舞台からもお互いの存在は降りていて、影さえも見るはずはなかった。

 だから、これは演者にしか見えない舞台袖ですれ違う程度のほんの少しだけの時間。

 次の開始までの幕が下りて演者たちが役柄に囚われなくなるほんの僅かだけの合間。

 最初から分かっていた。はずだった。


『最終電車、発車します』


 駅員の合図と同時に、ゆっくりと動き始める。

 速度を上げ出し、線路を震わせながら、ついにはこの駅を去っていった。


 今頃、彼女は景色を置き去りにしたタイムマシンに揺られて、ゆっくりと未来へ進んでいるのだろう。

 だから、きっとこの夜のこの瞬間は舞台裏を撮るテープからも消され、すぐに彼女だけの思い出の一ページに閉じれる。


 誰もいなくなったホームで一人。

 一瞬の間だけだけれども、その一歩に怖気付いてしまったのに、この幕間を思い出に変えられるのだろうか。

 そんなこと、できるのだろうか。


 ふと古びた映像が頭を過る。


『男の子だったら泣かない。そんなので泣いてたら、女の子と結婚できないわよ』


 強い口調。

 小学校の行事で山登りの帰り道、運悪く道に迷って二人だけになってしまったことがあった。

 彼女だって怖かったはず。しかし、目に溢れる涙をこぼすことなく、メソメソしている僕の背中を引っ叩いたのだ。

 その時は言葉の棘と背中の痺れるような痛みのせいで、余計に泣いてしまったのだっけ。


 古いフィルムは脳裏から離れ、視界は現実へと戻っていく。

 蠍の火のように鮮彩な灯りは月夜を霞ませる鮮烈な街灯に、水晶細工のような銀杏はもう葉が付いていない痩せ細った木へと、次々と姿を正していく。

 そんな目の前に広がっていた世界はまた幕が上がり、いつも風景へと戻って行く。刹那、ボケットから時間を告げるバイブレーションで止まった時間も動き出した。

 少し長く感じる階段を足早に下りると、ポケットから取り出した通知の溜まるスマホをかざし、改札を抜ける。

 今日はもう動くことのない駅を後にして、冷たさが降り頻る帰り道を歩いていった。


 この夜は、この出来事は、この小噺は、どんな他のものでも埋めることのできない大切な一欠片。

 けれども、あと数時間もしない次の幕開けを迎えてしまった瞬間、ただの甘酸っぱい思い出に否応なく昇華されてしまう。


 それでいい。それがいい。


「ただいま」


 僕は、日常へと戻っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冬夜のタイムマシン・ブレーク 月宮 和香 @hoshimiyawakou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画