秋空飛行機

津多 時ロウ

秋空飛行機

 ふと、目が覚めた。

 冷えた空気が、私の頬を固くする。

 瞼越しの室内は、少し明るい。

 まだ起床するには早いと決めつけ、甘い布団の中に戻ろうとする。

 ゴオゴオと飛ぶ飛行機の音が、夢現ゆめうつつに聞こえてきた。

 外の世界は、動いている。

 誰かの足音が聞こえる。

 弱々しいノック。

 ドアが、開いた。返事もしていないのに。

千穂ちほ、さっき病院から電話があってね、おばあちゃん、死んじゃったんだって」


  *  *  *


 出来立てのカップスープをふーふーと冷ましながら、少しずつ口に運ぶ。

 両親は、あれからすぐに家を出た。

 私は後で行くからと言って、緩慢に支度をする。

 外はまだ太陽が弱い。

 はて、私は出かけるときに何をしていただろう。

 化粧水に濡れた両手。

 それを頬に付けたままじっと鏡を見て、少し思案し、諦めた。

 三年前に買った服を着て、三年前に買ったスニーカーを履き、縁遠くなった最寄り駅まで私は歩く。灰色のアスファルトと、黄色に朽ちたほんの少しの葉っぱを踏みしめて。冷えた空気には、熟れすぎた何かのニオイが混ざっていた。

「切符……」

 券売機の前で呟き、財布に入れたままの交通系ICカードの存在を思い出した。

 電子音とともにゲートが開く。

 人の多さに視界を歪ませながら、エスカレーターで運ばれれば、丁度、電車が入線してきたところだった。

 黄緑色のラインを走らせた鉄の塊から、大勢の人がはき出され、大勢の人が吸い込まれていく。

 まるで空気のような人たちに混じり、流れに乗って私も電車に乗り込んだ。もうすっかり忘れていたはずなのに、こういう時だけは調子がいいものだと思う。

 乗ってすぐの場所は押し合い圧し合いで、だけど、いつも通路の奥が空いていることも、まだ未練がましく覚えていた。

 ここで待っていれば、その内、大きな駅で沢山降りたときに座れるのだ。

 そうしてまんまと座席をせしめても、やはり私の心は落ち着かないでいた。

 いや、もしかしたら落ち着きすぎていて、だからどこか現実ではないと思っているのかもしれない。

 視線を上げる。

 黒、灰色、紺の人たちばかりで、何も見えやしない。

 私はどうして視線を上げたのだろうか。

 視線を戻して、吊革につかまる男性の膝下辺りを眺める。


「ちーちゃんは、大きくなったら何になりたいんだい?」

 不意に、おばあちゃんの声が聞こえた。

 私はあのとき、こう答えたはずだ。

「大きくなったらケーキ屋さんになるの」

「そいつはいいね。おばあちゃん、毎日食べにいくからね。ところでリンゴ食べるかい?」

 おばあちゃんの声は、いつもれていた。

 私が幼い好奇心のままに聞いたときは、「酒を飲みすぎちまったのさ」と言っていて、今になって思えば、おばあちゃんは確かに何かの集まりにかこつけては、浴びるようにお酒を飲んでいたような気がする。

 ついでに、口が悪かった。

 あれは下町言葉とでも言うのだろうか。

 お祭りなどでは先頭に立って「ちんたらしてんじゃないよ」とか「もっと頭使ってテキパキやれ」などと、声を張り上げていたような記憶もある。もっとも、その声は決して怒声ではなかったし、私にはいつもえびす顔を向けてくれていたから、全く怖くなんてなかったのだ。

 お日様の匂いとほんの少しのアルコールのニオイ、笑顔とせっかち。それがおばあちゃんだった。


 あれから、私はいったいどこで何をして生きてきたのだろう。

 中学、高校と進んだが、ケーキ屋さんになりたいと言ったこともすっかり忘れていた。

 何をしたいわけでもなく、一流商社の下請け会社に一般事務として入社し、なんとなく毎日をやり過ごしていた。けれど、職場で働く他の事務職員と言ったら、仕事などよりも世間話や悪口ばかり達者で、おまけに直属の上司である課長は、事あるごとに私的なメールを送ってくるような職場だった。

 給料はきちんと払われるし、せっかく入社したのだからと退職までは考えなかったのだが、或いは、そのときに決断するべきだったのかも知れない。

 気付けば悪口の矛先は私に向けられ、あろうことか件の課長が私と不倫しているなどと、そんな根も葉もない噂が広まっていたのだ。その噂はじきに社長が知るところになり、疑いの目で詰問された。担当していた仕事から外され、その挙句になぜお前は仕事をしないのかと冷罵された。

 そうして私は、なるべくして会社というものが嫌になった。人間が嫌いになった。人間を信じられなくなった。だから、退職した。


「次は秋葉原、秋葉原。京浜東北線、総武線をご利用のお客様はお乗り換え下さい」

 目眩の後、車内のアナウンスで意識を取り戻した私は、乗車口にたむろする人をかき分けた。

 少し迷いながら改札を抜ければ、その先は大きなロータリー。

 視線を無意識に上げれば、いくつかの高層ビルと大きな空が見える。

 もしかしたら、少し前の私は空を見たかったのかもしれない。

 秋の空は高く、青く、高層ビルはいっそう立派に見えて、目眩がする。

 だけど、病院までの道はちゃんと覚えている。問題はない。

 私は一度、お見舞いに行ったことがあるのだから。

 そう、たったの


 私は会社を退職した後、部屋に閉じこもりがちになった。

 いわゆる引きこもりというものなのだろうが、何もかもが嫌になった私には、呼び方などどうでもいい。

 ともかく人と関わりたくなかった。

 インターネット配信の映画やドラマを見て、読みたかった小説や漫画を読んで、やりたかったテレビゲームをやって、人と関わらずに生きてみた。

 両親は最初、再就職はどうするのかと聞いてきたが、それもその内になくなった。

 季節も分からないままに日々が過ぎてゆき、今度はおばあちゃんが訪ねてくるようになった。きっと心配して声をかけてくれたのだと思う。

 でも、そのときはそんなことは思わなかった。一言でそのときの感情を表せば、鬱陶しかった。

 声をかけてくれることも、それを受け入れられない自分の心の在り様も。

 一回目、二回目は我慢できた。それをしまい込んで、のらりくらりと話をした。

 けれど、三回目はダメだった。

 抑えられなかった。自分の心を解釈できなかった。わたしおのれの折り合いが、つかなかった。

 おばあちゃんにひどいことを言ったのだ。口から出まかせに。

 そしたら、おばあちゃん、顔を真っ赤にして怒ってた。

「表へ出ろ! あたしが性根を叩き直してやる!」

 とても、怖かった。怖くて怖くて、力任せにドアを閉めて、鍵をかけて部屋の隅に逃げた。

 おばあちゃんが訪ねてきたのは、それが最後だった。


 アスファルトとビルばかりの道を、私は歩く。たまに信号を渡り、たまに枯葉を踏み付ける。空気の冷たさは、朝より少し和らいだ。

 この道を通るのは二度目だ。

 もう少ししたら小学校と小さな公園が見えてきて、おばあちゃんはその少し先にいる。

 本当は、もう少しお見舞いに行けば、よかったんじゃないかと思う。何回でもお見舞いに行けばよかったんじゃないかと思う。

 しかし、身も心も閉じ込めた私は、様々な理由で躊躇い、二の足を踏んだ。

 やらなければならないと思いながらなにもせず、おばあちゃんに会いたいと思いながら、会いたくないとも思った。

 ようやく会いに行ったのが、ほんの三日前のことだった。

 六人部屋の窓際。体を起こしたおばあちゃんがいて、実に退屈そうな顔をしていたが、私を見つけるとすぐに顔をほころばせた。

「ちーちゃん、リンゴ食べるかい?」

 何を言うでもなく、ベッドのわきに佇む私に、おばあちゃんは昔と同じ顔と声で、そう言うのだ。

 なんと声をかけて良いのか分からない私は、その後も積極的に口を開くこともなく、結局、ただリンゴを食べに行っただけだったのかもしれない。

 本当は何か話ができたのではないか。

 元気づけられるようなことを言えたのではないか。

 感謝の気持ちを伝えられたのではないか。

 あのときのことを謝るべきだったのではないか。

 伝えられることがあったのではないか。


 もう、何もかもが遅いのだ。


 待合室で両親と落ちあい、冷えた地下で対面したおばあちゃんの顔は、記憶よりも少し小さい。

 私は恐る恐る眺めては、人が老いて死ぬ生き物だということを思い出していた。


 諸々の手続きを行ない、病院のビルから出て、無意識に空を見上げる。

 秋の高い空を、ジャンボジェット機がゴオゴオと音を立てて飛んでいた。

「ねえ、今朝、飛行機が飛んでたでしょ」

 駅へ戻る無言の道で、私が口を開くと、母がぽつりぽつりと返してくれた。顔は、前を向いたまま。

「そうね、飛んでいたかもね。おばあちゃん、せっかちだから、きっと飛行機で天国に行ったのよ」

「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「私、ケーキ屋さんになろうと思う」

「そう……それはいいわね」

 帰りの車窓から見えた狭い青はやはり遠くて、けれどリンゴの味がした。



『秋空飛行機』 ―完―

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