第40話(最終話)

 誰かに呼ばれたような気がして、目を覚ます。暗がりの中で冷えた空気を吸い込み、スマホを手に取る。目覚ましより少し早かったが、朝だった。

 眠い目をこすって起き上がり、隣に寝ている陽路ひろと前田を起こさないように洗面所へ向かう。手触りの悪い夢を見たのは覚えているが、内容を思い出せない。ただずっと、胸がざわついている。

 照明を点けると、冴え冴えとした青白い光が眠い目を刺す。あくびを一つして、冷え切った洗面台の蛇口を捻る。冷水が湯に変わるのを待って、顔を洗った。

 洗い終えて、曇った鏡をタオルで拭く。背後に何か見えた気がして振り向くと、陽路だった。

「……びっくりした。もう起きたの」

「うん。めがさめた」

 いつもはなかなか起きない方だが、前田がいて興奮しているのかもしれない。

「今日、水族館に行くよ」

「ほんとに? やった、トビウオいるかな」

 陽路は踏み台を寄せて乗ると、パジャマの袖をまくりあげて顔を洗い始める。

「うーん、トビウオはどうかなあ」

 飛び散る湯に苦笑しつつ、ハンドタオルを取り出しておく。洗い終えて蛇口を閉めた陽路は、私から受け取ったタオルで顔を荒く拭って洗濯機に放り込む。

「ごはん、はやくしてね!」

 踏み台から跳ねるように飛び下り、リビングへ走って行った。

 足音が消えるのを聞き届けて、洗面台に飛び散った水滴を拭く。鏡の曇りも拭き取って、磨かれた鏡面に不安げな表情を映した。それでも肌はぴんと張って、三十半ばになるのに、少しの衰えを感じない。あの頃は有慈の傍にいたからだろうし、今は。

 大丈夫、だよね。

 確かめるように胸の内で呟き、照明を消す。肩で大きく息をして、キッチンへ向かった。


 水族館でほぼ一日過ごしたあと、陽路の希望で夕飯はファーストフードをテイクアウトした。まあこんなことでもなければ食べないものだし、私も疲労困憊しているからありがたい。前田は体力的には全く問題なさそうだったが、人疲れはしていた。田舎出身の私達は、人混みへの耐性が育っていない。

「タカアシガニ、かっこうよかった! すっごいあしがながくて、ぼくがみてたときにぐいーんてしてた」

 水族館の感想を話しながら、陽路は笑顔でハンバーガーにかぶりつく。水族館の中をあんなに動き回っていたのに、子供は、本当に、元気だ。それでも輝かんばかりの笑顔を見れば、精神的な疲れは吹き飛ぶ。

 一つ目のバーガーを食べ終えた前田が、ふと私に目配せをする。確かに、ちょうどいいタイミングかもしれない。ジュースを少し飲んで気持ちを整えたあと、向かいの陽路に視線をやった。

「あのね、陽路」

 切り出した私に、陽路はポテトを食べながら視線を合わす。

「『おかあさんとおじさんがけっこんしたらいいのに』って、いつも言ってるでしょ? 今も、そう思ってる?」

「うん。いちばんだいじなおねがいごとだよ」

 まるで絵本のような言い回しをして、陽路は認める。良かった、ひとまずそこは問題ないようだ。

「そのお願い、叶うよ。お母さんとおじさん、結婚することにしたの」

 緊張の報告は、少し声が震えた。陽路は驚いたように目を丸くして私を見つめたあと、前田を見る。前田が笑顔で頷くと、やった、と小さく呟くように言った。

「お母さんと結婚してもいいか?」

「いいよ! じゃあもうずっと、うちにいてくれるんだよね?」

 満面の笑みで前田に許可する陽路に、安堵と喜びが湧く。一番望んでいた反応だった。

「すぐには無理だけど、これからはずっと一緒にいる。よろしくな」

 答えた前田に陽路は赤い顔で繰り返し頷き、椅子から下りる。一目散に和室へと走って行ってしまった。

「陽路、ごはんの途中だよ」

「おじいさんに、報告に行ったのかもな」

 笑う前田に、ああ、と納得する。地元での墓参りは当分できそうにないから、陽路には「おじいちゃんは仏壇にいる」と教えていた。嬉々として報告しているのだろう。きっと、父も喜んでいる。そうだね、と返して、ポテトをかじった。


 少ししても戻ってこない陽路に、腰を上げて私も和室へ向かう。戸を引いて掛けた声に、陽路は笑顔でぱっと振り向く。その瞬間見えたものに、動きが止まった。

 ……なぜ、なぜそれが、ここにあるのだ。

 経机の上に置かれているのは、私が持っていたあの木像で間違いない。でも既に蝋燭が垂らされて固まっているし、それに。経机きょうづくえの上で、蝋燭の炎がゆらりと揺れた。

「何を、してるの」

「これ? だいじょうぶだよ」

 掠れた声で尋ねると、陽路は手のひらを私に開いて見せる。血に染まった手を一旦閉じてぱっと開くと、跡形もなく血は消えていた。

「そうじゃなくて」

「おいのりして、おねがいをしてただけだよ」

 陽路は震える私の声にもきょとんとして、蝋と血を伝わせた木像を手にする。

「かみさまに、ずっとおねがいしてたんだ。『おかあさんとおじさんをけっこんさせてほしい』って。かなえてくれたから、こんどは『おとうとがほしい』ってたのんだの」

 屈託のない笑みで報告する陽路に、崩れ落ちるように座り込む。

あずさ、どうした大丈夫か」

 隣にしゃがみ込んで肩を抱き寄せる前田を、じっと見据える。

 ――『消える』のではない。元より『ない』のだ。今、愛していると思っているその感情はまやかしでしかない。

 それなら、今、前田を突き動かしているものは。

「かみさまが、いつもいってるよ。おかあさんには、かんしゃしてるって」

 明るい声ではしゃぐように続ける陽路が、視界に揺れる。分かっていた。分かっていたことだ。あのままで終わるわけはなかった。でも。

「たまきは、すばらしいうつわをそだててくれたって」

 陽路は嬉しそうに、知らないはずの私の本名を口にする。

 ――珠希、お前には本当に感謝している。目障りな有慈あれを消してくれた上に、素晴らしい子を育ててくれた。次の器として申し分ない。取るに足りなかった幼子にも、使い途はできるものだな。

 不意に思い出された昨日の夢に、全身の力が抜けていく。

 ――珠希、聞くな。それは父に取り憑き私の呪いとなったものだ。消されぬようにお前の一番弱いところを狙い、親愛の情を抱かせ、己に取り込もうとしている。それがお前に話し、見せたものは、全てまやかしだ。邪なものに心を寄せてはならぬ。

 有慈の悲痛な声が、脳裏を舞う。私はあの時、間違えてしまったのか。あの時、決して選んではならないものを選んでしまった。滲む視界に映る像が、白く浮かび上がるように光る。

「たまき、ありがとう」

 陽路は目を細め、薄く笑った。



                           (終)

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まやかしの贄 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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