第39話

 来客を告げるチャイムに、モニターを確認する。見慣れた顔を確かめて、オートロックの解除ボタンを押した。

「いらっしゃい。開けたよ」

 声を掛けると前田は手で応え、エントランスへと入った。

「おじちゃん?」

「うん。良かったね」

 駆け寄ってきた陽路ひろに伝えると、嬉しそうに玄関へと走っていく。この三連休は泊まっていく予定だと教えた時から、ずっと楽しみにしていた。

「鍵、開けてもいい?」

「ピンポンが鳴って、誰なのか聞いてからね」

 小さな背に答えて、夕飯の仕上げに取り掛かる。

 今の部屋は2LDKで決して広くはないが、私が何より重要視したセキュリティ面がしっかりしたマンションだ。管理人と警備員が二十四時間いるし、防犯カメラの数も多い。分譲の新古物件で決して安くはなかったが、どうしても必要だった。

 贅沢をするほどの余裕はないものの、有慈の生命保険金と父の生命保険金、実家を売った金で、まだそれなりの貯蓄はある。

 私も今は健康を取り戻し、近くにある大学の学食で調理師の仕事をしている。調理補助のパートで二年働いたあと、調理師免許を取得して正社員になった。この仕事なら、陽路が小学校に上がったあとも長期休みに合わせられる。贅沢をしなければ、暮らしていけるはずだ。それに、と続け掛けた時、ドアのチャイムが鳴る。はあい、とかわいい声が応えた。続けて、「おじさんですか」と尋ねる声に苦笑する。そこは「どなたですか」だが、まあ今日はいいだろう。

 願いどおりの答えを得てドアを開けた陽路の、明るい声が聞こえる。それに応える声もして、安堵した。母親だけでは、男の子を育てるには片手落ちだとたまに感じる。その不安を埋めてくれる前田には、感謝していた。

 ――俺が近くにいたら、迷惑だろうか。

 前田が控えめに尋ねたのは、新たな土地へと旅立つ前だった。

 有慈を亡くした一件のあとも、前田は何かと気に掛けてくれていた。警察との板挟みに苦しみながらも、私に寄り添い続けてくれた。前田がいなければ、越えられなかった山はたくさんあった。それでもどうしても信用しきれず、断ってしまった。恩を忘れた仕打ちだが、あの頃はとにかく不安定で、まだ人を信用できるほど心が癒えていなかった。九年の結婚生活は、私に重い枷を与えていた。

 前田から久し振りの連絡が来たのは、それから三年ほど経った頃だった。警察を辞めて、新しい人生を始めようとしているところだと報告した。そしてもう一度、同じことを尋ねた。

「おつかれさま。夕飯の仕上げしてるから、先にお風呂に入ってきて。陽路も待ってたの」

「そうか。なら、入るか」

 リビングへ入ってきた前田は荷物を置いてコートを脱ぎ、脚にまとわりつく陽路を軽々と抱き上げる。歓声を上げて喜ぶ陽路を連れて、風呂へ向かった。

 仕上げの手を一旦止めて、和室に着替えを取りに行く。ちょくちょくうちに来て泊まっていくから、前田のパジャマや着替えは箪笥の一段を占めている。端からは、親子のように見えるだろうし、夫婦のように見えるだろう。

 ――おかあさん、おじさんとけっこんしたらいいのに。

 陽路が前田との結婚を勧め始めたのは昨年、保育園で結婚の概念を仕入れてきた頃だ。担任の保育士が結婚すると聞いて、私にも勧めたくなったらしい。

 以前は申し訳ないと思いつつも考えられなかったが、最近はそれもいいかと考え始めている。ありがたいことに陽路との相性はいいし、男親の必要性を噛み締める場面も増えた。二馬力で働けば生活は更に安定するし、どちらかが倒れても陽路が生活苦に陥ることはない。何より、私にとっても前田は心の拠り所になっていた。

 今なら、もう大丈夫だろうか。

 膝に取り出した二人分の着替えを抱え、視線を部屋の奥にやる。実家の仏壇は大きくて古めかしかったから、装飾の少ないモダンでシンプルなものに買い替えた。

 祖母と父が生きていたら、今の私に何を言うだろう。それでいい、と許してくれるだろうか。着替えを一旦脇に置き、経机きょうづくえの上に置いたりんを小さく鳴らす。いつものように手を合わせたあと、着替えを持って風呂へ向かった。


 風呂から上がった陽路は誕生日の食事とケーキを堪能したあと、私と前田からの誕生日プレゼントをそれぞれ楽しんだ。前田に寝かしつけを頼んだが、今日は絵本を読むまでもなく眠りに落ちたらしい。

「水族館に行きたいって言ってたから、明日連れて行くか」

 差し出したビールのプルタブを開けながら、前田が提案する。

「そうだね。喜ぶと思う。最近、『おさかなずかん』に夢中だからね」

「風呂でも難しい魚の名前をあれこれ言ってた。ひらがなもカタカナもよく読めるようになってるよな。簡単な足し算もできるし。びっくりした」

 私も缶チューハイを手に斜向かいに座り、早速プルタブを開けた。寝かしつけの時に寝落ちしなければ、こうして一本空けるのが習慣だ。

「受験すれば、結構いい小学校にも行けるんじゃないか」

「そう思う? 私も職場でいろいろ話を聞いて、公立より私立の方がいいかもと思ってはいるんだよね。塾で必死に勉強しなくても、今から家でちょっとがんばれば受かるくらいのとこ」

 職場は女性ばかりだから、子供に関する話題は多い。田舎から出てきた私には都会の教育事情は未知の世界で、聞くこと全てが参考になる。私達が育った県は公立王国だったが、ここでは私立がお勧めらしい。それなら、私立に行かせた方がいいような気になっている。ただ、塾に通わせて追い込まなければならないようなところは避けたい。

「いいんじゃないか。校風も、勉強中心よりのびのびできそうなとこがいいよな。俺達のとこみたいな、広いグラウンドは望めないだろうけど」

「広かったよね、市内なのに」

「グランド外周が一キロくらいあったからな」

 前田は笑って、ビール缶を傾ける。お互い今年で三十五歳になるが、前田もあまり変わらない。がっちりとした厳つい体格は、なんとなく父を思い出させる。

 こちらに来てからは、刑事だった経験を活かして警備会社に勤めてボディーガードをしている。危険な仕事ではあるが、やりがいはあるらしい。やはり、人を守る仕事が好きなのだろう。

「なら、近場を中心に、良さそうなとこ探してみるか。あんまり遠いと登下校で疲れるから、バスで十五分圏内くらいがいいな」

「あと、セレブ感の控えめなとこがいい。学費はつらいけど我が子のためにがんばります、みたいな家庭が多いとこ。親近感の湧くとこがいい」

「切実だな」

 前田は笑いながら、食卓に残った唐揚げをつまむ。

 私が前田といて安心できるのは、まるで我が子のように親身になって陽路のことを考えて動いてくれるからだ。こうして相談に乗ってくれるのはもちろん、私がインフルエンザで寝込んだ時には仕事を調整して、陽路の世話や家事をしてくれた。

 前田の家は父親が早くに亡くなって母親が大黒柱だったため、子供の頃から家事を手伝っていたらしい。その母親も前田が二十代半ばの頃に事故で亡くなり、家族は弟だけになった。こちらに来てから一度会ったが、礼儀正しくきっちりした印象の「官僚」だ。

 ――兄の好みは、昔からちょっと「変わってる」んですよね。普通の人なら選ばないものを選ぶというか。

 事情は伏せてシングルマザーであることしか伝えなかったが、歓迎していないのは言葉の端々で窺えた。でもまあ、前田が変わっているのは確かだろう。新興宗教教主の元妻で、信徒に命を狙われて父親を殺され、氏名を変えてその息子と息を潜めて暮らしている女の、どこがいいのか。

「ただ、私立小は受験の時に親子面接があるんだろ。片親だから落とされるとは思わないけど、どうする。俺は、いい機会じゃないかと思うんだけど」

 私の疑問を加速する提案に、思わず前田を見つめた。中性寄りだった有慈の顔立ちと比べると、前田は男らしく野性味のある顔立ちをしている。笑う時は顔がくしゃっとなって歯が見える。本当に楽しそうに笑うところが好きだ。

「私も今日ちょうど、そんなことを考えてた。あなたはいつも陽路のことを第一に考えてくれるし、こうして協力してくれる。あなたと一緒にいれば、これから何があっても乗り越えていけるような気がする」

「じゃあ」

 身を乗り出した前田に、少し躊躇う。それで問題はないのだが、最後にちょっとだけ面倒くさくなってもいいだろうか。チューハイを多めに飲んで、熱っぽい息を吐く。

「今更女々しいことを聞くようだけど、もうこれきりにするから聞くんだけど、私のどこが良かったの? 別に初恋の相手ってわけでもないよね」

 前田との関係を思い出しても、それらしき視線を感じたことはない。前田は、ああ、と頷き、ビールを呷るように飲み干して缶を置いた。

「うん、初恋の相手は違う。ただ……昔、あずさがしんどそうにしてる時や助けが必要そうな時、俺は気づいてて無視してたんだ。学校にいる時くらいは自由に、自分のために時間を使いたいと思ってた。でも、多分だけど俺は元々がお節介な方だから、本当は声掛けたかったし助けたかったんだよ。その後悔が、棘みたいに心にずっと刺さってた」

 椅子に凭れて、前田は過去を訥々と語っていく。気に掛けてくれていたのは以前聞いていたが、そこまで前田の人生に突き刺さっていたとは思わなかった。考えたこともなかった理由だ。

「教団で会った時、元気になったって聞いて本当にほっとしたけど、ショックだった。もちろん俺があそこで声を掛けて手助けしてたところで、あの人みたいなことはできなかった。でも君を少しでも楽にできたかもしれないし、あんな風に喜んでくれたかもしれない。その機会を俺は投げ捨てたんだなって痛感したんだ。だから、もし次があるなら躊躇わないと決めてた。最初の頃は、その執着に突き動かされてたと思う」

 そう言われたら、確かに以前は切羽詰まった感じがあったような気がする。私も切羽詰まってたから気にしなかったが、前田は前田で自分の傷を昇華しようと必死だったのかもしれない。

「でも、今はもうないよ。知らないうちに消えてた。今あるのは、梓と陽路を大事に思う気持ちだけだ。これからもこうして、支え合って生きていきたいと願ってる。あと」

 胸を熱くするありがたい言葉に安堵の息を吐いた時、前田が思惑ありげににやりと笑った。なんだ。

「かわいいとこも好きだ」

「……ありがとう、ございます」

 言われ慣れない言葉に、自然と視線が向こうへ逸れる。顔が熱くなるのが分かった。はは、と前田の笑う声がする。

「陽路には、明日言うか。大丈夫かな」

「喜ぶと思うよ。『けっこんしたらいいのに』っていつも言ってるから。やっぱり、お友達がお父さんと一緒にいるのを見ると羨ましいみたい」

 そうだな、と答えて前田は安堵したように笑んだ。

「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」

「俺もだよ」

 伸びた手が、荒く頭を撫でていく。陽路と扱いが変わらないが、優しい手は心地よい。じわりと胸に滲んでいく熱に、自然と笑みが漏れた。

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