二、

第38話

 飯山は有慈が神光教にいた頃に密かに付き合っていた女性で、有慈の脱会にも手を貸した人物だった。有慈は飯山に「再び神光教へ戻り二代目となる」と約束していたらしいが、息子が死んでからは戻る気配が見えなくなっていた。そのため飯山は、信徒のふりをして「戻らない原因を取り除くため」に灯火教へやってきた。要は、私を殺すつもりだったのだ。でも有慈に見抜かれ、殺されてしまった。

 裏切りを許せなかった飯山は霊となり、私に二人の関係を示すものを託した。

 ――……気を、つけ……て……し。

 あれは、「信じてはだめ」だったのかもしれない。

 前田曰く、あのペンダントには写真を取り除いた底に文字が彫られていたらしい。『Yuji To Akari 2004』の、二〇〇四年は神光教の集団自殺事件があった年だ。脱会後も神光教信徒の飯山と関係があったことを証明するペンダントに、前田は有慈の関与を疑い、警視庁と連絡を取って飯山の自宅などを中心に捜査を行っていた。

 結果、飯山の自宅には有慈が集団自殺を知っていた証拠となる通話記録や、プリントアウトされたメールが隠されていたらしい。飯山はうすうす裏切りに気づいていて、帰ったらこれを警察に持ち込むつもりでいたのだろう。残念ながらそれは叶わなかったが、この結果には満足しているはずだ。

 ……誕生日には、やはりいろいろと思い出してしまう。


「じゃあ、このいちごをケーキの好きなところに乗せて」

 へたを切り落として並べたいちごの皿を置くと、陽路ひろは目を輝かせてダイニングテーブルの上に身を乗り出した。

「どこでもいいの?」

「いいけど、真ん中にはチョコプレートを置くのを忘れないでね」

 うん、と頷いて、早速最初の一粒を慎重につまんだ。ふくふくとした頬を少し赤くして作業に向かう真剣な横顔は、有慈によく似ている。

 五年前の今日、二月九日に陽路は予定日より少し早く生まれてきた。新生児の頃には私の要素もあったはずだが、五年経つ今ではすっかり失われている。でも、いやな気はしない。

「じゃあ、任せるね」

 飾りつけを陽路に一任して私はキッチンへ戻り、冷えた指を湯で温めつつ洗いものに取り掛かる。

 有慈が本当に私を助けようとしていたのかは、今も分からない。もしかしたら、あのままだと私の体が壊れて呪いが解呪できなくなるから、助けただけなのかもしれない。自由を得るために致し方なかったからかも。でも、そんなのは考えてもどうしようもないことだ。悶々とするくらいなら「私を助けるために命を落とした」でいいし、陽路にもそう話している。

 全てを伝えるわけにはいかないが、今のところは「お仕事で神様の役をやっていた人」になっている。陽路の中で有慈は俳優だが、保育園では「お父さんは死んじゃった」以上のことは言わないように教えている。どこに目があり耳があるか、分からないからだ。

 六年前、有慈が私の腕の中で息を引き取ったことで、私は容疑者として取り調べを受けた。私は有慈の所業を含めて包み隠さず伝えたが、全ては証明できない、目に見えないものの話だ。刑事達は信じようとせず、私の殺意を捏造して認めさせようとした。地獄のような時間だった。

 でも半日ほど経った頃に、突然解放された。前田が言うには、有慈の死因は多臓器不全たぞうきふぜんだったが、「どうやって殺したのか説明できない」ような状態だったらしい。少なくとも非力な私には不可能だと判断されたのだろう。警察の執念は実らず、件の突入は報道すらされないままに終わった。

 一方、信仰の要である有慈を喪った灯火教内部では、私を悪魔として断罪する流れが急速に広まった。危険を察して脱会してもその勢いは収まらず、私は警察に保護を求めた。でも実害のない状況では動けないと言われ、立ち行かなくなってしまった。そんな時に、声を掛けてくれたのは父だった。

 ――いいから、四の五の言わずに帰ってこい。

 ぶっきらぼうな父の言葉に甘えて、実家へ逃げ帰った。でも、甘えるべきではなかったのだ。実家へ戻ってから二ヶ月ほど経った夏のある日、父は宅配業者を装って訪れた信徒に撃たれて死亡した。私が近所に回覧板を届けに行っていた、ほんの五分ほどの間に起きた出来事だった。

 それをきっかけに警察は教団を捜査し、余罪を積み上げて解散へと追い込んだ。現在は名称を変えた団体が、社団法人として存在している。十万人を超えていた信徒は、今や一万人にも満たない。今は有慈の遺骨を崇め奉っているらしいが、やはり一番のメリットだった癒やしを受けられなくなったのが大きいのだろう。

 私の方もようやく警察が動いてくれたおかげでシェルターの世話になることができ、その後は改姓と改名を許されて、都会の片隅で新たな生活を始められた。安全な環境で無事に陽路を出産できたから、感謝している。それでも。

 今は誰も「私」に気づいていなくても、これからは分からない。いつ何が起きるか分からないのだ。何より、あれ以来一度も。

「おかあさん」

 横から突然触れた手に、びくりとする。その拍子に、手から滑り落ちたグラスがマグカップにぶつかった。鋭い音を立てて割れたグラスに、慌てた。

「おかあさん、だいじょうぶ?」

「大丈夫だから、離れてて。危ないから!」

 陽路を遠ざけて大きな破片に触れた時、指先に痛みが走る。思わず、痛、と呟くと、陽路が横から私の腕を引いた。

「みせて」

「大したことないから、大丈夫だよ」

 ごまかそうとした私を許さず、陽路は眉を顰めてもう一度「みせて」と言う。仕方なく、冷えた水で血を流した指先を陽路に向けた。

 陽路は、大きく息を吸い込みながら私の指先に手を翳し、力を放出するかのように息を吐く。見る間に消えていく傷口と小さな痛みに、なんとも言えないものが湧いた。

「ありがとう。すっかり良くなった」

 指先に残る血を拭っても、もう傷は残っていない。陽路は私の指先を確かめ、有慈よりずっと朗らかな表情で屈託なく笑んだ。

「何度も言うようだけど」

「わかってる。そとではしない、おかあさんだけだよ」

 つい繰り返したくなる注意事項に、陽路はうるさそうな顔で離れる。純粋な善意に水を差すようで申し訳ないが、大事なことだ。

 心眼も開いていないのに、陽路は有慈の癒やしの力を引き継いでいる。本当は、有慈のように人を救うために使うべきなのかもしれない。でも元灯火教の信徒達にばれてしまったら、拉致されて奉られる可能性は決して低くないのだ。陽路には、どんな宗教にも深入りせず、普通の日本人として生きてほしい。

「これ、できたよ。みて、おかあさん」

 呼ぶ声にカウンターの向こうへ視線をやり、ケーキの縁に沿ってうまく並べられたいちごを確かめる。三歳の誕生日からお菓子作りを始めて、今年で三回目のスポンジケーキとデコレーションだ。市販のものに比べればもちろん劣るが、味は悪くない。

「わ、すごい。がんばったね」

 驚いた私に、陽路は誇らしげに小鼻を膨らませた。

 親の手本もろくにないまま親になってしまった上に、頼れる夫も家族もない。保育園の先生を始めとして力を貸してくれる人はあちこちにいるが、毎日が試行錯誤の連続だ。自分が正しく親をしているのか、全く以って自信はない。不出来な親のはずだ。保育園に行くと、周りが皆私より立派な親に、完璧に見えて落ち込む。それでもこうして陽路の笑顔を見ると、許されたような気持ちになって、またがんばる気力が湧いた。

 陽路を育てているうちに、幼い頃に負った心の傷を癒やすかのように過去を思い出している。私は確かにペット用ケージの中に入れられ、投げ入れられる菓子パンと牛乳で育っていた。

 母は私をまるでいないもののように扱い、瑞歩は時々ペットケージを蹴って怯える私を指差して笑っていた。自分だけ母と神光教の集会へと出掛けたあとには、集会でもらって来たおやつを私の前でこれみよがしに食べてみせた。明らかな侮蔑だった。

 あの二人は、家でもあの気味悪い祭壇へ向かって祈っていた。だから私も、一人になった時に真似をして拝んでいたような気がする。言葉も知らないままに。

 でもあの像が応えてくれたことは、一度もなかった。全て……「全てまやかし」、か。

「じゃあ、チョコプレートを置こうか」

 冷蔵庫から歪な文字が踊るチョコプレートの皿を取り出して、ダイニングテーブルへ運ぶ。こちらの方は、残念ながら成長がない。陽路は差し出した皿からチョコプレートを取り、慎重に真ん中のいちごに立て掛けるように置いた。

 ぱっとこちらを向いた笑顔に応えて笑み、まだ小さな頭を撫でる。冷えた手に伝わる熱に癒やされて、長い息を吐いた。

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