第37話
物音に目を覚ましてすぐ、誰かの腕に抱え上げられる。驚く私に、大丈夫だ、と有慈の声がした。見上げると確かに有慈の顔があったが、これまでとは違う険しいものだ。
「何が、あったんですか」
私を抱えたまま急いでどこかへ向かい始めた有慈に尋ねるが、答えはない。有慈は私を抱えたまま、本殿を下りて外へ出る。外には、慌ただしく行き交う信徒達の姿があった。遠くで誰かの、何かを呼び掛けるような声がした。有慈はそちらを確かめ眉を顰めると、すぐ向かいにある拝殿の裏口を選ぶ。
明らかにこれまでと違うことが起きているのは分かるが、何が起きているのか想像もできない。
「何があったんですか」
「警察だ」
二度目の問いに短く答え、有慈は拝殿の奥にある一室へ入った。私を中央へ下ろし、全ての木戸を閉めると何かを唱え始める。程なくして慌ただしいたくさんの足音とともに、荒れた声もした。木戸を開けようと叩く音が響き始めるが、彼らには開けられないらしい。
「符津有慈、開けろ。突入するぞ!」
一際大きく聞こえた声に有慈を見上げるが、険しい表情に変化はない。四方八方で木戸を鳴らす音がするものの、有慈の力のせいなのだろう。やがて体当たりをするような音もし始めたが、木戸は全く開く様子がなかった。
有慈は、ぐるりと周囲を見回したあとで私の前に腰を落とす。
「これから、お前に掛かっている全ての呪いを解呪する」
予想外の言葉に驚いて、有慈を見据えた。今は、そんなことをしている場合なのか。
「でも、警察が」
「できればもう少し時を待ちたかったが、邪魔が入ってしまったから致し方ない。急ぎ行うが、構わぬな」
噛み合わない会話に、装束の袖を掴んで引き寄せる。有慈は少し驚いたような表情で、私と向き合った。
「何をするのか、何を隠していたのかをちゃんと教えてください。そうでなければ、私は、あなたのことを……信じられないんです」
訴えた私を、有慈はじっと見据える。その背後で、強い音が木戸を打つ。何かで突き破ろうとしているのかもしてない。
有慈は背後を一瞥したあと、頷いて長い息を吐いた。
「お前が私との結婚で癒やしの力を得たように、私も得たものがある。神光教の呪いに深くまで蝕まれた魂だ。集会で会ったお前は、初めて会った時を遥かに凌ぐ強い呪いに虐げられていた。私にはまだ、遠く及ばなかったがな」
最後に続いた言葉に、ああ、と気づく。有慈は神光教を脱会して以降、長吉に命を狙われて逃げ続けていたのだ。呪われていたとしても、おかしくはない。
「私には、父が己と九十六人の命を犠牲にした死の呪いが掛かっている。私の力では、抑えることはできても消すことはできぬほどの強い呪いだ。様々な方法を試してみたが、唯一弱まったのは新たに呪いをぶつけた時だけだった。そこから導き出した解呪方法は、この呪いと同じほどの呪いをぶつけて相殺させるやり方だ。でも、これほどの呪いを背負った者は私しかいない。そこで私は、『呪いを育てる』ことにしたのだ」
「それで、そのために、私を?」
いまいちはっきりとしなかった「私と結婚した理由」に、当たりがつく。「似ている」と言った理由も。窺った私に、有慈は少し視線を伏せて頷いた。打算があったと分かっていたはずなのに、少しも否定しない神妙な表情に泣きたくなってしまう。
「そうだ。これまで見た中で最も私に近いお前を娶り、私の力でお前に害が現れぬよう抑えながら呪いを育て続けた。灯火教を拓いたのも、適した人間を集めるためだった」
「どうやって、育てたんですか」
「信徒達から抜き取ったものを与えて増幅させたり、命などを贄にお前に新たな呪いを掛けたりして、だ」
命を贄に……ああ、そうか。きっと飯山も細野も、そして宗市も。
いつそんなことをしていたのか、私は全く気づかなかった。じゃあもしかして、この前のあれは。
「この前、夜中に目覚めた時に何かしていたのも、それですか」
「そうだ。お前の義兄のところから持ち帰った呪いを、植えつけていた」
やっぱり、そういうことだったのか。少しも察せなかった。
有慈は、簡単な娘だと思っていただろう。害されているのにまるで気づかず、救われたことだけを感謝していた。九年も。
「九年の間、あんなことをずっとしていたんですか」
「ああ、そうだ」
躊躇いのない答えが胸に堪えて、唇を噛む。寝巻きの膝を握り締めて、胸を落ち着けるために深呼吸をした。
「
突然、木戸の向こうから聞こえた旧姓に驚く。今私をその名字で呼ぶのは、前田しかいない。私に気づかせるためだろう。
「君の夫は、やっぱり飯山あかりと関係があった! あのペンダントに入っていた写真は、亡くなった二人の息子だ! ほかにも彼女の部屋に隠されていた証拠で、集団自殺事件が起きると知っていたことが分かった。知っていたくせに、止めなかったんだ。九十六人を見殺しにした!」
……亡くなった、二人の息子?
予想もしなかった事実に、有慈を見据える。
「息子のことは、黙っていてすまなかった。お前にどう打ち明ければ傷つけないのか、分からなかった」
気まずそうに俯く表情は、嘘ではないように見えた。でもそれが全てだとは、今は思えない。
「事件の方も、仕方ない犠牲だったとは言わない。だが、この世で一番憎んだ人間が自ら死んでくれるのを、誰が止める? かつての私は、父が死ねばもう息を潜めて、隠れて生きなくても良くなると信じていたのだ」
前田が告げた新たな事実も、有慈は否定しなかった。あのペンダントから、そこまで捜査が拡がっていったのか。私達がここでいつもの生活を続けている間に、警察は着々と踏み込む手はずを整えていたのだろう。これが、警察の執念か。
「教務部長の音声データも解析した! 途切れた音声のあとには、かすかに『贄』と入っていた。その男は君を何かの生贄にして、殺すつもりでいる!」
「殺しはしない。ここで解呪すれば、私達は同時に呪いから解放される。私だけではなく、お前も解放される。二人で、生き直せる」
有慈はようやく否定して視線を上げ、まっすぐに私を見据えた。
同時に解呪しなければならなくなったのは、有慈が私の呪いを育てて大きくしたからだろう。まるで自分のついでに私も解放されるような言い草には抵抗があったが、拒否すれば私は本来のものよりもずっと凶悪になった呪いに苦しめられ続けることになるのだ。選択肢はない。
「日杜さん、無事か?」
静かな内側に不安になったのか、前田は私に尋ねる。
「大丈夫、無事だよ。少し、時間をちょうだい。今この状況をどうにかできるのは、私だけだから」
「分かった。何かあればすぐ声を掛けてくれ」
反対されるかと思ったが、意外にもあっさりと引き下がった。前田の口振りでは、私は人質扱いされているようだから、下手に手を出せないのかもしれない。
珠希、と呼ぶ声に視線を手前に戻すと、有慈が赤い目を潤ませていた。もちろん、初めて知る表情だ。
「私は、自由になりたい。生まれた時から父に奪われ続けた自由を、どうしても取り返したい。普通の人間のように生きてみたい。ただ、それだけだ」
白い頬を、涙が幾筋も伝っていく。生まれ育ちの悲惨さを思い出せば、その思いは胸を突くものだった。残酷な父親に生まれも育ちも歪められ、ようやく逃げ出せば命を狙われて、終いには死を願う呪いを掛けられる。自由など、あるわけがない。
「分かりました。解呪をしましょう。そのかわり、終わったら警察に出頭してください。それが条件です」
「ああ、分かっている。この重荷から解放されるのなら、それくらい容易いことだ」
有慈はあっさりと受け入れて、濡れた頬を拭う。思うところがないわけではない。それでも私達は夫婦だし、今は打算以外のものも持っている。
「言えば去ると分かっていたから、どうしても言えなかった。本当に、すまないことをした」
「お詫びや言い訳はまたあとで聞きますから、今はすることをしましょう」
沈痛な表情の詫びに答えて、解呪を促す。有慈は頷いて、いつものように私の額に触れた。
「少し苦しくなるが、耐えてくれ」
有慈が断りを入れて何かを唱え始めると、地面の方から黒い霧のようなものが立ち上り始める。突然何かが重く伸し掛かって、思わず背を丸めた。押し潰すように力を込める何かに汗が噴き出し、骨が軋む。痛みに、荒い息を吐いた。
崩れてゆく私の体に合わせて、有慈の手は額から頭へと移る。耐えられず床に突っ伏した私の頭に手を置き、一定の調子で唱え続けていた。すぐ傍で立ち上る呪いは、夏のアスファルトに水を撒いた時のような音を立てている。脳裏に家の前に水を撒く祖母の姿が浮かんで、泣きそうになる。更に強い力で押しつける呪いに、目を見開く。あちこちで骨がいやな音を立て始め、全身に激痛が走った。痛みで、目の前が白く瞬く。息ができない。咳をすると、口元から何かが温いものが溢れたのが分かった。血の味が、口の中で拡がっていく。
「耐えてくれ、珠希。もう少しだ」
冷静な有慈の声には、安堵よりも絶望を感じた。終わるまで、やめるつもりはないのだろう。激痛は休むことなく与えられているのに、不思議と意識が遠のいていく。でもその方がいいだろう。気を失ってしまった方が。
「相変わらず、お前はむごいことをするものだ」
聞こえた声に、朦朧とし始めた意識を揺り起こして薄く目を開く。向こうに見えたのは、あの光だった。でも、有慈は構う様子もなく同じ調子で唱え続ける。
「この期に及んで、まだ隠し立てをしようとは」
「珠希、聞くな。それは父に取り憑き私の呪いとなったものだ。消されぬようにお前の一番弱いところを狙い、親愛の情を抱かせ、己に取り込もうとしている。これがお前に話し、見せたものは、全てまやかしだ。邪なものに心を寄せてはならぬ」
有慈は厳しい口調で言うと、両手で私の頭に触れた。痛み始めた頭の奥に、小さく呻く。襲い来る痛みに、思考が続かない。ただ「痛い」しかなかった。喉に何かが逆流して、咳をする。もうずっと、血の味が消えていかない。
「まやかしだとは、おかしなことを言う。お前はまだ、珠希に正しく伝えておらぬことがあるだろう。お前が珠希で行ったことは、呪いを育てただけではなかったはずだが」
「聞くな、珠希。もう少しで解呪できる。耳を貸さずに耐えろ。私を信じてくれ」
切実さを増した声も、ただ耳に流すだけだ。もう何を言われているのかも、うまく理解できない。痛い。もう痛みしかない。どうして、助けてくれないのか。
「呪いを小さくする方法は、もう一つあった。己に強い力を取り込んで、呪いを弱めるのだ。己自身の生命力を高めることでな。そのために」
「黙れ!」
短く返した有慈の声と同時に、木が割けるような大きな音がした。
「日杜さん、無事か!」
木戸を叩く前田の声は聞こえたが、とても答えられる状況ではない。周囲はすぐに、木戸を叩く激しい音で溢れ始めた。
「終われば、全てを話す。今は解呪して、あれを消すのが先だ。邪悪なものに、心を取られるな。今は私を信じてくれ。頼む」
激しい音に紛れて、切実さの増した声が届く。信じたいが、分からない。痛みでもう、何を考えればいいのか決められない。
「しかし総量で見ても、お前が向けた呪いの方が少しばかり強いのではないか? このままでいけば」
有慈の声に比べると、あの光の声は周囲の音に紛れずはっきりと聞こえる。……私は、このまま死ぬのか。でももう、指先すら動かせなかった。
「決して死なせはせぬ! お前を喪うなど、耐えられぬ」
「しかしお前は、その愛しい妻に何をした? 何度、その胎に宿った我が子を食うたか言うてみよ」
光の声に、脳裏には数週間前の記憶が蘇る。妊娠検査薬の陽性反応に病院へ行ったら、流産だと言われた一件だ。痛みも何もなかったのに、私の腹の中から消えていた。
――そうだな、私の子供だ。大切には思っている。
あれは……あれは、そういうことだったのか。
これまでにない感覚が、腹の底から湧き上がって体を熱くする。全身の痛みを忘れるほどに、強いものだった。
「……ほ、んとう、に」
「今は話すな、体が壊れてしまう。あとで必ず話す!」
話して、なんになるのか。話せば、喪った我が子達が蘇るとでも言うのか。私に、それを受け入れて生きろと。そんなこと、できるわけがない。
体を起こし、顔を上げて有慈を見上げる。もうどこがどうなろうが、構わなかった。
「ころ、したん……ですか。わた、し……たち、の、こど、も……を」
私が知りたいのは、それだけだ。体が壊れようと死のうと、もうどうでもいい。溢れた涙で、視界が滲む。
――私は、自由になりたい。
そのためになら、我が子を何人喰い殺しても構わないと言うのか。
黙った有慈に、形容しがたい昏い感情が胸から溢れ出すのが分かった。許さないし、許せない。何かに煽られるようにして強く思うと、どす黒い帯のようなものが全身から噴き上がる。
「ならぬ、珠希。珠希!」
有慈は泣きそうな声で私を呼ぶと唱えるのをやめ、私を強く抱き締めた。触れたところから急速に痛みが癒えて、呼吸が深くなっていく。ばちん、と何かが弾かれるような音が数度響いたあと、有慈が小さく呻いた。私を強く抱き締めていた腕がふと緩み、体が私に凭れ掛かるようにして重みを預ける。いやな予感がした。
有慈の体を抱え直すと、その頭ががくりと後ろに揺れる。いつもと変わらない端整な顔の口角から血が伝った時、背後でけたたましい音がした。
「日杜さん!」
厳つい格好をした大勢の警察官とともに現れた前田は、有慈を抱き締める私の前にしゃがみ込む。
私の……私のせいだ。
口を開いても、何も声にならない。泣き出した私の肩を、前田はそっとさすった。
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