第36話

 翌日は葬儀だけ出席して帰るつもりだったが、前日と同じく祖母に離してもらえず、結局骨まで拾ってしまった。それでも、これで良かったのかもしれない。最後に胸に残ったのは、優しく私を支え続けてくれた昔の宗市だけだった。

「姉は、あの人の人生を十二年近く奪ってたんです。ただ私が選んだという、それだけで」

 改めて口にしてみても、暗澹とする。溜め息をついて夕飯の筍ごはんを口に運び、その歯ざわりと旨味に胸を癒やす。山椒の香りがふっと鼻に抜けた。

「でも家族や同僚は何も知らないから、口々に『奥さんが亡くなって寂しかったんだろう』『奥さんが呼んだのかも』と言ってて。おばあさんも『これからも二人仲良くあの世で暮らすんでしょうねえ』って、私の腕にしがみついて泣いてました。知らないから仕方ないんですけど、本人の気持ちを考えると切なくて」

 宗市も「知らないんだから仕方ないよ」と鷹揚に許すのだろうが、見送る側と見送られる側の心が完全にズレているのは、やはりなんとも言えない心地になった。骨拾いまで残ってしまった選択に、同情がなかったとは言えない。

「皆が一様に知らぬのなら痛みも深かろうが、お前は全て知っていた。誰か一人でも理解して冥福を祈ってやれば、救われるものだ」

「それならいいんですが」

 もし少しでも救われたのなら、私があそこにいた意味はあった。

 頷いて、汁椀を傾ける。筍とわかめのすまし汁はいつもどおり品の良い味で、家に帰ってきたのを妙に実感する。祖母とはまるで違う味なのに、今の私にとってはこの味が「うちの味」だ。

「やっぱり、ごはんは家で、あなたと食べるのが一番ですね」

 通夜振る舞いや精進落としでリラックスできる人は少ないだろうが、どうにも肩が凝って仕方なかった。頼みの料理も仕出し弁当で、まずくはなかったもののやはり力不足だった。

「機嫌が直ったな」

 小鉢を手に取りながら笑む有慈に、笑って頷く。

「やっと心が解れた気がします」

「そうだな。一人でも旨いものは旨いが、お前がいないと寂しい」

 有慈は穏やかに同意して、蕗の煮物を口へ運ぶ。昨日の仕出し弁当にも入っていたが、味わい深さは段違いだ。

「来年の今頃には一人増えてるから、もっと寂しくなくなりますよ」

 再び筍ごはんに戻りながら返すと、有慈の視線が小鉢に落ちる。

「そうだな。楽しみだ」

 優雅な箸使いで蕗をつまみ上げる姿を、ただじっと見つめた。


 やっぱり、両手を挙げての大喜びは期待しない方がいいだろう。

 バスタブに凭れて手脚を伸ばし、長い息を吐く。軽く湯を掻くと、心地の良い湯の音が辺りに響いた。バスタブの縁に頭を乗せて、仰ぐように見上げる。湯気の向こうには、ユニットバスの平凡な天井があった。

 仕方ないよねえ、とぼそりと呟き、表面を撫でるように湯を掻く。

 私はもう迷っていないから葛藤もないが、有慈はまだ葛藤している。まあ、あんな環境と父親の下で育てば仕方のないことだ。誰だって、トラウマになるに違いない。それでも、我が子ができればともに暮らす中で変わっていくだろう。そもそも、私だって自信があるわけではない。

 関わっていく内に、少しずつ「なりたい親」になっていけばいいのだ。普通の人より道のりは大変だろうが、子供はきっとそれ以上のものを与えてくれる。私達が与えてほしかったものを、子供には与えたい。

 指先まで行き渡った熱に長い息を吐いた時、爪先の方で小さな泡がいくつか浮かぶ。不審に思った瞬間、湯の中へ勢いよく引きずり込まれる。驚いて藻掻くが、何かに頭を押さえつけられて動かせない。目を開けると、藻のように漂う黒髪の隙間に、目を見開いて私を見据える瑞歩の顔があった。

 なぜ、まだ瑞歩が。

 突き放そうとしても、髪の絡まる手は湯を掻くだけで、瑞歩に触れることもできない。

 息苦しさに、胸の中で繰り返し有慈を呼ぶ。漂う髪が流れて、瑞歩の顔がはっきりと見える。瑞歩は私を見て、勝ち誇ったように歯を見せて笑んだ。……ああ、もう無理だ。

 諦めが勝った途端、体の力が抜けていく。藻掻く手が重くなり、視界が霞む。いつの間にか消えていた息苦しさに、目を閉じた。


 珠希、と呼ぶ声に薄く目を開くと、すぐ傍に久し振りの光が見えた。

 がばりと体を起こして見回した周囲は、見たことのない場所だった。白い布で覆われた台の上に蝋燭と鏡が置かれている。何かの祭壇のようだった。私は、死んでしまったのか。

「死んではおらん。危ういところだったがな」

 思考を読み取るかのように、光は揺れながら答える。また、助けてくれたのか。

「ありがとうございます。でも、私」

 すぐに、あの像を失くしたことを思い出す。詫びようとした私に、光はまた揺れながら、良い、と言った。

「どうせ、すぐ気づくだろうとは思っていた。お前のせいではない」

 「気づく」ということは、有慈だったのか。私が落としたわけではなく、有慈が抜き取った。ということは、やはりこの光は。

「お前の身に、危険が迫っている。しかと目を開き耳を澄まし、選ぶべきものを選べ」

「何が起きるんですか」

「すぐに分かる。私に止めることはできぬが、力は貸してやろう」

 光は優雅に揺れながら、助力を申し出る。ただ今の私には、それを得られるだけの心当たりがなかった。でも。

「幼い頃にも、私を助けてくれていたんですか」

「さあ、どうであろうな」

 光は笑うように小さく揺れた。もし昔の記憶が戻ってきたら、この関わりも全て思い出すのだろうか。

「せっかく閉じたものを、開く必要はない。つらいものは捨ててゆけ」

 私の胸の内をまた見透かすように言ったあと、光はゆっくりと消えていく。

 暗がりの中でぼんやりと目を覚ますと、馴染んだ部屋の匂いに混じって白檀の香りがした。吐き出した息が熱っぽくて、もたげようとした頭も重い。

「目が覚めたか」

 背後から聞こえた声にゆっくりと寝返りを打つと、すぐ傍に有慈が座っていた。

「……お風呂に、入ってたら、姉が」

「ああ、分かっている。もう大丈夫だ」

 震える声で訴えた私に答え、有慈はすぐ傍で横になる。私を引き寄せると、いつものように抱き締めた。

「どうして、出てきたんですか。もう大丈夫じゃなかったんですか」

「落ち着け、大丈夫だ。縁のある場所へ行ったから、少しぶり返しただけだろう」

 有慈は私の頭を撫で、あやすように背を叩く。でももう、これ以上の苦痛には耐えられそうになかった。

「呪いを、解いてください。姉は自分が夫に愛されない恨みから、夫が愛していた私を殺そうとして最期の呪いを掛けたんです。これまでの恨みは、私が自分より持て囃されて人気を集めているのが気に入らなかったから、掛けていたはずです。ここまで分かれば、できますよね」

 腕の中から体を起こして、有慈に訴える。

 宗市の呪いを解いた時のことを思い出せば、これくらいの情報があれば大丈夫だったはずだ。

「今はまだ、時期尚早だ。もう少し安全性を高めてからでないと」

「呪いを解くための苦しみになら耐えます! お願いです、もう姉から私を解放してください」

 本当はもう限界だが、あと一度だけなら、呪いが解かれる希望を持てるなら耐えられる。でも有慈は、しばらく待っても「そうだな」とは言ってくれなかった。

「……どうして、解いてくれないんですか」

「今は、体を休めるのが先だ。十分に休んだら」

「そんなことを」

 先を塞ぐように、有慈は私の額に触れる。抗う間もなく体は心地よい感覚に包まれて、眠りに落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る