第35話

 宗市からの返信は、翌日の夕方になっても届かなかった。前回の素早さを考えると気になるが、さすがに今日は出勤しているはずだ。溜まった仕事を捌くのに、それどころではないのだろう。

 すっかり下がった熱に布団を抜け出して片付けをしていると、傍らでスマホが揺れる。表示された『父』に少し迷ったが、諦めて手に取った。あのあとでかけてくるのだから、よほどの用事だろう。

 もしもし、と控えめに応えると、父は「今、大丈夫か」と柄になく殊勝なことを聞いた。

「大丈夫だけど、何?」

「宗市が死んだ」

 抑えた声の報告に、スマホを握り締めたまま固まる。

 ――僕はもう、大丈夫だから。助けてくれて、本当にありがとう。

 だから、信じてはいけなかったんだ。大丈夫なわけが。

「自殺じゃねえ、突然死だ」

「え?」

 後悔へと大きく傾いていた胸が、いきなり引き戻される。自殺じゃないのか。

「有給終えても会社に出てこねえから、社員が自殺の心配して家に見に行ったら倒れてたって話だ。向こうの親の話だと、急性の心筋梗塞しんきんこうそくらしい」

 心筋梗塞。

 一週間前ほど前に死んだ教務部長も、死因は心筋梗塞だった。遺族が遺体を引き取らなかったから、先週の内にうちで葬儀を行って埋葬した。儀式はこれまでとなんら変わらなかったが、死に際のあの表情が戻らなかったから、棺は蓋を閉めたままで行われた。

「心筋梗塞による死亡って、多いの?」

「確か、癌の次だったはずだ。突然死の理由としては、急性心臓死が一番多いしな」

 そうか。それなら、身の回りで続いているように感じてもおかしくはないのかもしれない。

「明日通夜で明後日葬式らしいけど、来るか」

 告げられた予定に、デスクに置かれたカレンダーを確かめる。明日明後日なら、金・土だ。明日は早めに仕事に取り掛かれば、どうにかなるだろう。

「そうだね。行くよ」

「旦那は」

 尋ねた父に、苦笑した。瑞歩の葬儀ならまだしも、宗市の葬儀で対峙させるわけにはいかない。

「行かないよ、私だけ」

 答えて通話を終え、スマホを置いた。突然死、か。ようやく呪いから解放されて、新たな人生を始められるところだったのに。

 ――僕はもう、大丈夫だから。助けてくれて、本当にありがとう。

 滲んだものに目頭を押さえるが、溢れたものは収まらない。堪えきれず顔を覆い、嗚咽を漏らした。


 ――最愛の妻に先立たれて、本当にショックを受けてたんです。

 涙ながらに語る宗市の祖母の相手を務め終えてホテルに戻る頃には、九時を過ぎていた。年寄りの相手は嫌いではないが、ずっと同じことを繰り返されるのはさすがにつらい。

 カードキーとバッグを置き、ベッドに倒れ込む。仰向けになって、大きく息を吐いた。

 宗市の遺体は普通の棺に収められていたが、蓋は閉じられたままだった。父の話では、死亡した時の苦悶の表情が戻らなかったためらしい。教務部長と、同じだった。

 共通点が増えてくると、どうしても不審度も増してしまう。まあ飯山の死は、ちゃんと事故死だと。

 ――いや、実は亡くなったんだよ。

 思い出した声に、がばりと起き上がる。そうだ。もう一人、いた。もちろん死因も聞いていない状態だから決めつけられないが、細野も最近亡くなったばかりだ。

 とはいえ、だ。前田に細野の死因を尋ねる理由がない。身近で二人死んだからと言えば、当然のように有慈が疑われてしまう。まあ疑われたところで現代の刑法では不能犯だが、これ以上は目をつけられない方がいいだろう。それに、三人が同じ死に方をしたと分かったところで、それをどう扱えばいいのか分からない。

 不意にスマホの揺れる音がして、バッグを探る。表示された『有慈』に胸が一層ざわついたが、抑えて通話を選んだ。

「体調はどうだ。問題ないか」

「はい。さっき通夜振る舞いが終わってホテルに帰ってきたところです」

 答えながら、まとめ髪のピンを抜いていく。

「そうか。まだ万全ではないのだから、早く休むといい」

「そうします。疲れましたから」

 下ろした髪に手を突っ込んで荒く解すと、こもっていた熱が離れて涼しくなる。

「父親は、どうだった」

「相変わらずです。まあ今更、父親らしいことなんてできるわけがないですから」

 宗市の死で瑞歩の遺骨は父が引き取ることになったらしいが、法事には一切呼ぶなと言っておいた。でも向こうはそんなことも承知していて、自分の骨も含めて墓は永代供養にすると返した。

 ――適当なとこで家も処分して、できるだけお前の手は煩わせねえようにする。

 家の片付き具合を見ても、多分言葉だけではないだろう。介護が必要になったら、自分でとっとと施設を契約して入ってそこで死にそうだ。でも、それが父の選んだ人生の結果だろう。同情はしない。

「私達は、親に恵まれませんでしたね」

 思わず漏れた自嘲に、有慈は少し間を置いて、そうだな、と答えた。でもきっと、そこで終わるのだろう。いつものことだ。

「父は、自分の血を引いた、自分より優れた神の器を作ろうとした。そのために、信徒の中から霊能力を持つ女を集めて子を為した。子が女であれば胎の中で殺し、男なら産ませた」

 初めて続いた話は、予想を裏切らない陰惨さだった。九十六人もの信徒を平気で道連れにするような人物がまともなわけはないが、やはりとんでもない。その残酷さでよく、自身を神と呼べたものだ。

「私には、少なくとも二人の兄と三人の弟がいた。おそらく全員、素養があると見込まれた者だったのだろう。それ以外の子がどうなったかは知らぬが、選ばれた子は全て暗闇の部屋に放り込まれた。父が力を注ぎ込んで作った、異質な空間だった。どこまで行っても壁がなく、音は響かなかった。生まれたばかりの赤子もいたのに、誰も飢えず、渇かず、汚れず、病気にもならなかった」

 有慈の父親なのだから、それくらいの力があったとしてもおかしくはない。想像するだけで、異様な空間だ。

 乾き始めた喉にベッドを下り、冷蔵庫へ向かう。中からミネラルウォーターのボトルを引き抜いて、一人掛けのソファへ向かった。

「誰も言葉を知らず、互いの臭いや手触り、言葉にならぬ声で認識しあった。たまに食事が置かれると、手探りで確かめ、分け合って食う暮らしだった。でも誰も、私も『なぜこんな生活をしているのだろう』とは思わなかった。物心ついた時にはそこにいて、比較するものを持たなかったからな。疑問も苦しみも、まるで湧いてこなかった」

 人間を人間たらしめるものを奪えば、そうなるのだろう。本能で生きることしかできなくなるのだ。そうなれば思考も最低限で、拡がりはなくなる。

 スマホをスピーカーにしてテーブルへ置き、ペットボトルを開ける。冷えた流れを送り込んで乾きは癒やされたが、胸の澱みはどうにもならない。

「父はおそらく、素養はある程度の年齢になるまでに大きく開かれると考えていたのだろう。ある日、一番年長の者がどこかへ連れて行かれるのが分かった。しばらくして帰ってきたが、もう原型はとどめていなかった。我々の、食事として運ばれてきたからだ。開花しなかったと言っても、その他大勢よりは素養のある者には違いない。残された者達に食わせれば、多少は力を取り込むと考えての所業だろう」

 淡々とした有慈の声が、スピーカーから流れ続ける。でも私は呆然として、うまく話を落とし込めなかった。頭の中で衝撃的な箇所を反芻するが、理解を拒否するように言葉が舞っている。

「でも我々は、人の倫理など何も知らぬ。仲間が肉になったのは匂いで分かったが、いつものように皆で分け合って食った。だが私は、次はもう一人の年長者でその次は自分だと、本能的に察知した。そして死に恐怖したのだ」

 どうしようもないと理解していても、胸を占める嫌悪感と胃を突く気持ち悪さはどうにもならない。でもそれは、私が人間として……いや、どうなのだろう。私だって、母に放置されていた頃に何を食べていたのかなんて、ろくに覚えていない。さすがに人の肉ではなかっただろうが、栄養面に気遣われた離乳食や幼児食でもなかったはずだ。

 ――お前と私は、よく似ている。お前が私を受け入れてくれるなら、私はお前に全てを与えよう。

 有慈は、私が覚えていないところまで見えていたのだろう。私達は、確かに似ている。

「それからしばらくして新たな弟がやって来て、一番年長になった者が連れて行かれた。そしてまた、食事となって戻ってきた。私は恐怖で食う気になれず、ほかの者にやった」

 澱んでいた胸に、少しずつ痛みが混じり始める。幼い子供達が闇の中で、優しい腕に抱き上げられることもなく必死で生きようとする姿を思い浮かべると、なんとも言えない心地になった。

「恐怖の中で、私は運命から逃れる方法を考えた。日も曜日も時間も分からぬ中で、死を避けたいと心から願い続けた。どうにかして救われたいという、一心で。すると、少しずつ見えるようになり始めたのだ。最初はぼんやりとしていたのがくっきりと輪郭を持ち始めて、やがてほかの者の姿もよく見えるようになった」

 それが、心眼か。もっと華々しく神々しい、天啓を受けての目覚めかと思っていたが、実際は切実な願いからの目覚めだった。

「父はそれに気づくと私を外へ連れ出し、後継者の席に据えた。それが、五歳の時だった」

「ほかの、子供達は?」

「知らされなかったが、おそらく殺されたはずだ。後継者は一人で良いからな。元々、内々に産ませて育てていた戸籍もない子供だ。何人消えたところで外には漏れぬ」

 我が子を殺して我が子に食べさせるくらいなのだから、今更、なんの躊躇もなかっただろう。有慈が心眼を開くまでに、我が子を何人殺したのか。

「私はあれの器になることを拒否し、また拒否できるだけの力を身につけていた。父は怒り狂ったが、気にせず逃げた。父が死んだ時には、本当に安堵した。九十六人を道連れにはしたがな」

 その中に私の母もいたわけだが、眉を顰める気にはならない。多少はかわいがっていたはずの瑞歩さえ犠牲にしようとした母親だ。生きていたって、邪魔にしかならなかっただろう。死んでくれて良かった。

「私達は、どんな親になるのでしょうね」

「お前は、善き母になるだろう。これほどの呪いを背負い体調を崩しながらも、歪まず育ったのだから」

 有慈の見立てに、苦笑する。瑞歩に対してはかなりのものを抱えて育ったから「まっすぐ」とは言い難いが、確かに誰かをいじめたり貶めたりすることはなかった。瑞歩のような人間には、なりたくなかった。

「どうでしょう。でも、反面教師の姿だけはしっかり刻まれています。あなたもではないですか」

「反面教師にしても、手本が悪すぎる」

 今度は有慈が苦笑したのが分かった。ペットボトルを置いて、スマホを普通の通話に切り替える。確かに手本にするには残虐すぎて、一般的ではない。

 傍にいれば寄り添えたが、あいにく今日は難しい。でも、もしかしたら有慈にはこの距離で良かったのかもしれない。私の反応を目の当たりにしながら話していたら、更に傷ついていただろう。

「子供の頃の話を聞けないのは、それなりの理由があるからだろうと思ってました。話してくれて、嬉しかったです」

「決して気持ちの良い話ではないからな。大丈夫か」

「はい。ショックは受けましたけど、大丈夫です。あなたが私に『よく似てる』と言った理由も、やっと分かりました」

 どうにか立ち直った胸を押さえつつ答えると、有慈は、ああ、と答える。

「覗き見をするようで悪かったが、触れると見えてしまうものは避けられなくてな」

「いえ、責めているわけではないんです。本当の意味がようやく分かって、ほっとしているだけで。私が傍にいることで、あなたが少しでも楽になっていたらいいんですが」

 私が有慈に癒やされているのは抽象的な意味ではないが、その逆は抽象的なものしか存在しない。

「いつも、十分に救われている。お前がいなければ立ち行かない」

 本当に、そうなのだろうか。それなら。

「それなら、どうして私に隠しごとを?」

 踏み込んでしまったのは、これまで隠されてきたことに触れたからだろう。今なら、話してくれるかもしれない。

「お前に話すべきことは、全て話している」

 でも少しして返された言葉は、薄い壁の向こうから聞こえた。それでは、答えになっていない。視線を落として、細く息を吐く。癖のついた髪が零れ落ちて、影を作った。

「宗市さんは、なぜ死んだんですか。細野さんと、教務部長は?」

「それは、私の与り知るところではない」

 少し冷ややかに響いた声に、目を閉じる。

 有慈と長吉は別の人間だし、その力で多くの人を救っている。父親を憎んだからこそ人を救う道を、違う道を選んだはずだ。

 ――九十六人殺した父親と同じ道を選ぶ奴が、真っ当なわけがねえだろ。

 不意に思い出された父の声に、胸が澱んでいく。

「分かりました。ごめんなさい」

 これ以上は、進まない方がいいのだろう。珠希、と呼ぶ声に小さく応えると、溜め息をついたのか、ざらついた音が聞こえた。

「明日に疲れを持ち越さぬように、もう休め」

「そうします。では」

 気まずいままやり取りを終え、スマホを置く。だらしなくソファに凭れて、はああ、と大きな溜め息をついた。

 あんなことを聞かなければ良かった。失敗した。せっかく、昔のことを打ち明けてくれたのに。

 メッセージの着信を告げる音に、スマホを手に取りアプリを開く。

 『すまなかった 早く帰ってきてくれ』

 有慈から届いたフォローに安堵した時、追加で『愛している』が届いた。

 今の有慈は、どんな思いを抱きながらこの言葉を打ったのだろう。

 ――もう、どうにもならぬ。

 あの時の有慈はまるで、と考え始めた頭に髪を掻き回す。ただ素直に受け止めていればいいだけなのに、どうしても余計なものがつきまとう。背景に何かがあるとしても、この言葉に嘘はないはずだ。それなら、信じればいいだろう。もうじき子供もできるのだから。

 今はまだ薄っぺらい腹を撫で、溜め息をつく。

 『私もです』と返したあと少し考え、人生初の『愛しています』を送ってアプリを閉じた。

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