第6話 恋人
「はぁ……」
ヴァイオレットは頬に手を添え、深くため息を吐いた。
「……魔導書を持ってこないと」
本当にあの部屋に閉じ込められるわけにはいかない。
ヴァイオレットは急いで魔導書を持ち出し、リビングに取って返した。
一度も視線を上げないまま分厚い本をルーシーの前に叩きつけるように置き、逃げるように自室に戻った。
眉間にシワを寄せつつ、書類の不備の修正に取り掛かった。
筆が進むはずもなかった。
「っはぁ〜……」
頬杖をつき、体の中の毒素を排出するように長く息を吐き出す。
理不尽に魔導書を奪われたこと、そして身に覚えのないミスの手直しをさせられていることに苛立ちを覚え、イヴリンへの申し訳なさも相まってかなり心がささくれ立っていた。
魔導書の価値も、それを隠すために費やした労力もこれまでで一番だった。
その分、失った反動も大きかった。
しかし、ふと思い出した。明日は一週間に一度の愛しい恋人が訪ねてくる日であることを。
だからと言って全てを水に流せるわけではなかったが、心はいくぶん落ち着き、表情の強張りも和らいだ。
両親やルーシーに見つかれば、また嫌味や小言を言われるだろう。
だが、そんなものは関係ない。
恋人と過ごす時間は、ヴァイオレットにとって何よりも大切だった。
それこそ、大好きな魔法のことも忘れるほどに。
義理の家族に魔法を取り上げられたも同然のヴァイオレットにとっては、愛しい人と過ごす甘い時間こそが心の支えになっていた。
——翌日。
約束の時間の十分前のことだった。
「リアム様がいらっしゃいました」
使用人の言葉も終わらぬうちに、ヴァイオレットは駆け出した。
姿が見えるや否や、その名前を呼んだ。
「リアム様!」
彼女よりも少しだけ背の高い恋人は、目を細めてふっと優しく微笑んだ。
ヴァイオレットは胸の高鳴りを覚えつつ、そばに駆け寄った。
「ヴィオラ。久しぶり。元気かい?」
「はい! リアム様はお元気でしたか?」
「まあ、ぼちぼちね」
「アリアも?」
「もちろん」
アリアというのはリアムの双子の妹のことだった。
「何よりです」
ヴァイオレットは破顔してうなずいた。
「行きましょう!」
「あぁ」
手を引いて歩き出す。早く自室で二人きりになりたかった。
だが、運の悪いことに途中で義母のオリヴィアに遭遇してしまった。
「お久しぶりでございます、オリヴィア様」
「……ふん、ジョーンズ家の次男ですか」
彼女は不愉快そうに眉をひそめた。
「いつも言っていますが、決してヴァイオレットの自室以外には入らないように。そこを除いて男爵家の次男ごときが足を踏み入れていい場所など、この家にはありませんから」
「はい、わかっています」
「……ふん」
オリヴィアは不機嫌そうに鼻を鳴らし、ツカツカと歩いて行った。
部屋に入るや否や、ヴァイオレットは抱きついた。
「ごめんね、リア。気を悪くしないで」
「大丈夫だよ」
「本当?」
ヴァイオレットはその頬に手を添えて尋ねた。
「あぁ。ヴィオラ、君こそ大丈夫かい? 少し落ち込んでいるように見えるけど。何かあった?」
「……さすがはリアね。でも気にしないで。大したことじゃないから……リアが慰めてくれれば」
「っ……君は相変わらず可愛いな」
スッと目を細めて愛おしげに見つめられながら頭を撫でられ、ヴァイオレットは頬を染めた。くすぐったそうに笑って、
「リアも格好いいし、何より綺麗よ」
「そうかい? ありがとう。大好きだよ、ヴィオラ」
抱きすくめられ、さっぱりとした
それだけでも胸が高鳴るが、一週間ぶりなのだ。当然ハグだけでは足りない。
「ん……」
唇を少しだけ突き出して目を閉じた。
「おねだりが上手だね」
そんな言葉とともに唇に柔らかい感触が押し当てられた。二、三度触れるだけのキスを交わすと、すぐにニュルっと舌が侵入してきた。
夕陽が徐々に角度を変えながら差し込む中、二つの影が重なってベッドに倒れ込んだ。
ぐしゃぐしゃになったベッドの上で、二人は抱き合っていた。
ヴァイオレットは胸に顔を埋め、満ち足りた表情でつぶやいた。
「私、リアに会えて本当によかったわ」
「僕もヴィオラと会えて、こうして想いを通わせることができたことを本当に嬉しく思うよ」
「奇跡よね、私たちが結ばれたのって」
「本当にね。ありがとう」
「お礼を言うのは私のほうよ」
笑みを交わしあい、舌を絡めて濃厚なキスをする。官能的な水音が響いた。
それからも口づけを交わしたりお互いの体に触れたりとスキンシップを楽しんでいると、扉の前が何やら騒がしくなった。
ルーシーの焦ったような声が聞こえた。
内容までは聞き取れなかった。
「鉢合わせしてもあれだし、もう少しいたら?」
「そうだね」
「ルーシーもたまにはいい働きをするじゃない」
ヴァイオレットは自らキスをして、
「——リアと過ごす時間を合法的に増やせるんだもの」
「……なるほど。僕の愛しい恋人は
「っ……!」
欲情に燃え上がった瞳で見つめられ、ヴァイオレットの胸と下腹部がキュンキュンとうずいた。
「……もうっ。がっつきすぎよ、リア」
「僕は誘ってきたヴィオラが悪いと思うな。すごく感じてくれてたし」
「そ、それは言わないで!」
「いたっ」
ヴァイオレットは赤面してペシっと恋人の肩を叩いた。
扉の前には、何やら水滴を拭き取ったような跡があった。
「使用人がこぼした水がルーシーさんにかかっちゃったのかな」
「かもしれないわね。まあ、とりあえず私たちを標的としたものではなさそうだわ」
「そうだね」
うなずき合い、話題を二転三転させながら玄関に向かう。
「それじゃあ、またね」
「えぇ、また。気をつけてお帰りください」
「ありがとう」
後ろ姿が完全に見えなくなるまで、ヴァイオレットは手を振りながら見送っていた。
次に会えるのは一週間後だ。
それまでまた頑張るぞ、と気合いを入れた。
一週間後の集合場所は、クラーク家ではなく公園だった。
ヴァイオレットが到着したのは約束の十分前だ。恋人の姿はまだ見えなかった。
珍しいことではあるが、そのときはさして疑問も覚えていなかった。
(まあ、多少馬車が遅れているんだろう)
そんなふうに思っていたが、約束の時間になっても姿を現さなかった。
ここに来ていよいよおかしいと思った。これまで約束を破られたことはなかったからだ。
何かしらの予定外の出来事があったのかもしれない——。
はやる心臓を押さえて、自分にそう言い聞かせた。
しかし、いくら待てども愛する人がやってくることはなかった。
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