第5話 屈服

「旦那様、奥様、お嬢様……!」


 普段からルーシーを露骨ろこつ贔屓ひいきするメイド長などは抱擁ほうようを交わす三人を見て瞳を潤ませていたが、ヴァイオレットはとても共感できなかった。

 義妹であるルーシーに鋭い視線を向ける。


(相変わらずの大根芝居だ。服なんて全部自分で着ておけばいいものを)


 彼女は時々、自分の趣味ではない服を欲しがる。

 ファッションの幅を広げようとしているわけではない。今のように交換条件として提示するためだ——ヴァイオレットが装いになど興味がないと知っていながら。

 この手法を使ってくるのは初めてではなかった。


 そもそも、ヴァイオレットが読んでも意味がないという理由だけで魔導書をルーシーに譲るべきだという主張自体おかしいのだ。

 自分の力で手に入れたものなのだから、どのように扱おうとそれは本人の自由ではないか。譲渡しなければならない理由などあるわけがない。


「お父様の想いを無碍むげにしてしまい、申し訳ありません」

「いや、ルーシーが立派な人間に成長してくれて嬉しいぞ。お前の言う通りにしよう」

「いえいえ、おかしいでしょう」


 ヴァイオレットは思わず笑ってしまいながら抗議をした。


「理屈が通っていません。魔導書を買うために私が尽くした労力とお金はどうなるのですか?」

「あなたは何もわかっていないのですね」


 オリヴィアがせせら笑った。


「いいですか、ヴァイオレット。魔法が使えない上に無能であるお前は、そもそも魔導書を求める資格すらないのです。努力の方向性を間違えているのに認めてもらえるとでも思ったのですか? とても貴族の考えではありませんね。さすがは男爵ごときの血を引く劣等種です。そんなことだから、伯爵家に籍を置きながらあんな身分の低い男爵の恋人しか作れないのではないですか?」

「なっ……リアム様のことをバカにするおつもりですか!」


 ヴァイオレットは立ち上がって義母を睨みつけた。


「リアム様は素晴らしい人格者ですし、あの人ほど私のことを大切にしてくれる人はいません!」


 これまで以上に入手困難だった魔導書を理不尽に取り上げられそうになっている上に、恋人まで愚弄ぐろうされた。

 イヴリンに対する申し訳なさも相まって、ヴァイオレットは自制が効かなくなっていた。


 だから、普段は胸の内に留めていたことを吐き出してしまった。


「それに、確かに身分的にはこちらのほうが上ですが、リアム様の実家であるジョーンズ家の経営は私たちよりも——」


 ——バチンッ!


「いっ……!」


 甲高い音が耳元で響くのと同時に、ヴァイオレットの視界に火花が散った。

 オリヴィアに平手を喰らったのだ。


 かなりの威力で、思わず床に倒れ込んでしまった。

 手をついて体を支え、ジンジンと痛む頬を抑えて視線を上げる。


 オリヴィアが射殺さんばかりに睨みつけてきた。

 冷たい印象を与える細目の瞳孔を見開き、額に青筋を浮かべながら金切り声で叫んだ。


「口をつつしみなさいっ、この無能が! 伯爵の地位にある我が家の経営が男爵家ごときより悪いですって⁉︎ 冗談も大概にしなさい! 第一、我が家が思ったようにうまくいっていないのもお前のせいです! 自分の才能のなさを家の落ち度として数えるな!」

「……はっ?」


 私が関わっているのなどほんの一部だ。上手くいっていないのはクラーク家を牛耳るあなたの手腕に起因するものでしょう——。

 ヴァイオレットは喉奥まで出かかったその反論を呑み込んだ。さすがに理性が制御したのだ。


 しかし、目は口ほどに物を言う。

 彼女の義母を見る瞳には怒りとあざけりが宿っていた。


 肩で息をしていたオリヴィアはさらに激昂げきこうし、癇癪かんしゃくを起こしたように喚いた。


「なんですかその目は! またあの部屋に閉じ込められたいのですか⁉︎」

「っ……!」


 ヴァイオレットの顔からサッと血の気が引いた。

 あの部屋。一度扉が閉まると中から解除することは不可能な魔法が施された、暗い密室。


 誰にとっても歓迎すべき場所ではないだろうが、特にヴァイオレットにとっては地獄そのものだった。

 養子として引き取られる前のトラウマで、閉所恐怖症になってしまっていたのだ。


 瞳に怯えを浮かべ、体を小さく震わせて恐怖する彼女を見て、オリヴィアは余裕を取り戻したようだ。

 口の端を吊り上げて嘲笑あざわらった。


「我が家のためにも魔法が使えないお前ではなくルーシーが魔導書を読んで勉強するべきというのは、幼子でもわかる道理です。お前はこれから直ちに魔導書を持ってきて、書類の修正に取りかかりなさい。仕事もまともにできない劣等種の分際で、これ以上言い訳を並べないでもらえますか? 不愉快です」

「……はい」


 密室に閉じ込めると脅されては、ヴァイオレットはうなずくことしかできなかった。

 これまで手に入れた全てのものをルーシーに譲ってしまっている理由の一つはこの閉所恐怖症の存在だった——主たる原因こそ別だが。


「はっ、狭いところなぞを恐れる未熟者が魔導書を読むなど、まさに時間と労力の無駄でしかないからな!」


 ヴァイオレットは思わず振り返って発言者のサイラスを睨みつけた。


「っ……!」


 義父の顔に怯えが浮かんだ。肩に力が入り、瞳が小刻みに揺れているのがわかる。

 器の小さい男だ。所詮は妻に乗っかることしかできないのだから。


 クラーク家の手綱はオリヴィアが握っているが、それは彼女が優秀というよりはサイラスが無能を極めているからだ。

 少しだけ溜飲を下げたヴァイオレットは、ふと義妹に目を向けた。


 ルーシーは視線には気づいたようだが、顔を上げることもしなかった。

 代わりに、まるで早く立ち去れとでも言うように手をヒラヒラさせた。


「……る」


 ルーシーが何かをつぶやいたが、ヴァイオレットは確かめることもせずに部屋を出た。

 背後で、扉の閉まる音が虚しく響いた。

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