▼第六十三話「愛は、時間と空間を超える」メンネフェル大神殿編⑯
メジェドは亡くした兄が優秀過ぎたせいで、周囲から常に比較され、また自分でも劣等感を持って兄の幻影と比較し続けてきたため、自尊心、自己肯定感が低い。ただ、メジェド自身も紛れもない天才である。マスダルで十二傑に入るということは、巨大な才能がなければ、到底不可能だからだ。メジェドは兄が得意とした武功よりもむしろ、知識を吸収することが好きだった。名家の出であることは重荷でもあったが、巨大な知識の宝庫、陶板庫に出入りできることは幸いであった。かつて紙が貴重であったため、様々な文書は陶板に刻まれて保管されていたのだが、その知が凝結したような地に足を踏み入れる資格を持つ者は、ごくわずかに限られていた。メジェドはその恵まれた特権を、最大限に活かした博覧強記の天才である。頭の中に膨大な知の体系を築き上げ、知の混沌が脳に渦巻いている。
シュルマトがミミズの怪物だ、とディラが襲撃計画を立てるときに話していたとき、メジェドはミミズの習性をいくつか思い出していた。そして、その微細なアイディアの火花が、ここにきて大炎をあげた。
「ディラさん、もう一度神殿に行きましょう。うまくいく確率は五分。だけど、あのセト相手に五分なら、割のいい確率だとは思いませんか?」
「ふむ」とディラは顎に手を当てながらメジェドの計画を聞いた。メジェドの口から飛び出す計画は、ディラの心に希望の炎を灯した。そして口角が吊り上がる。「可能性はあるな」
「この機を逃せば、もう二度とセトに復讐することは出来ませんよ」
ディラは少しだけ考えたのち、決心を固めた。
「父の最後の獲物だった<ラーの瞳>は手に入れられたが、これはあくまで父のぶんだ。よく考えれば、私の復讐はまだ終わってない。それに、あやつらを見捨てれば、寝覚めも悪くなろう」
「じゃ、じゃあ!」
「アヌビスには美少女大賞の賭博で勝たせてもらったからな。この賭博にも乗るとしようじゃないか」
——ウプウアウトは突然、すべてが必然であったことを理解した。そしてこれから起こることも、すべてが偶然の横糸と必然の縦糸とが交差する場所にあるということを知った。すべてが揺れ動き、すべてが不確定で、どんな可能性にも濃淡があり、そのすべてが起こり得る。そしてそのすべてを自分自身が合意し、選び取っているということ、そのことが、四歳のウプウアウトの目を見て腹に落ちた。
「俺が、大いなる運命を選んだ。俺が、その感情のすべてを経験し、理解し、楽しむために。そうだったのか——」
魂にとって、どの感情も等しく面白い。それは身体を持ち、生きることでしか得られないことだからだ。生まれてくるということは、感情を体験し、味わい切るため、ただそれのみが目的であったのだ。そして、真に偉大な経験を楽しむには、それだけの土台が必要なのだ、とウプウアウトは理解した。ラーの孫だけあって、ウプウアウトの理解の速度もアヌビスに劣らず速い。
「君が、この世界を選んだ。君が、この親を選んだ。君が、すべての体験に合意した」と四歳のウプウアウトが言った。
アヌビスはウプウアウトの内面の会話を、傍で見守っていた。アヌビスには、ウプウアウトの魂の会話が、感覚として入ってきている。
そして、アヌビス自身も気付く。俺の人生は、俺が選んだのだ、と。
母に力を封印され、捨てられたことも、厄病神として忌み嫌われたことも、セトに追われたことも、ラーの助けを得て転生したことも、すべて、自らの魂が、「生」を味わい切るための選択であったということを。
「被害者はどこにもいない。それぞれが、それぞれの望む人生を体験している」と四歳のウプウアウトが言った。
「でも、俺はいいとして、母さんがあんなふうに死ぬなんて、どうしてだよ!!」とウプウアウトが吠えた。
そのときアヌビスが、ウプウアウトに対して、母ネフティスを目の前に出すように言った。
「母を……?」
「ああ。お前が一番苦しんでいるのは、まさにそこだ」
ウプウアウトの心臓に、激しい動悸が起きた。頭が真っ白になり、イメージがすべて掻き消えていく。
「ウプウアウト、大丈夫だ。すべては終わった。俺もそばにいる」
アヌビスはウプウアウトの手を握った。
すると、焼け焦げたネフティスの遺骸がウプウアウトの目の前に現れた。寒気が走り、歯の根ががたがたと震えるほど恐ろしかった。そのとき、アヌビスの手のたしかな温もりが、ウプウアウトの恐怖をやわらげた。そうだ、すべては終わったのだ。
「母さん、苦しかったね。もういいよ。終わったよ。楽になって……」
すると真っ黒な炭の塊になっていた遺骸が、光を放った。そして一瞬ののちに、母ネフティスは生前の姿を取り戻した。
「ウプウアウト、大きくなったわね」とネフティスは微笑んだ。
「母さん、母さん!!」
ウプウアウトは十年の時を経て、母と抱擁を交わした。ウプウアウトにとって、何よりも飢えていたもの、それは母性であった。しかし、その母を思い出すとき、見るも無残な姿でしか思い出すことが出来なかった。ウプウアウトは母の姿に怯え、悲しみ、やがては母の記憶を遠ざけるようになっていた。しかし、いま、その枷が外れた。母の皮膚は蘇り、顔も生前のものに戻った。もはや、恐怖も忌避感もない。ようやく、傷の一部が癒えたのだ。そして、時を超えて、母の温もりを感じることが出来た。
ネフティスはウプウアウトを抱き締めながら、頭を撫でた。もうそんな年ではない、とウプウアウトは照れたが、ネフティスは離さなかった。愛は、時間と空間を超える。ネフティスは、生も死も超えて、たったひとりの息子に、愛を注いだ。ウプウアウトは、全身全霊、身体のすべて、魂のすべてで、それを感じ切った。
「私の死は、私自身の選択と行動の結果よ。私は、何も悔いてないわ。……あなたを遺して死んだ以外はね。でも、それも納得していたのよ」
「なんのためにその選択を選んだの?」
「私が不完全な人間だからよ。でも、いいの。その不完全さこそが、人を人たらしめ、生に彩りを満ちさせるものなのだから。あなたももう少ししたらわかるようになる」
「……母さんはオシリスのことが好きだったの?」
ネフティスは微笑んだ。
「もう時間がないわ。私の願いを聞いて」
ウプウアウトは母に抱かれながら頷いた。
「どんなことがあっても幸せになると約束して。それから……父と母を知りなさい。——私は、褒められる母ではなかったけれど」
「そんなことない!! 母さんは偉大だった!!」
「幻滅してもいい。私はひどい母だった。だけれども、あなたへの愛は本物だった」
ネフティスの悲しみと自戒の波動が、愛の暖かさに混じっていく。
「母さん。自分を責めないで。母さんが何をしていたとしても、俺は母さんの息子だ。そして、それを選んできたんだ」
ネフティスの気が、安心したのか緩んだ。
「さあ、もう時間がないわ。でも、あなたが望むのなら、いつでも心の中で会うことが出来る」
ネフティスは光に消えた。ウプウアウトは十年の時を超えて受け取った愛に震えていた。まるで居なくなっていた自分自身が戻ってきたかのような感覚であった。
そして、光の中からもう一人現れた。
「と、父さん!!」
それは、百虎拳ハラサであった。
「ウプウアウト。やはりお前から父を奪ったのは間違いであったな」と悲しげな顔をしている。
「間違いなんかじゃない!! 俺は父さんから、父の愛を知ったんだ!!」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、お前に貧しい暮らしや、孤独な生き方をさせてしまったかと思うと、な」
「父さん。それも俺のさだめだったんだ。それに、父さんのおかげで、俺は今の俺に育った。セトに育てられてたら、どうなっていたかわからないよ」
「はっはっは。お前も大人になったな」とハラサは涙ぐんだ。「本当にいい若者だ。ああ。自慢の息子だ」
「でも、セトについてどう考えていいか、わからないんだ」ウプウアウトは、久しぶりに会う父に、自身の悩みを吐露した。「憎んでいるのに、憎み切れないんだ。母さんと、父さんの仇なのに」
ハラサはウプウアウトの肩を抱いた。
「お前は、お前を、もっと好きになれる。お前が、自分自身を、もうどうしようもないくらい大好きになったとき」
「なったとき?」
「お前は両親を許すことが出来る。お前を、この世に生んでくれたというただ一点だけで、許せるようになる。そして、大好きなお前自身と、両親の共通点が次々に見つかるだろう。お前は、お前によく似た両親を、それで愛することができる。なぜならば、それはお前自身でもあるからだ」
ウプウアウトは、父の言葉を胸の中で反芻した。アヌビスは、ハラサの言葉を聞きながら、顔も名前も知らぬ両親を想った。いつか俺も、両親を愛せる日が来るのだろうか?
「お前が、こうして、過去のすべて、現在のすべて、未来のすべてを肯定し、愛することが、お前の視野を広げるだろう」
「わかったよ、父さん。父さんが心置きなく安らかに眠れるように、きっとそうする」
「頼もしいな。さすがは我が息子だ」
そしてウプウアウトのチャクラについていた黒い染みが、完全に消えた。チャクラは光をいや増し、闇の球の内部に、ウプウアウトの魂から発する、愛の光が満ちていく。
ウプウアウトのチャクラは修復され、第四位階に昇境し、乳母サーラやネフティス、ハラサたちの加護によって、内功も回復した。アヌビスも悟りを得て、第三位階に昇境した。愛の力を感じ、信じることが出来たのだ。
愛の光は闇を打ち払い、闇の世界が瓦解していく。
「ウプウアウト、いまだ!! 出るぞ!!」
「応ッッ!!!!」
「五山燎火剣功・<
「百雷剣・<
(つづく)
転生のアヌビス~厄病神は至尊の末裔~ 橋村一真 @kazuma_hashimura
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