▼第六十二話「己が選び取った人生」メンネフェル大神殿編⑮
ウプウアウトが炎の中で泣いている情景が、アヌビスの心に広がった。アヌビスは、四歳のウプウアウトを抱き締めながら、その恐怖と混乱、不安と絶望をありありと感じ取っていた。
これまで自身の世界のすべてであった、親しい者たちの死の連続が、彼の心に消えない傷痕を残していた。それはアヌビスの心さえもかじかませるほどの寒気を孕んでいて、気を抜けばアヌビスの感情ごと振り回しそうなほどであった。
そしてアヌビスは、この少年をどうにかして泣き止ませたい、となんの打算もなく心から思った。そしてその方法も、魂の奥底の秘められた部分から発せられる直感によって、瞬間的に理解したのだった。
それはアヌビスならず、人間なら誰でも持っている能力だが、アヌビスはそれがとくに濃い。
「お前、十年くらい前にたくさん愛する人を失ったんだな」
「どうしてそれを……!」
「まだ泣いてるんだよ、四歳のお前が。そいつを泣き止ませてやることが、俺たちにいま一番必要なことってことも、わかるんだ」
「死ぬ直前だってのに、なんとくだらないことを!!」ウプウアウトは吠えた。弱みを見せることを恐れるその様は、野生動物のそれである。それは、復讐のために孤独に生きてきた者の宿命だった。
「死ぬ直前だからだ。俺はどうせ死ぬ。だったら、心置きなく本当のことを話せるはずだろ?」
死を目前にしても、果たすべき役割がそこにあれば、人の心は安定を保ち得る。一本の芯が、そこに走るのだ、とウプウアウトはアヌビスを見て理解した。そして、その目の真剣さにほだされた。
「それに、言っておくことがある。俺もラーの子孫で、たぶんお前の従兄弟かなんかだ。だから、家族だと思って話してほしい」
アヌビスは自らの秘密をはじめて他人に語った。そうすることで、ウプウアウトの心の負担が軽くなると思ったのだ。
「ああ、言われてみたら納得するよ」とウプウアウトは言った。アヌビスのきらめく才能と成長速度には、ラーの血の片鱗を感じさせるに十分だった。「でもお前は孤児なんだろ? どうしてそのことがわかる?」
「ラーがいきなりやってきて、俺が孫だって言ったんだよ」
「ラー様に会ったのか!? 地上から消え去って数十年は経つというのに!?」
「ああ、よぼよぼのスケベジジイだったぜ」アヌビスは屈託なく笑った。アヌビスと共に闇に封じられたラーの思念体は、子供の足でアヌビスの脛を蹴った。
ウプウアウトはアヌビスを見て、言い様もない親愛の情を感じた。このアヌビスを助けるために一目散に走った自分を、誇りにさえ思った。この快男児と、自分とは、同じ血を分けた遠い兄弟であったことに、感動し、震えた。
「お前は俺の弟だ、アヌビス」ウプウアウトはアヌビスを抱き締めた。
「嬉しいよ。ラーの子孫が、セトやホルスみたいな嫌な奴ばかりじゃないって知れて。あ、セトはお前の父ちゃんか、すまん」アヌビスはまた笑った。
「お前が、十年前の俺を泣き止ますことが正しいと言うのなら、信じよう」
「ありがとう、兄さん」
アヌビスは、現実世界で出会う、はじめての肉親の温もりに、やはり心が満たされた。それは、心中に無数の花が咲き乱れるような甘い喜びと、光が揺れ、踊り、形をつくり、発散し、溢れていくような鮮烈な感動と、自分と肉親とに共通する深淵の振動が共振し、増幅し、満ちるような通じ合う感覚とを、同時に味わうということだった。
(これが、家族か……)とアヌビスは長年追い求めていた感覚が得られ、深い満足を得た。(死ぬ前に、こんな思いが出来て、本当によかった)
そしてアヌビスは目を閉じ、ウプウアウトのチャクラに意識を集中した。
「ウプウアウト、まずは目を閉じて深呼吸するんだ。身体の力を……抜いていく。手足がだらんと重く感じる……。全身の筋肉が緩み、力が入らなくなる……」
ウプウアウトはアヌビスの指示に従った。身体のすべての力が抜け落ちていき、砂の詰まった麻袋のように重く感じる。
「そして、心の中で、自分の前に、四歳の自分を出してみるんだ」
ウプウアウトは四歳の自分が光の中から現れ出でるのを見た。幼い彼は、炎の中で、大声で泣いている。だが、誰もウプウアウトに構っている余裕がない。
「どんなふうに出てきた?」
「……炎の中で泣いてる」
「周りの状況は?」
「王宮が爆発して、それから辺り一面に火の手が上がってる。……みんな大混乱で、誰もが叫びながら走り回ってる」
「お前の目の前には何が見える?」
「燃え死んでいく乳母の姿だ」
ウプウアウトは顔をしかめ、そして涙を流し始めた。
「よし、ウプウアウト。俺の言うことをよく聞いてくれ。時間をぴたっと止めるんだ」
「時間を?」
「その場の状況を、停止するんだ」
「……止まった」
「いいぞ。それから、子供のときの自分を抱き締めてみて。そうすると、幼い自分の感情が流れ込んでくる」
ウプウアウトは、凍り付いた時間の中で、泣いている自分を抱き締めた。そこには、拭い去りようもない戸惑いと、恐怖とがあった。
時間は傷を忘れさせるが、傷自体はなかったことにならないのだ、とウプウアウトは鮮度ほとばしる感情の数々を前に、驚きをもって実感した。
なぜ、乳母は死んだのか。なぜ、こんな事態に陥っているのか。四歳のウプウアウトは、運命の理不尽を呪い、天地を呪った。そして、そうした感情もすべて、アヌビスに伝わっていた。
無意識の世界に時間は本質的に存在せず、また垣根も存在しない。アヌビスはその強い感情のすべてを受け取り、この少年を理解しようとしているのだった。
「どう感じている?」
「……なんと言えばいいか」
「喜怒哀楽だったらどれが近い?」
「怒りと悲しみと、どちらも強く感じている」
「怒りは何に対して?」
「怒りは……運命と、そして、乳母を助けられなかった弱い自分に対して」
「悲しみは?」
「自分を愛してくれた人が、目の前で死んでしまった悲しみだ……」
ウプウアウトは嗚咽した。涙を流し、鼻水を垂らした。アヌビスはドレスの裾を破り、その端切れをウプウアウトに渡してやった。
「まずは、その気持ちを受け止めてやって欲しい。誰にも言えなかったね、自分でも抱えきれなかったね、って、子供だった自分に言ってあげるんだ。大人になった俺が、その話を聞きに来たよって教えてあげてほしい。俺は君だよ。だからなんでも聞かせてって伝えるんだ」
「わかった」アヌビスの言葉に涙をさらに流しながら、ウプウアウトは懐中の自分にその言葉を語りかけた。
四歳のウプウアウトは、ようやく現れた信頼できる大人の登場に、より一層の涙を流しながら、その想いを告白した。ずっと怖かったこと、ずっと寂しかったこと、ずっと自分がどうなってしまうのか不安だったこと。そして、自分が乳母を助けられず、悔いていること。
それらが吐き出されるたびに、ウプウアウトの胸は、甘さにも似た痛みが走る。
「そして、伝えてほしい。君は子供だった。乳母を助けられなかったことを悔いているけれど、それはどうしようもないことだった、と。もう自分を責めることを、やめてもいい、と伝えるんだ」
四歳のウプウアウトは、はじめ、それを認めようとはしなかった。ウプウアウトは、我ながら不憫に思った。
「お前の手を見てみろ。どうだ。小さく、丸みを帯びた、赤子のような手だろう」とウプウアウトは自らに言った。「お前は子供だ。今こそ認めよう。俺は無力だった」
四歳のウプウアウトは、自分の小さな手を見つめながら、震えていた。
「だから、お前はもう、自分を許せ。もう十分すぎるほど悔いただろう」
「そっか、もうすべて、終わったんだね」と四歳のウプウアウトが顔を上げて言った。涙も止まっている。
「ああ、すべては終わった。もう十年も前に、この出来事は終わったんだ」ウプウアウトは涙声で、幼い自分に伝えた。
四歳のウプウアウトの身体から、強張りが消えた。アヌビスはそれを明敏に察知した。
「四歳のウプウアウトのお腹から、不安や恐怖、後悔なんかの黒い塊がたくさん入っているから、『もう終わったよ』『もう十分苦しんだよ』って言いながら、その黒い塊を取り出すんだ。取り出した塊は、光になって消えていく」
ウプウアウトは、幼児の腹部に詰まっている黒い塊を、綱を引くようにしてするすると取り出していった。それは人間の内部に入っているとは思われぬ莫大な量であったが、少しの時間ですべてを抜き終えた。それらの黒い塊は、外気に触れた途端に灰のように霧散していった。
「それから、乳母の肩を叩いて、『終わったよ』と教えてあげてほしい」
「う、乳母に?」
「目を覚ましてくれるから、やってごらん」
ウプウアウトは言われるがままに乳母の肩を叩き、もう終わった、と告げた。
果たして、乳母のサーラが目を覚ました。
「もう終わったのね」と乳母が言った。
「ああ、終わった」とウプウアウトが言った。
その瞬間、乳母の身体が光りを発し、焼け焦げた身体が、きれいに元通りになった。
「大人になったあなたを見られるなんて、こんな幸せなことがあってよいのでしょうか」と乳母は涙を流した。
「これからはいつでも見られるさ。いつまでも、俺を見守ってほしい」ウプウアウトも泣きながら言った。
「いままでも、そしてこれからも、あなたを見守り続けるわ。あなたを、我が子のように愛しているのだから」
ウプウアウトは、乳母に抱き締められた。もう何年も感じたことのなかった安らぎが、ウプウアウトを満たした。
「あなたが何歳になっても、どんな姿になっても、どんな行いをしようとも、私は、あなたを変わらずに愛しているわ」
その愛の波動は、ウプウアウトの心や魂はおろか、アヌビスの胸さえも震わせた。そして、闇のなかに、薔薇色の愛の光が拡がっていった。
「ウプウアウト。いつでも、お前の胸の中に、その愛の炎があるんだ。お前は、いつでも愛されているんだ」
「アヌビス……」ウプウアウトはとめどなく溢れる涙を拭きもせず、その震えをただただ感じていた。
「そして、乳母に聞いてごらん。この出来事が起きた意味を」
ウプウアウトは乳母サーラの温もりを感じながら、なぜこの出来事が起きたのか、と問うた。
「それはね、すべてが定められていたことだったからよ。私が死ぬことも、お前が悩み苦しむことも。そして、お前の懊悩と孤独とが、お前の魂を強くすることも」
「俺は強くなんてならなくていい、ただ平和に暮らしていたかっただけなんだ」とウプウアウトは反論した。
「ええ、そうね。よくわかるわ。でも本当にそうならば、あなたはセトの息子として生まれてくることはなかったでしょう」
「俺が、セトを選んだ?」
四歳のウプウアウトが十四歳のウプウアウトを見上げた。
「これは、僕が選び取った人生なんだ」
ウプウアウトの腹部が光を放った。
(つづく)
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