▼第六十一話「闇の中の少年たち」メンネフェル大神殿編⑭
改悛を要求するセトを前に、ウプウアウトは義父ハラサの言葉を思い出していた。セトは、義父ハラサの息子を殺し、彼の人生を変転させたうえ、母を殺した。ウプウアウトの脳裏に、黒ずんだ炭の塊と化した母の亡骸が、いやにはっきりと浮かび上がってくる。そしてハラサの死に際、勇士の死をも鮮明に蘇ってきた。恨みを捨てろ、とハラサは言った。が、若きウプウアウトにはそれがどうしても出来ぬ。何のためにテーベまで落ち延び、マスダルに入ったのか、とウプウアウトは自問し、苦しんだ。それはすべて、セトを倒す力を手に入れるためではないか。
「そうです。それでよいのです。そなたはそなたの道を行くために、友の命など、捨て置けばよい。それでこそ、余の息子です」
セトの言葉に、ウプウアウトは愕然とした。俺は、セトと同じ選択をしようとしている——。
ウプウアウトは、歯が砕けんばかりに食いしばった。
「わかった。俺はあんたの息子に戻る。だからアヌビスは助けてやってくれ……」
「それは難しいですね」
「なっ……!!」
「ここまでの大事件を起こしたものを無罪放免にしたとあっては、メンネフェルの治安が悪化するでしょう。ヌビアやアッシリア、ウル、バビロニアが一斉に牙を剥いてくることになります」
「そんな、話が違うだろ!!」
「これが大人の世界です、ウプウアウト。そなたの母を真に殺したのは、こうした世界の
逆上したウプウアウトは、怒号をあげながら剣を抜き放ち、セトに飛び掛かった。わずかな内功を振り絞り、渾身の一撃を浴びせかかった。しかし、突如現れたセトの闇がウプウアウトをも捕らえ、飲み込んでいく。
「やれやれ、十四歳にもなってまだその程度ですか。あまりにも不甲斐ないですよ、ウプウアウト」
テーベの全エリートが集うマスダルの中で、第二宮の座を占めたウプウアウトですらも、セトにとっては物足りぬのであった。
「これから親子として
「離せ、離せええええ!!!! 俺の父はハラサただひとりのみだ!!!!」
「異なことを。その男は、そなたから父を奪った張本人でしょう。誘拐犯に同情するのですか?」
「だが、真心と愛があった!!」
「真心と愛! それは傑作ですね」セトは大きな声であざ笑った。しかし、目だけは笑っておらず、見る者の心臓を射抜くような冷たさをたたえている。「それが血や責任よりも重いというのですか?」
「当たり前だろ!!!!」
「久しぶりに会えたと思ったら、息子は反抗期真っ盛り、といったところでしょうか。……ですが、これも育児の醍醐味なのかもしれませんね。ふふふ。まずは、教育から始めましょう。この世界は強者尊。力がない者は、屈服するしかないのです。そして、そなたは——弱過ぎる」
ウプウアウトを捉えていた闇が大きな花弁のように広がり、そして一気にウプウアウトを飲み込み、口を閉じた。
ウプウアウトは、闇の中を漂っている自分に気が付いた。どれくらい時間が経ったのか、見当もつかない。外界と断絶された時空間であると、ウプウアウトは肌で理解した。
そして、闇の中で一点、光を放つものがあった。ウプウアウトは光に誘われる蛾のように、その光を目指し、闇の中を遊泳していった。
光に近付いていくと、その輪郭がおぼろげながら見えてきた。どうやら、人間である。膝を抱えて座り込んでいる。ウプウアウトはさらに速度を増して、闇の中を進んだ。近付くにつれ、それが銀髪の少年であることが明らかになった。
「アヌビス!!」とウプウアウトはアヌビスに駆け寄った。
「ウプウアウト、どうしてここに!」アヌビスは、友の声に芯から驚きつつ、顔を上げた。
「お前を助けに来たんだよ。だけど……」ウプウアウトは顔を伏せる。「すまん、俺の力じゃとても及ばなかった」
「お前まで死ぬことはなかったのに」
「本当になんと言っていいか……。俺はセトの息子なんだ。だから殺されはしなかった」
ウプウアウトは複雑であった。長年、父に会えば殺されると信じていた。が、その父は、ウプウアウトを殺そうと思えば何度でも殺せたはずなのに、対話を選び、害さなかった。ハラサが言っていたように、殺されるということは杞憂だったのか。
何が正しいのか、これからどうすればいいのか、ウプウアウトは混乱していたのだった。
「は!? お前がセトの!?」
「ああ。詳しい話は今度してやる。ああ……!」とウプウアウトは追い詰められた表情を浮かべ、頭をかいた。「今度は、もう来ないだろう。お前はセトに殺される。……息子が頼めば見逃してくれるんじゃないかって思ったんだけどな。そんな甘い話が通用する相手じゃなかった」
重圧に圧し潰されそうになっているウプウアウトを見て、アヌビスはその肩に手を置いた。
「顔を上げてくれよ、ウプウアウト。助けに来てくれただけで十分だ。それに、俺が死ぬのは、俺の選択と行動の結果だ。お前は何も悪くない。……お前がそこまで思い詰めるのを見る方が、俺には心苦しいよ」
「俺は弱い、弱過ぎる」友を助けられぬ不甲斐なさに、ウプウアウトは悔し涙を流した。
「もういいんだ。俺は数か月間だけど、十分に楽しんだ。ウプウアウトや、みんなのおかげで、孤独だった俺の人生に、色が付いたんだ」
そのとき、アヌビスはウプウアウトの腹にあるチャクラに、黒い染みのようなものが浮かんでいることに気が付いた。そこに意識を集中すると、幼いころのウプウアウトの姿が、アヌビスにはっきりと見えた。
アヌビスは残り僅かな命ということも忘れ、ウプウアウトの幼児期を心の中で抱き締めていた。
メンネフェル大神殿から東に二キロメートルほど離れた、ドゥスウルトゥの大邸宅の庭園の中心にある二十五メートル四方の池の水面に、いくつかの泡が浮かんできた。そして、二つの頭が、音もなく現れた。ディラとインプトは、水中でも呼吸の出来るハーモニカ状の魔道具を口から素早く取り外すと、庭園の緑陰に身を忍ばせて様子を窺った。ここには捜査の手は及んでいないようだった。ほとんどの家人は大神殿の催しを見に家を空けており、またわずかに残った家人たちも、大神殿の宙空に浮かぶ炎の隼に見惚れている。すべては計画通りだった。レンシュドラの報告も正確であり、二人は脱出ルートを苦も無く策定することができた。
ディラとインプトは互いに無言のまま視線を交わし、そして音もなく駆け出した。
メンネフェル郊外のスラム街の隅で、ディラとインプトはレンシュドラとメジェドと再会した。
「はっはっは、してやったり!! あのメンネフェル大神殿から、ついに財宝を盗み出したぞ!!」とディラは言った。周囲に人が居ないとはいえ、用意周到なディラにしては珍しく不用心である。それほど心が躍っていた。
「そ、それがディラ……」とレンシュドラが言いよどんだ。
「ん? あいつらはどうした」
「セトに捕まったアヌビスをウプウアウトが助けに行って、戻って来うへんのや!!」
ディラは動揺を隠せなかった。しかし、すぐにそれを鎮めた。
「仕方がない。奴らの命運はここまでだったのだ」
「ディラ!! 助けに行けへんのか!!」
「お願い、助けに行って!!」インプトはディラの腕を掴んで言った。
「相手はセトだぞ!!」とディラは一喝した。「貴様らの命は、そもそもラーの秘庫で尽きたと思え。助かったお前らが強運だったのだ」
レンシュドラは肩を落とし、地面を見つめた。あいつ、厄病神だなんだって言うとったけど、ほんま不運な奴や——
「私の取り分、全部ディラにあげるから、お願い……!」
「ボクの取り分も、二人が助かるなら要らん!!」
縋ってくる子供二人を、ディラは振り払った。
「銭金の問題でないことくらい、お前らにもわかるだろう!! ……お前たちは大金を得たのだ、遊んで二人のことを忘れるがいい」
「じゃあディラはお父さんのことを忘れられたの?」とインプトが必死の形相で食い下がった。
「父と友人では話が違う」
「いいえ、変わらないわ。確かに、私たちは付き合いが短い。でも、それで割り切れるような関係じゃないの。アヌビスは、私たちの命を救ってくれたのよ!」
「ならその命を後生大事にすることだ」
「ディラ!!!!」インプトは叫んだ。
そのとき、メジェドが一歩前に出た。男らしさとは無縁だったメジェドの目が、いまは凛と燃えている。
「ディラさん、僕に考えがあります。セトに、もう一泡吹かせてみませんか?」
(つづく)
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