語りの酒、先輩の話
まだ酔いが目に残っているな。焦点がどうにもふらついている。見ようとしても見られない、見たくもないのに見てしまう、酒の回った神経はどうにも性根の悪い真似をする。
随分、それこそ無茶な量をきこしめした様子じゃないか。玄関で倒れ込んだときは驚いたとも、あんなに派手に打ったら膝の皿が割れたっておかしかない。骨まで大事がないなら幸い、それでも明日の朝には菫の如くに青くなるだろうよ。何、こうして教えておけばお前も首を傾げずに済むだろう。覚えのない痣ほど据わりの悪いものもないからな。酔った最中のことは忘れても、こうして
さておきそんな足元のおぼつかないような有様でも、きちんと部屋に戻って来たのは偉いものだ。先にも言ったが、しくじったとて一度目だ。それなら気に病むまでもなかったろうに……俺のためではないと謙遜するだろうが、結果としては俺の利益だ。それなら俺の基準において、お前を讃えるも道理だろう。慈悲に満ちたる、情の深い、功徳のある──ああ、けれどもお前、これは小言の類になるが、よろめきふらつく千鳥足で風呂に入るのは危ないだろうに。壁に扉にぶつかるたびにくすくすと楽しげに笑っていたが、それで頭でも打てばおしまいなのだからな。思うよりはあっけなく終わる、終われなければ長く苦しむ。お前がそうなるのは俺としても本意ではないし、お前もそうはなりたくないだろう。それでも寝支度を済ませたのだから大したものだ。
寝転がってからはすぐに寝ついたろう。寝つきがいいのは俺としては大変嬉しいが、よくそれで動いていたものだ……ああ、違うとも、お前の醜態を並べて嗤いたいわけではない。それほどの酔いでも目が覚めたのが、夢を見るのが不思議だろうと、賢いお前は思っているんじゃないか。
その辺りも俺の手管、と白状したいだけのことだ。多少の手間はあるけども、微酔に煮える脳髄とて夜に浸せば夢を吐く。加減が効かないところもあるが、およそ死ぬようなこともない。心当たりがあるだろう、安酒の温い眠りに溶け出す夕暮れ、台所の隅に蹲る母の面影、落ち切らぬ日射しに灼ける路面、伸びて焼きつく影の黒さ、右手が縋って掴んでいたはずの腕、手の中の生温い膚の感触、繋がって伸びる影、けれども隣にはただ夏の熱が蟠るばかりの──
脅かすつもりはなかったが、寝かしつける気もなかったが、どうか目は開けておいてくれ。いつもならすぐに開くだろうが、酔って閉じればそのまま眠気で縫われて終わるもないわけでない。俺が触れれば目も開くが、それはお前も──そうとも、そうして
済まないことをしたとは思う。俺としてもお前を脅かすのは本意ではない。けれどもお前、そうして目がこちらを見たな。
酒精の名残りも深くに沈んだ。いつもより長らく話した甲斐があった。これでようやく本題に入れる──何、さしてすることは変わりない。いつもと同じ、お前の話だ。
そうしてお前がどろどろとなってまで酒を飲む理由も分からなくもない。酒の
高揚に麻痺と弛緩、それぞれに蝕まれつつ落ちる眠りが普段のそれより少しばかり死に近くなる、自ら淵に身を投げ出すような真似をする疚しさ。投げ出した手足の重さと闇に癒着する瞼の熱。このまま目が覚めなければいいのに、と願うような眠りの甘さ。そこに至る寸前、緩めた理性と蕩けた道理で他者との境界を滲ませる愉しみがあるのだろう。
知っているとも。だって俺ともそうして楽しんだろう──先輩と後輩なら、そうした付き合いもあって然るべきだろうに。
別に酒を介さずとも楽しく過ごせる、身も蓋もないがそれも事実だ。酔いを繋ぎに会話を薄めなければならないほどに、関わりのない間柄でもないだろう。先輩というものは血やら法やらで定められた縁でこそないが、曖昧なりに心地はいいはずだ。曲の趣味と本の好みに酒の強さが近いのならば、成程馴染むも早いだろう。血で繋がっても分かり合えないものなどざらにある、その点他人は気が楽だ。最初から分かり合おうという気負いがない。それを無責任と詰られればそれまでだが、そうだとしても責められるものでもあるまいよ。
そうして諾々と日々を過ごして、映画も本も何となく気分でもなく、それなら飲もうという話になるたび、よく使う店があるだろう。
大学からの最寄り駅、その踏切の向こうの飲み屋通り。そこの手前、二階建ての小さな飲み屋だ。覚えがあるだろう、サークルの新歓で連れて行かれて、それから飲むとなると馬鹿の一つ覚えのように通っているあの店だな。酒も飯も凝ったものは出てこないが、何しろ安くて量がある。団体だと二階に通されるから、お前と行くと下のテーブル席を案内されるのも常だな。狭苦しい席だが利点もある、サークルの連中が来たとして、奥の方ならまず見つからない。見つけたからとて宴席に誘われるようなこともないだろうがな。お前ひとりならともかく、俺はそこまで好かれていない。俺もそこまで好きでもない。まあ、OBの連中がいるなら顔を出してやってもいいな。飲み代が出るし酒も追加で出る。多少の愛想はいるかもしれないが、得るものがあるなら手間を惜しむものでもない。
基本的には学生向けの安い飲み屋だが、俺はそこまで嫌いじゃない。肴は大したものがないが、日本酒だけはそれなりに種類がある。そもそも俺は飯の質に拘るものでもないからな、一向困ったこともない。お前も似たようなものじゃないか? ──ああ、玉子焼きをいつも頼むな。あれもこだわるやつはうるさいだろう、甘め辛めや火の加減やら……なんだ、玉子が好きなのか。成程それなら文句もないか。志が低い。粉やら水で伸ばしでもしない限りは何でもいいってことだろう。寛大なことだ。
そうして二人して飲み食いするのは狭いテーブルだ。薄茶色の木の天板に、真っ直ぐ立った四本脚。さして広くもないところに器だの皿だの酒瓶だの銚子だの杯だのをぞろぞろと並べて、たまに注ぐのをしくじっては酒を零したりなんかしている。
飯を食うときは飯を眺める、酒を飲むときは酒を睨む、人と話すときは人を見る。何かを食らいに机に縋るとき、食卓につくと言うくせに、食事のときに机を見たりはしないものだな。当たり前だ、ただの菜を、肴を、杯を置くためだけの空間に、わざわざ意識を向けてやる必要がない。自分に触れる、関わる、取り込むものは目玉を向ける必要もあるだろうが、ただ並べるだけの脇役にどうして目が向く理由があるものか。
けれどもお前、あのとき目を向けただろう。二人で酔いの回って豊盃を空けたとき、目の縁を赤くしながら俺の呼ぶのを聞いただろう。そうとも、指し示したのは俺だ。素直で優しいお前は、行儀よく俺の物言いに応えたな。
空き皿の乱雑に並ぶ机上、その端の方、角から指の関節ふたつほど離れたところ。
『お役に立ちましたか』と濃い黒色で記された文字が暈けた照明に光るのを、お前はそうして見ただろう。
別にそれだけ、ただ文字列のあるばかりだ。何しろ飲み屋だ、酔っ払いがうわごとを書きつけるような愚行をしただけだと言えばそれなりに理屈は通る。机の上に筆記用具なんてものはないが、酔っ払いが自前のものを出してこないとは限らない──そんな律義なやつがいるのかったら、まあ、ないと言い切れはしないだろうよ。教師でも何でもないのに常日頃分度器を持ち歩くギター弾きだっているのを俺は知っている。どんな人間がいるかなど、分かったものじゃない。そうだろう?
けれどもそうして文字の書きつけられたのがあの机だけではないといったら、お前は──ああ、いい顔をしてくれる。そうして目を瞠るのを堪えて、それでいて耐えるように口元を強く結ぶのだから話す甲斐がある。
そうとも。あれからあの店のどの席に座っても、どの時間に、日に行っても、同じ字で、同じ文字列で、同じ濃度で書かれたそれを見つけているだろう。落書きにしては珍しいような、幅も高さも息詰まるほどに几帳面な線の、それこそ履歴書に書くような字で書かれたあの一文を、だ。
そうして俺たちはその文字列に何度も遭遇している。酔いに飲まれた目にその黒々とした線を映して、互いに少しばかり首を傾げて、何もなかったことにして、また酒を呷って益体もない話をして夜を過ごす。
お前、店を出るたび、綺麗に忘れてしまうのだろう。そうしてまた、暖簾を潜って注文を投げて、酔いの進むまで何一つ思い出せずにいる。
何しろ狭い店、狭い席だ。テーブルだってそんなに広いものでもない。だからお前、あの店に行くたびに確かに見ているはずだとも。薄明りの滲む端の方、擦れせずに黒々と記された文字列を、な。
何、いつでも見られるとも。今度一緒に行った時も、いつも通りにきちんと教えてやろうじゃないか。お前が忘れても俺が知っている、それなら何度でも教えてやれる。先輩というのはそういうものだろう。
よく堪えてくれたな。
脅かしておいて言うことでもない、それはその通りだが……まあ、どうしても目が明かないようなら潔く戻るくらいの覚悟はしていたとも。先に言ったろう、二度までなら見逃すと。けれどもこうして堪えて耐えてくれたのならば、俺としてはただただお前を褒めて讃えるしかないのだ。酔いに飲まれて落ちる眠りの甘美なること、その誘惑に耐え抜いて、俺の話を聞いてくれたのだから。ただその寛恕に
それでは今夜は素直に消えよう。名残り惜しいのはいつもと同じだ、それでもお前の今日の誠意に応えるのならば、僅かであれ夜を返してやるべきだろう。そのくらいの勘定はできるとも。厚意には正しく報いねばなるまい、そういう道理があるのだろう……少なくともお前はそう信じているのなら、俺もそう振る舞うべきだろう。
ただ、そうだな、そうしてこの夜に目で聞いたものは、耳で観たものは、どうにも忘れようがないということをお前は知っているだろう。だから俺は、お前に話を聞いてもらわなければならない。だからこうして、夏の僅かな
それでは今日はこれまでだ。僅かな夜を酔いに煮られて深く眠れ。俺はまた、次の夜を待っているから。
いつかお前の■になり 目々 @meme2mason
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