秋の自室、兄の話

 今夜はまともに俺を見たな。

 やはり眠ると目が明くな。夜闇の底でねむたげにうとうとと瞬く双眸も眺めて飽きない艶があるが、そうして意思と意識をうちに沈めて睨む目玉も見応えがある。たかが人体の一部品、そのくせ一人前に情やら意思やらを顕すのだから厄介だ。憑かれて集めるなり食らうなりするやつがいるのも分かる。俺にはそういう趣味は向かなかったが、成程需要があるのは理解しよう。勿論俺はお前にそんな真似はしないし、他の連中にそんな手出しもさせないとも。だからそう見開かずとも大丈夫だ、傷んで裂けてしまう。

 どう見えるか、何が見えるかは聞きはしないさ。そんな勿体ない真似をするものか、お前だって決めあぐねているものをどうで無理矢理吐かせるような野暮をするほど、俺はいかさま馬鹿でもない。ただ姿勢としては大事だろうよ、その両眼を野辺を行く葬列に行き遭ったが如くに逸らさず、腹違いの兄が宴席で向ける視線に気づいたが如くに伏せず、喉元に迫る錆びた鉈の刃を受け入れるが如くに閉じずにいること。相対することを拒まない、それだけで俺は大層喜ぶべきなのだろう。俺の業にはお前の慈悲があまりにからい。


 そうしてまだうんざりした顔をするのだな。慣れると擦れるは紙一重ではあるが、まあ……仕方がないのも俺には分かる。回りくどいも大仰なのも、然るに必要な前置きで要素だ。余分があるほど余剰がある、余剰を容れる幅があるなら余裕がある、それでこそ端から端まで注ぎ込む甲斐がある。けれどもお前、それを無駄だと蔑むのは行儀の悪いものではないか。およその物事をただ不要だと一方的に断じれば角が立つ──要は身過ぎ世過ぎの話だとも。理屈とはまた違う、道理と倫理で世間の話だ。

 説教と言われても仕方がない、小言と疎まれても仕方がない。けれども俺は兄だからな、鬱陶しがられようとそうした忠告こそくれてやるべきだろうよ。長く生きて近くにいるなら、せめて先達として役に立つべきだろうに。


 とはいえ小言ばかりが兄の役目ということもない。家族らしく、兄弟らしく、血縁らしくただ生活を共有したこともあったはずだな。覚えているだろう、実家のお前の部屋で過ごしたあの無為な時間。俺は本棚の前に座り込んで適当に手元の本を眺めて、お前はこちらに視線も向けずにベッドに転がっていたな。ただ眠っていたわけでもない、大概そういうときは歌を聞いていただろう。CDプレイヤー、だったか。妙に古いものを使っていたのはお前の趣味だったのか、それとも母さんがそういう主義だったのか……ああ、ラジカセは遺品だったな? お前は物に当たるような子供じゃなかったからな、死蔵するくらいなら使わせた方が──なんだ、供養になるだろう。そう思ったんじゃないのか、母さん。そうと知らなくても無理はない、だって必要のない情報だ。由縁由来を知らずとも、操作ができて機能が分かれば機械は動く。それで何も、それから誰も困るまいよ。俺がどうして知っている、そんなことは聞くまでもないだろう、家族の一員であれば、お前よりも年上であれば、な?

 お前は部屋にいるときは大概何かしらを聞いていたな。音楽鑑賞、というとどうにも焦点の暈けた表現になるが、要は音楽を聴くのが好きなのだろう。少ない小遣いを注ぎ込んで、月に一枚何かしらのCDを買ってきてもいた。わざわざ現物を買う理由も俺は知っている。手元に物体として残しておきたいからだと、そうお前は教えてくれたな。形がないよりはあるほうがいい、たかが趣味なら尚更だ。そういう頑なな意地がある、美点とも欠点とも言うべきではないだろうよ。そういう性質たちであるというだけのことだ。

 アルバムを四枚出して突然の活動停止、一枚出していよいよ活動が本格的になる前に不祥事で解散、メジャーになってアルバムを出したはいいがメンバーが総入れ替え。……言い並べておいてなんだが、お前はそういう歌手が好きだな。それが悪いとは言わないとも、そうとも性質の類だと先に言った、言ったが……まあ、難儀のある連中が好きなんだなと、俺は思う。別に歌手の素行を聞くわけでもない、曲を聞くんだとお前は言うだろうな。それも立派な理屈だろう。定めた芯があるのなら、俺如きが口出しをするものでもない。

 そういう歌手の中でも一際気に入っていたやつらがいたな。お前が聞き始めた頃にはもう解散していて、アルバムは五枚で打ち止めだった。勧めたのは俺だったが、どうしてかお前の方が熱を上げていたから不思議だった。血を分け時を過ごしたような兄弟でも、同じものを同じように好きになれるとは限らないのだな。俺はそうだな、皆の聞くものを聞いていたいのが常だったから、そこまでの主義も主張も執着もない。しいていうなら濃度次第か……何、うわごとだ。然程大事なことでもない。

 そうしてお前はその五枚、きちんと揃えていたな。メジャー・デビューの一枚目から解散直前のラスト・アルバムまで。

 その五枚のうちの二枚目も、当たり前に買った記憶があるだろう。お前は三番目に収録されている曲が気に入っていて、繰り返しそこだけ聞き直していたはずだ。

 けれども並べた棚の中、今となってはその一枚だけ欠けていることに、お前は気づいていただろうか。


 今年の春に、去年の冬に、夏に、高校二年の秋の日からずっと、あの並びには一枚が欠けていたというのに。幾度もその部屋を、棚にしまい込まれたものたちをその目玉に映していたはずなのに。それでも一枚足りないことを、どうしても気づけずに、思い出せずにいただろう。


 お前に落ち度があるわけではない。むしろからこその有り様だとも。覚えがないのも無理はない。そうすべきだとあの日のお前が決めたのだから、お前が何も知らないのは当然だ。

 その曲を聞くたびに、よくないことが起きただろう。ありふれていてささやかで、それでも手のひらに刺さった小さな棘のように、喉に掛かった魚の骨のように、目元をつつく縒れて捩れた睫毛のように気にかかる、僅かばかりの不幸が。

 母との会話の噛み合わせをしくじって喧嘩をする。左手の親指、爪の根元にひどいささくれができる。左足の小指の爪が半分欠ける。真っ暗な窓の向こうからほたほたと遠慮がちに硝子を三度叩く音が聞こえる──。


 ささやかで僅かで微々たるものだ。どれもこれも気のせいだと見て見ぬふりもできる程度の代物だ。実際お前だって、しばらくはそうして曲を聞いていただろう。

 それでもお前、ある瞬間に考えてしまったのだろう。痩せた拳の、肉の薄い手甲に穿たれた鋲の如くに浮かぶ節が薄い窓を打つ音を聞きながら、この細やかなれども耐え難く悍ましいものが、自分を伝って誰かに辿り着いてしまったらという妄想じみた可能性を。


 勿論そんなことが起こる保証はない。されども起きない確証もない。だからお前、色んなことを考えて、試そうとしたな。

 外で聞いても何ともなかった。部屋で他の曲を、アルバムを聞いても何も起こらなかった。数少ない友人を部屋に招いてそれを聞かせても特に何にも起こらない──名簿の順でお前の手前にいた小坂くん、彼を連れてきただろう。お前が人を部屋に呼んだのは、彼ともう二人ぐらいのものだったか。そうして丁寧に実験をした、それは思い出せるだろう。

 そうしてお前は仮説を立てた。お前が・自分の部屋で・その曲を聞いた時に限って不幸が起きる。そういう仕組みだとお前は見当をつけただろう。

 ならばどうするか、因果に至る道筋が割れているなら対処するのは簡単だ。聞いて事象が湧くのなら、聞かなければいい。聞かないようにするのだって容易いことだ。物理的に手出しができないようにするだけだからな。

 だからお前は何かの間違いでその盤を掛けたりしないようにしまい込むことにした。捨てられないのは仕方がない。そこまでできないのを責める理由もない。何、聞かなければいいというなら手元にあるかどうかは条件の外だ。徹底していないと詰る程のことでもない、大事に集めたものをやすやすとなげうてないのはお前の美点だろうよ。


 盤に曰くがあるでもない。部屋に因縁のあるわけでもない。勿論お前に由縁など、どこを探せどありはしない。

 ただその三つが揃っただけで、そういうことが起きるというだけだ・誰の責だという話でもないだろう。

 始末の付け方、それもようよう思い出してもきただろう。部屋の本棚、その下段に詰めた本の隙間にケースを並べて立てて、段の前にまた一つ棚を置いただろう。その棚にもきちんと荷物を詰めて、容易く手出しのできないようにしたな。

 棚の下段を丸ごと潰して、種々の本を手向けの如くに添えて、お前はその一枚を葬ったはずだ。その背後に空間のあること、読まない本に加えて聞いてはならない音源があること。それをすべて忘れただろう。

 疑っているのも無理もない。だってお前は

 何、確かめる方法は簡単だ。お前が今度実家に帰ったとき、棚の後ろを見ればいい。お前の部屋はそのまま残っているのだから、入っただけですぐ分かる。勿論俺も付き添ってやろう。棚をどかすというのなら、手だって貸してやろうじゃないか。

 だってお前の兄なのだから、お前が部屋に入れてくれるなら、許してくれるなら、認めてくれるなら、幾らだって助けてやろう。兄弟とはそういうものだろう、違うか?


 珍しいな、まだ目がまともに開いている。

 別に普段を咎めるわけでもない、うとうとと閉じかける瞼を無理に開いてこちらを見ているのも健気ではある。そうしてお前にどうにも言いたいことがあるのも分かる。最初の夜より目が合うようになったのは言うまでもないが、この夜ほどお前がこちらを見ていたこともないだろうよ。三日会わざれば刮目、とはいうものの、俺のしばらく会わない間に何を思いついたか、考えたか、吹き込まれたか──ああ、どれであっても責めるわけがない。お前が俺のことを考えてくれたのなら、その過程に何があろうと誰がいようとどうでもいい。

 俺の話を聞いてくれるなら、その腹に胸にと何を抱えていようが構わない。その程度のことで、お前が約束を反故にするわけがない。そうだろう、何しろこれだけ長く堪えてくれたんだ。今更何を言おうとも、語りを重ねた夜の数が何よりの証になるだろうに。

 いつかの夜のように訊ねるならば好きにすればいい。遠慮などするものじゃあない、何しろ俺はお前の──なのだから、問われて乞われれば幾らでも付き合うとも。縁のあるもの情のあるもの、ならばそういうものであるべきだろう、当然だな?

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