人格を表す"personal"の語源は、persona"仮面"だったらしい。
この怪異の特性はまさにそれだ。
何の曰くも所以もなく訪れる顔のない怪異の男(男?)は、青年が眠りにつく前、あるときは彼の兄、または先輩、父、叔父としてありもしない怪談兼思い出話を語る。
禍々しい千夜一夜物語は徐々に過去と現実を侵食し、実在の場所や人物にすらもふとしたとき「あの家で同じものを見たのではないか」「あの怪談に出てきた傷が腹にあるのではないか」と疑念を抱いてしまう。
想像もしなかった選択肢を浮かべる度に日常の安全圏が次々削られていくのはホラーの醍醐味だ。
特にこれは関係性を騙る怪異なので、着々と自分を現実に捩じ込むための巣を作っているように思える。
ただ、この怪異は怖いだけではなく、いじらしくて切ない。
顔も名前もなく、架空の関係性を借りなければ存在することも許されない。だからこそ、「せめて記憶に残して何でもいいからどれかの俺を選んでくれ」というように彼が語る思い出は縋りつきたくなる優しさがある。
早逝した父や存在しない兄との静かな情感漂う、平凡で特別な記憶は、こっちの方が現実だったらいいのにと思うほどだ。
禍々しくも、いじらしく、懐かしい怪談語りの末に、「それ」は何に辿り着くなるのか。
紛れもなくホラーなのに、寝苦しい夏の夜が明けたような穏やかさと安堵がある、至高のラストを見届けてください。
最後に俗なことを言うと、どれも湿度が高い年上男性との関係性がバイキング形式で過剰摂取できて最高のブロマンス(?)でもあります。
父になってほしい。
「わたし」とはなんだろうか。
記録であり、記憶であるといえば、極論過ぎるだろうか。
そして、「記録」のほうは、なにか必要がないかぎりは参照しない。
相続でもなければ自分の戸籍謄本など取り寄せないし(そして思っているよりも高い頻度で、自分のしらない兄弟姉妹の存在を発見したりする)なにか思い立つことでもなければ卒業アルバムだって見返さない。
となれば、「わたし」を構成するものは、「記憶」であると言っても差し支えないだろう。
わたしに親族や友人がいるとして、その親族や友人が、昨日とおなじ人物である、もしくは、昨日も存在していたという保証は、わたしの記憶のなかにある。
作中登場の怪異は、主人公に対し「害さない」と宣言している。
ただ語るだけだと。
にもかかわらず、この不安と不穏はなんだろうか。
魂に注がれるこの毒の名は、なんだろうか。
怪異は「兄」「父」「叔父」「先輩」となって主人公の記憶を揺さぶってゆく。
そして最後に選べと。
なおかつ、あまり近づきすぎるなとも言う。それはつまり、怪異は「主人公」そのものには成りたくないのだ。
主人公は怪異の語りの果てに、なにを選ぶのか。
記憶を揺さぶられ、魂に注がれた忍びやかな毒でもって、主人公は「主体的に」それを選ぶ。
怪異は主人公を害さない。最初に保証したとおり。
しかしこの目眩がするほどの淫靡さ、足元が揺らぐような不安はどうだろう……
極上の怪異譚である。
そう滅多にお目にかかれない本物の和風ホラーです。
出会えたことを神様仏様あとは怪異様に感謝したい。
青年の夢に「彼」は出てくる。
しかしその「彼」は現実と夢のあわいにある。
生々しい空気感に腹が冷えたのは何度だろう。
味までしそうな手触りの文体が描くのは、「記憶」という水にぼたりと落ちた墨が滲むような歪んだ過去。
いや、その夢語りこそが青年の過去を歪めている。
そして私たちは夢語りが進むごとに、青年のことを知ってゆくような気になってゆくが、それこそが誤りなのだ。
この夢は紛い物である。
いくら読み進んで青年のことをじりじりと知っていっているような気がしても、それは「彼」が語る階層のずれた青年の虚像に過ぎないのだ。
その隙間に、ほんの僅かだけ真実の青年がまじるというのが、また恐ろしいのだけれど。