「ともに生きる」ことへの罪作りな誘惑
- ★★★ Excellent!!!
(この「おすすめレビュー」は、冒頭59話、「遠藤絵美」篇――以下、「絵美」篇とします――まで読んだ感想です♪)
最初に言いましょう。本作は、きわめて意欲的、いや、ほとんど野心的ともいえる作品です。
「哲学」を題材とする小説、ありそうで、なかなかないのです。紹介文にいわく、「現代版哲学的対話篇、始まる」。それがどれだけ意欲的な試みなのか、おいおい述べていきたいと思います。
本作の主人公は、安居敦(やすい・あつし)くん。タイトルにあるとおり、「哲学好きな」高校二年生。
「絵美」篇では、敦くんの同級生である遠藤絵美(えんどう・えみ)ちゃんがヒロインとなり、二人が新聞委員として協力する様子が描かれます。エピローグとなる第59話を除けば、四月下旬のわずか一週間ほどに起こった出来事ですが、とても濃密なストーリー展開で飽きさせません。
同じくクラスメートで成績トップの優木悠永(ゆうき・はるな)ちゃん、敦くんの妹で底抜けに明るい琴音(ことね)ちゃん、親友の野球部員で彼女さんラヴな桑原和真(くわはら・かずま)くんなど、個性的かつ魅力的なキャラが自然な流れで登場し、徐々に作品世界に引きこんでいきます。
「絵美」篇のヒロイン絵美ちゃんは、「悩める美少女」。誰もがうらやむような要素満載なのに、不釣合いなほど自己肯定感が低い。もっと幸せになってほしいと願わずにいられなくなる子といえるでしょう。敦くんも、彼女には「幸福な人生」がふさわしいと説こうとします。
ひょっとすると『哲学好きな男子高校生が悩める美少女を口説く話』というタイトルには、やや戸惑いを覚える読者がいるかもしれません。硬派なガチ哲学者なら、「哲学の知識を活用して(女性を)口説こう」(作品紹介文より)なんて、と眉を顰めるところでしょうか。
とはいえ、どうやら敦くんは絵美ちゃんを自分の彼女にしてヨロシクやろうとか、そういうわかりやすい(?)動機で行動しているのではなさそうです。作中の言葉を引用すれば、二人が新聞委員になったことをきっかけに、絵美ちゃんと「交流を深め」たい、それだけです(第1話「始まり」)。ただし、その「交流」というのが、なまやさしいものではない。
作者様の意図からすこし外れるかもしれませんが、この物語(すくなくとも「絵美」篇)を要約する一番のキーワードは、〈価値観〉だと思います。それは、その都度選んだり、取り換えできるような単なる「ものの見方」でなく、ある人が目ざしている生き方がその〈価値観〉の実現だといえるようななにかです。
普通なら、そうした〈価値観〉は一人一人の、いわば個人的な問題だと受け取られるでしょう。しかし、敦くんは、それが個人的な問題であると同時に、むしろそれ以上に他の人と共有できるもの、共有したくなるようなものだと考えます。
「そのような人生にはともに生きたいと思えるだけの魅力があるからだ。あまりに魅力的で自分自身もそのように生きたいと思わせるような。」(第55話「ともに生きる」)
つまり、絵美ちゃんを前に敦くんは、こんな風に「ともに生きたい」と思えるような〈価値観〉を分かち合いながら生きてみませんか、と訴えかけているわけです。こんなディープな「交流の深め方」があるでしょうか。
想像してみてください。自己肯定感低めの少女が、二人きりの部屋で、自信と愛情たっぷりな口調でこんなことを語りかけられたら、どうなるか。敦くん、君は自分が何をしてるのか、本当にわかった上でやってるのかい?
まったくもって罪作りな敦くんですが、哲学者を目ざしながらも哲学者にはなり切れていないと自覚しています。ときに自分の語りを「詭弁」だといい(第12話「ムービー」)、対話というより「お説教」になってしまっていると反省もする(第56話「絵美」)。
さらには、「自身の適性が真理を探究する哲学者ではなく、他者に自分の主張を押し付ける弁論家(ソフィスト)にあることを痛感する」なんて、あっさり認めたりもしています(第8話「『名は体を表す』」)。
ただ、逆説的なことに、敦くんがほどよくソフィストであるからこそ、この小説は小説たりえています。
哲学(者)の本分が敦くんのいうように「真理を探究する」ことにあるとしましょう。そうした真理を表現するには、対話(ダイアローグ)という形式より一人語り(モノローグ)のほうがずっとシンプルで、また、確実な気がします。たとえば、幾何学の証明を対話の形で書くことはできるでしょうけど、二人以上の話し手にセリフを割りふるのは、長たらしく回りくどいものになりそうです。
最初に触れたとおり、この小説は「現代版哲学的対話篇」をうたっています。西洋哲学の歴史は、プラトンの対話篇から始まりました。それらの対話篇でプラトンは、自らの師であったソクラテスを登場させ、さまざまな相手とさまざまなテーマについて議論をさせます。
印刷術以前、つまり手書きでしかテクストの複製ができなかった長い期間を通じて、何世代にもわたって受け継がれてきたのが、これらの対話篇です。プラトンはおそらく対話形式でない書物も書いていたのですが、それらは伝わっていません(逆にアリストテレスは対話形式のものも書いていたのに、今日では断片が残るだけとなっています)。
苦労して複製されるだけの価値を認められたプラトンの対話篇。当然、後世の哲学者たちも同じ形式を模倣します。たとえば、ギリシア古典の復興期とされるイタリア・ルネサンスの時代には多くの対話が書かれています(ガリレイの『天文対話』もそうしたテクストに連なるものといえるでしょう)。
しかし、哲学が近代的な学問として整備されるにつれて、哲学的対話篇は書かれなくなりました。理由は簡単。難しいからです。哲学で語られることがだんだんと複雑になり、議論も精緻になっていけばいくほど、対話の形式に落としこむのは困難になります。
たとえできたとしても、ともすると対話は形の上だけの対話、偽装されたモノローグになりやすく、ことによると、ときどき対話者の合いの手――「おっしゃるとおりだと思います」――が入るだけで、著者を代弁する人物のモノローグになってしまう。
哲学を対話の形で表現しようとするのは、それほど危険なこと、冒険的なことなのです。
敦くんはある程度までソフィストとして、自分の〈価値観〉をなんとしても絵美ちゃんに共有してもらおうとするソフィストとしてふるまうからこそ、この小説は物語として成立しているのだといえます。作者様の書き手としての力量です。
ところで、この物語、4月21日(火)から始まります。この日付で火曜日になるのは、直近だと2020年と2026年のようです。2020年は新型コロナウィルスが急速に広がった年。4月の下旬ともなると、地域によっては普通の学校生活すら難しくなっていたはず。
とすると、本作の設定は、2026年なのかもしれません。つまり、あと2年で書籍化とかすると、ちょうどいいタイミングです。
その意味でも(?)とっても意欲的なこの小説、今から目が離せません。これから読む作品に困っているあなた、ぜひご一読を!