銀河ぐるぐる感情線! - たどり着くのはいったいどこ? -

冬寂ましろ

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

 ねむっ。眠い。むしろ、ねもい。眠いの比較最上級。ホームのベンチから立てない。なのに、電車が来ることを告げるちょるるるん、ひょるるるんっていう、耳にキツい電子音が聞こえる。もう乗らなくちゃ。終電近いし。でも、体を動かすのがめちゃしんどい。カバンは鉄板でも入ってるのかって思うぐらい重たい。大阪環状線の野田駅で、私はどうにもならなくなっていた。


 なぜ、こうなったかと言えば、理由はたくさんある。

 会社。あの上司。原稿書いてくれた教授がかわいそうだって? こっちは三徹したんだぞ。入稿遅れたのあんたのせいだろ。知らないよ。もう……。

 親。好きか嫌いでしか判断しない母親。そんなところが苦手だよと言ったら、「ここまで育てたのになんてこと言うの」って傷ついたふりをされるし。もう……。

 友達。私の知らない人との困った関係を熱弁されて、どう思うかって? 私が正直に言えば「そんなふうに思われて残念だよ」って言うくせに。なら、そんなこと聞くなよ。もう……。

 人の感情を認めろと言うわりに、みんな私の感情のことは気にしてくれない。


 ねえ、私はどうしたらいいの? 誰か教えてよ。誰か……。

 私の気持ちは、行き場を失い、体の中をぐるぐるしてしまう。ぐるぐる、ぐるぐるって。

 助けてよ、やっちん……。そう願ってしまう。頼ってしまう。

 あーもー。嫌になる。みんな。全部。


 銀色の電車の扉が開く。乗らなくちゃ。タク代なんてないし。体に鞭打つようにして、なんとか乗り込む。白々しい蛍光灯に照らされた車内には、よれた背広を着たサラリーマンがぽつりぽつりといた。私は緑色のモケットに倒れ込むように座る。あー、疲れた。帰ってシャワー浴びて、泥のように眠りたい。また朝は定時に出社するけど……。そんなこと思ったら、急に眠気が襲ってきた。待て待て、今じゃなくて家に帰ってから寝るんだ。ここじゃ、まだダメ。うつらうつらしだした頭に電車のアナウンスが聴こえる。あれ、紀州路快速? 大和路快速? どっちだろ。って、どこで分岐するっけ。頭が働かない。ああ、寝たらダメ。ダメだよ。でもさ、ダメって思うと、余計ダメになりたくなるよね……。あ……。

 ……。

 …………。

 ………………はっ!

 あわてて顔をあげる。お客さんは私しかいない。ゴオオっていう電車が走る音しか聞こえない。

 やっちゃったか……。

 口元に垂れたよだれを袖で拭いながら、窓の外を見る。

 え?

 窓の外には満天の星空が流れていた。川のようにたゆたう銀河の中でキラキラとした星々が、小さい頃に遊んだビーズのようにきれいだった。赤くて白くて青くて……。あ、流れ星。

 というか、ここはどこ?

 奈良の山奥だろうか。和歌山の端だろうか。とりあえず田舎そうだけど。え? そうなの?


 「もしかして、私、詰んだ?」


 つぶやいた私の言葉が、がらんとした電車の中に響く。

 戻る電車なんかもうないよね。泊まるところあるのかな。いや、そもそもお金ないし……。

 現実的な恐怖がじわじわと私を襲う。

 そのとき車内にノイズが混じったアナウンスが聞こえてきた。


 「次はー。終点タイタン。タイタンです。この電車は土星環状線には入らず、車庫に向かいます。このままご乗車はできません。皆様タイタン駅でお降りください」


 土星。その衛星のタイタン。

 そっか、遠くまで来たな……。

 えっ! いやいやいやいや……。

 なんで電車に乗って大気圏離脱してんだよ。

 もう一度、窓の外を見る。それはYouTubeの天文チャンネルで何度も見たような光景だった。


 「本当に宇宙だ……」


 土星だ。土星が見えてきた。縞模様も、輪もはっきりと見える。すごっ。私、いまカッシーニだ。私は、靴を脱ぎ、座席に正座して窓を食い入るように見つめた。


 電車がブレーキをかけた。体のバランスを崩して、座席に手をつく。あ、ホームが見えてきた。ゆっくりと電車は速度を落としていく。小さな灯りが近づいてくる。車内の明かりに照らされた看板が目の前に流れる。電車が止まった。ドアが開く。少し冷たい風が車内に吹き込んできた。とにかく降りろという電車のアナウンスが耳にキンと響く。


 私は、とりあえず靴を履き、座席から立ちあがった。それから呆然とする。どうしたらいいんだ、これ。和歌山や王寺に連れていかれるよりハードだぞ。まあ野洲よりはマシか……。いや、でも……。ぐるぐると考えていたら、車掌さんが隣の車両から走ってきた。あの……と話しかける間もなく、「降りてください! 車庫に入ります!」と叫んで、私から遠ざかっていった。


 仕方なく電車から降りてみた。寒っ。ひんやりとした空気が私を包み込み、思わずぶるると体が震えた。着ていた薄いジャケットを両手で引き寄せる。小さな明かりが灯った駅名標の向こうには、まぎれもない宇宙が広がっていた。暗いホームの端に温かそうな灯りが見えた。出口かな。私はとぼとぼとそこに向かって歩く。だいぶ古そうな木造駅舎が見えてきた。


 駅舎の中は電灯が温かく、すべてを照らしていた。木でできた改札口も、壁際の長椅子に掛けられた、色どりどりの座布団たちも、みんな同じ温かさに照らされていた。とりあえず出るか……。改札を通ろうとしたら、白い制服を着た駅員さんに声をかけられた。


 「乗り過ごしですか?」

 「え、まあ……」

 「この辺り、何にも無いんですよ。ホテルとかもないですし」

 「タクシーもですか?」

 「ええ。この時間はいなくて」


 困った……。やっぱりそうだよな……。ホームから見えた辺りの明かりは星明かりだけだったし。

 いやいや。ここタイタンなんだってば。おかしいだろ。

 たぶん、かわいそうに思われたのかもしれない。駅員さんから助け舟を出された。


 「今日は電車が遅れてて当直になるんで、駅の中にいてもらっていいですよ」

 「いいんですか?」

 「はい。そちらの方も」


 駅員さんに言われて後ろを振り向く。真っ赤な髪で、黒いパーカーを着た女の子がいた。丸くて黄色いサングラスをかけている。バンドでもやっていそう。担いでいるのはギターケースだし。引いてたハンドキャリーから手を離すと、その子は私を見ながら第一村人発見みたいな笑顔で言った。


 「良かった。お姉さんも同じ?」


 いたずらっ子のような笑顔がかわいいな。あんなふうに昔の私も笑っていたっけ。やっちんによくそんなふうに言われてた。うっかり浸っていたら、その子が私をのぞき込むように見つめた。「ええと……」と言われる。私はあわてて取り繕った。


 「ごめんなさい。ぼんやりしちゃって。私もうっかり寝ちゃったら、ここに着いちゃって」

 「お仕事? お姉さんは、こんな時間まで?」

 「そうなんです。明日も仕事で……」


 あいまいに笑う私を見ながら、彼女は少し寂しそうな表情を浮かべた。


 「座って話さない? 夜は長いんだからさ」


☆彡 ☆彡 ☆彡


 私はブーンと低い音をたてている駅舎の中の自販機で水をふたつ買い、古い長椅子に座る彼女にひとつを渡した。


 「ありがと。お姉さんも座りなよ」


 彼女が隣をぽふぽふと叩いた。私はそこに腰を下ろすと、思わずため息をついてしまった。


 「お疲れ?」

 「まあ、そうね……」

 「お姉さんはどこから?」

 「住んでるのは寺田町のほうだよ」

 「いいとこじゃん。下町だし」

 「ただ古臭いだけ。もっとこう、帝塚山とかそっちのほうが強そうで良かったなって」

 「強いって……。まあ、いいじゃん。食えてるなら」

 「それがさ。毎日終電だし、泊まりがけもあるし」

 「ブラックだ」

 「まあ名前は黒川出版っていうぐらいだけど」

 「あはは。黒いね。出版ということは、お姉さんが本作ってるの?」

 「うん、まあ……。学生とか学会向けなんだけどね。売れないんだな、これが」

 「そんなに?」

 「なんかさ。やりがいとか、無くなるわけですよ。鼻血出るぐらい働いても、なんの達成感もないし、給料安いし」

 「でも、お金もらえるだけいいじゃん。私なんかバイトすらうまくいかないよ。歌っても誰も聞いてくれないんだ」


 彼女がギターケースをバンバンと叩く。私はなんとなく気になって聞いてみた。


 「エレキ?」

 「そう。私の相棒。高校の時からね」

 「どんなの歌ってるの?」

 「オリジナルが多いかな。うちの……彼氏が曲作ってくれる」

 「ええ、すごいな。音楽一家してる」

 「それがさー。聞いてよ。もう」

 「うんうん、聞いてあげる」

 「いつも大阪駅の歩道橋のところでギターの弾き語りしてんだけど、今日はあまりに誰も聞いてくれなくて、谷九のアパートへ早めに帰ったんだよ。そしたら彼氏と喧嘩しちゃって。将来どうすんだとか。お金ないよとか。そいつは勝手に就職決めて働くとか言い出すし。頭にきて、朝まで歌ってやろうと電車乗って梅田へ戻ろうとしたら、なんか乗り間違えた。なんかもうどうでもいいやと思って、そのまま寝ちゃった」


 彼女が照れ笑う。私もつられて笑った。青春してる。なんだかうらやましい。そんなことできなかったから。私はその気持ちを隠さずに、彼女にたずねた。


 「いいなあ」

 「どこが?」

 「私も昔さ、ギター弾いてたんだよね。めんどくさくなって辞めちゃったんだけど。私も路上に立てば良かったな」

 「お姉さん、路上はやめときなよ。寒いし、酔っ払いにはからまれるし」

 「でも、好きなんでしょ?」

 「うん、まあ……。ギターを弾くのは好き。好きだからやってる」

 「いいなあ。あーあ。好きなこと我慢して薄給でこき使われるのがいいのか、好きなことしてお金ないのがいいのか。どっちがいいのかな」

 「ぷふっ。どっちにしてもお金ないじゃん」


 彼女が愉快そうに笑いだした。私も「そだね」と言って笑い出した。なんだか似てる。話してるとちょっと楽しい。だから、言っても仕方がない自分の想いをうっかり吐き出してしまった。


 「私って、何してんだろね。なんもうまくいかないや。いろいろなものを投げ出したい気分だよ」


 彼女がふいに立ち上がる。私の前に来ると右手を差し出した。


 「じゃあ、なんかやろうよ」

 「なんかって、何?」

 「なんかだよ。うーん。たとえば、アメ村でシャッターにいたずら書きしたり、道頓堀に飛び込んだりしたりとかさ」

 「人様に迷惑かけるのはダメだよ」

 「じゃあ……、海を見に行こう」

 「はい?」

 「よくあるじゃん。映画とか漫画とかでさ。海、見に行ったらなんか変わるかもよ」

 「そっかな……」

 「ほら」


 彼女が私へ向けた右手をさらにぐいと差し出した。よくわかんない。わかんないけど、彼女となら、まあいいかと思った。私はその手を握り、よっこいしょと立ち上がる。それから彼女にたずねた。


 「海ってどこ?」

 「すぐ近くにあるよ。有名なんだ」

 「そうなの」

 「うん、メタンの海だけど」


☆彡 ☆彡 ☆彡


 駅舎の中にいた駅員さんへ「ちょっとだけ散歩してきます」と告げる。「気を付けて」の声を背に、私達はまっくらな世界へ踏み出した。少し砂利が混じった道を、彼女のスマホが照らすわずかな光を頼りに歩いて行く。本当に何にもない。ときおり道に丸い氷の塊が落ちていた。不気味。闇。心細さ。そんな怖さはある。けれど彼女のそばにいるだけで、不思議と安心していた。


 「あれ、こっちかな」


 そう言う彼女の声で、とたんに不安になる。


 「ええ……」

 「大丈夫だって、お姉さん。たぶんこっちだし」

 「たぶん……」


 ぼんやり灯る街灯の明かりを目指して私達は歩いて行く。波の音が聞こえてきた。良かった。音がするほうに向かって私達は歩き出す。古ぼけた小屋を過ぎ、コンクリでできた幅の狭い階段を前にすると、力強い波の音がはっきりと聴こえてきた。


 「さてと」


 彼女がハンドキャリーをよいしょと抱える。少しよろめく。あわてて私がその体を支えた。


 「手伝うよ」

 「なんかごめん。どうしても持って行きたくて」

 「いいって」


 結構重たい。それでもどうにか登り切った。


 「ほら、海だよ」


 彼女の声に顔をあげる。

 ああ……。すご。

 本当に海だ。

 黒い波が押し寄せては砕け散っていく。堤防の先に大きなうねりがざぶんざぶんという音を立てていた。見つめていたら、そのままふっと吸い込まれそうに感じた。

 彼女は私と同じ夜の海を見つめながら、ぽつりと言った。


 「この先からあんまり近づかないほうがいいよ。冷たいから」

 「この海って液体メタンなんだよね」

 「そうだけど」

 「冷たいってレベルじゃ……」


 そのときドスンという大きな音がお腹に響いた。音がしたほうへ振り返ると、海の彼方に白くキラキラとしたもやが夜空に立ち上っている。

 きれい。

 すごく、とても。

 これから銀河が生まれていく、そんな瞬間のように思えた。

 感動している私へ彼女が答えをくれた。


 「氷を吹き上げる海底火山だよ」

 「そうなの?」

 「いいでしょ」

 「うん、きれい。なんか、いい」

 「なら、歌わなきゃ」


 彼女は持ってきたギターケースを足元に下ろした。ハンドキャリーに結われていたゴム紐を外す。あっという間に黒くていかついアンプを取り出し、手にしたギターにケーブルをつないだ。ぼんという音が一瞬する。


 「こんだけ人がいなきゃ、迷惑にはならないでしょ」


 ざざっと弦をかき鳴らす。おお。生音だ。耳になじみがある曲を彼女が弾き始める。あ、うまい。すごくうまい。でも、ちょっとだけ弾いたら止めてしまった。彼女は肩にかけてたストラップを外し、私にギターを差し出した。


 「ほら、お姉さんもやってみ?」

 「ええ……。やってたの、すごく大昔だよ。高校の頃だし」

 「大丈夫だよ。意外と指が覚えてるって、みんな言うし」


 そうかな……。まあ、やってみるか。私は何度もそうしたようにギターのストラップを肩にかける。その重さが懐かしい。彼女からピンク色のピックを差し出された。それを受け取ると、私は黙ってうなづいた。Bマイナーのコードを指で押さえて、弦を鳴らしてみる。あ、できた。Bm、G、A、E。あれ? Bm、G、A……。だめだ、ぜんぜん弾けない。指が動かない。錆ついている。

 私はダメなんだろう。みんなが言うとおり、ダメなんだろう。

 これじゃ……、どうやっても……。

 かけていたストラップをもごもごと外して、ギターを彼女に返す。


 「ごめん。やっぱ弾けないわ」

 「気にすること、ないのに」

 「前にみんなから笑われたんだ。だから、もうやめちゃった」


 そんな意気地なしの私へ抗議するように、彼女はギターを私から受け取ると、すぐにじゃかじゃんと弾いた。


 「お姉さん、コード教えて。BマイナーからGとAかな?」

 「うん、そんな感じ」


 懐かしい曲が、彼女の指から紡がれる。高校のとき、こうしてやっちんと放課後の教室で練習したっけ……。ふたりだけの音楽室。カーテンを揺らす風。遠くに響く野球部のかけ声。思い出が心の中から染み出してくる。

 ああ……、もう……。

 私はどうにもならなくなって、わがままで悪いなと思ってるのに、それでも彼女にお願いをした。


 「もう一度最初からやってもらっていい?」

 「いいよ」


 彼女が微笑む。ギターの鋭い音が暗い海に響き渡る。私は声を張り上げた。


 「あなたの瞳、星みたい。暖かい色をしてる。そう言って君は微笑んだ」


 じゃかじゃんと、すかさずギターリフを入れてくる。やるな、ちくしょー。


 「なのに君はあきらめた。みんなすべてをあきらめた。それが僕には嫌だったんだ!」


 叫び過ぎた。喉が痛い。

 でも。

 かまうもんか。


 「私達は銀河を渡ってるんだ。たくさんの星の川。一緒に渡ろうよ。だから、あきらめんな! 僕がいるから! いつかふたりで星にたどりつくんだ! それは絶対なんだよ!!」


 最後は絶叫する。絶対なものなんかないのに。ひどい曲。歌詞がイミフ。ダメすぎ。

 でも、それでも、なんか……。

 すっきりした。

 彼女がぱちぱちと私へ拍手してくれた。


 「いい歌だね。オリジナル?」

 「うん、まあ……」

 「私には刺さったよ」

 「そっか……。作ったのは友達なんだけどね」

 「その友達と、またバンドやればいいのに。現役でいけるよ」

 「うーん。無理なんだ」


 私は一呼吸置いて、彼女がこれを聞いてどう思うか気にせず、そのまま告げた。


 「その友達、死んじゃったから」


 彼女が目をそらす。


 「あ。ごめん……」

 「ううん。気にしてない」

 「でもさ、なんかそういうの嫌だよ。自分が嫌」

 「ほんと気にしなくていいよ。そいつ、いい奴でさ。こんな私とずっと一緒に友達やってくれて、大学入ったらふたりで暮らそうとまで言ってくれて。もし、あいつがいまの私だったら、私と同じ『気にすんな』って大声で言ってるよ」

 「でも……」


 それから彼女は何も言わずにまっすぐ海を見つめていた。

 その姿を見ていたら、あの日に置いてきた涙と後悔が、私の中をかけめぐる。ぐるぐる、ぐるぐるって……。

 やっちんがいまの私を見たら、なんて言うだろう。がんばれとは絶対言わない奴だった。きっと「情けないぞ」と言って、私が笑うまであちこち連れ回すだろう。そういうやさしさをいつも感じていた。

 こんな私、やっちんに合わせる顔がないや。ほんとうにもう私は何してんだろ。ねえ、やっちん……。

 泣きそうになるのを我慢して、私は彼女に顔を向ける。


 「戻ろっか?」

 「もう、いいの?」

 「うん、まあね。いろいろ思い出しちゃうから」

 「思い出しなよ。せっかくこんな宇宙の果てに来たんだからさ」

 「そうだけど、もういいや。もう、変えられないことだから」

 「そっか……」


 彼女が少し残念そうにギターをケースにしまう。それから思い出したように言う。


 「あ、ひとつ訂正」

 「なに?」

 「彼氏、じゃなくて、彼女」

 「はい?」

 「喧嘩してたのは、彼女」

 「ああ、そういう……」

 「だからさ。お姉さんの痛みも、少しはわかるってこと」

 「そう、なんだ……」


 私達は笑い合う。彼女の笑顔がどこか温かく感じたのは、メタンの海が寒いせいだと思いたかった。


☆彡 ☆彡 ☆彡


 あまりに寒くなって、ふたりでぶるぶる震えながら帰ってきた。明るい駅舎の中に入ると、駅員さんがあわてて駆け寄ってきた。


 「ああ、ちょうど良かった」

 「何かあったんです?」

 「お客さん達、いま遅れてきた寝台列車がホームに入ったから、それ乗って地球へ帰って」

 「え、でも、お金が……」

 「タダでいいよ。この紙を降りるときに改札にいる駅員へ見せれば、それで大丈夫だから」


 渡されたのは何かの手紙のようだった。隣で彼女がすごく嬉しがってる。


 「え、ちょっと、寝台列車だって。ラッキー過ぎない? 一度乗ってみたかったんだ。ほら、お姉さん。いこ」


 彼女が私の手を引く。いいのかな、って、ちっとも思わなかった。もう少し、あと少し、彼女と話したくなっていたから。


 私は駅員さんへお礼を何度もして、ホームへ走っていった。彼女がこけそうになる。私は「貸して」と叫んで、彼女のハンドキャリーを抱えて走り出した。ホームには青い列車が止まっていた。さっきの駅員さんの声がスピーカー越しにホームに響く。


 「遅れていました、寝台急行『銀河』大阪行き。まもなく発車します。業務放送、銀河専務車掌、乗客2名乗車。よろしく」


 発車のベルが鳴り響く。もう出ちゃう。でも、どこに乗ったら……。迷っていたら、列車から白い服の車掌さんが身を乗り出しているのが見えた。車掌さんが「空いてるとこなら、どこでもいいから乗って!」と私達に叫ぶ。「こっち!」と扉を指して彼女が呼んだ。あわてて走る。転がるように乗り込む。ベルの音が止んだ。バタっとドアが閉まる。列車が動き出す。私達は顔を見合わせて「「間に合った……」」と見事にハモって、それから笑い出した。


 どこでもいいらしいので、空いている客室を探す。A寝台と書かれている車両には、通路にベージュ色の扉が並んでいた。「空き」とドアノブのあたりに青く書かれているところを思い切って開けてみる。お、意外と広いな……。私の後ろから中をのぞき込んだ彼女がはしゃぎだす。


 「二段ベッドだ! これ、なんか修学旅行みたい。やば。すごくない?」


 まあ、私もそう思う。とりあえず部屋の中に入って、ベッドの下段の奥に座ってみた。わ、ふかふかだ。すぐ横にある大きな窓には、暗闇の中で小さな灯りが通り過ぎているのが見える。ああ、そうか。いまこの列車は、星々の中を渡ってる。

 ギターと荷物を窓際に降ろすと、彼女は「探検してくる!」と言って、すぐに部屋の外へ出ていった。なんか少しやっちんに似ている。あいつも「ちょっと行ってくる!」と言ったきり……そのまま帰らなかった。

 窓に流れる星空をぼんやり眺めながら、やっちんの笑ってた顔を思い出す。星が好きな子だった。私もやっちんに連れまわされて、いろんなとこでいろんな星をたくさん見てきた。暖かい紅茶を抱き締めながら高原の上で、砂浜にふたりで座りながら海辺で……。いつでも私達の上には星が回っていた。

 でも星には手が届かない。ふたりでも届かない。

 だから、その想いを曲に託してきた。

 あのときから私はぐるぐるしていた。勉強のこと、親とのこと、将来のこと、やっちんのこと、ふたりで暮らすということ……。

 ああ、だめ。だめ……。ぐるぐるがあふれちゃう。もうぐるぐるしないと決めてたのに……。


 ドアが開いた。うっかり流れた涙をごしごしと拭いて、照れたように笑う。そんな私を見て、彼女は片手で持ったふたつのワイングラスをカチンと鳴らした。


 「売店空いてたからワイン買ってきた。飲む?」

 「うん。なんかごめん」

 「まあ、飲みなよ。飲んで、もっとぐるぐるしちゃえ」

 「やだよ。それじゃ悪酔いする」

 「だって、本当に話したいことは、まだ話していないでしょ?」


 私の心を見透かしたように彼女は言う。そうだけど。そうなんだけど。でも、やっちんのこと、話していいのかな……。とまどっていたら彼女がワイングラスを私へ手渡してきた。受け取る。黒い瓶を私に向ける。グラスを差し出す。注がれる赤い液体。グラスの半分まで注ぐと、彼女は私に言った。


 「知らない人だから話せるってこともあるよ。まあ、私は知ってるんだけどね」


 え? どっかで会った?

 どかりと隣に彼女が座った。


 「その人のこと好きだった?」

 「やっちんのこと?」

 「うん」

 「私の後ろはこの人しかいないと思ってた」

 「信頼してたんだ?」

 「喧嘩もしたけど、私のことをよくわかってるのは結局やっちんだけだった。私の気持ちも寂しさも……。だからずっといっしょにいれた」

 「ラブいね」

 「そうかな?」

 「そうだよ」

 「そっちだってそんなものでしょ?」

 「まあ、そうかな……。いまこうして離れたのを後悔してる。さっき彼女へメッセしてみたんだ。まだ寝てると思うけど」

 「ほら、寂しいんだよ。どうせ同じなんだよ。恋とか愛とかそんなものは」


 彼女は急にけたけたと笑い出した。


 「お姉さん、すっかりやさぐれてるし」

 「うっさいな。もっと飲ませてよ。私、いまぐるぐるしてんだから」


 ぐびっと飲んで、ワイングラスの中身を空ける。「いい飲みっぷりだね、お姉さん」とワインをまた注がれる。ワインの瓶を窓際のテーブルに置くと、彼女が私に微笑んだ。


 「少し難しい話していい?」

 「いいけど、なに?」

 「偉い人は未来にはたくさんの可能性があるって言うけど、私は可能性があった過去が、たくさんあっただけだと思うんだ」

 「それは後悔ってこと?」

 「だから、ぐるぐるしてる。どうにもならない今を見て、こうすれば良かった、こうして欲しかったと過去を悔やんでる」

 「それはまあ、そうだけど……」

 「他人に振り回されてぐるぐるしても、どうしようもない出来事でぐるぐるしても、自分で何も変えられなかったとしても、結局道は続いてる。その道がぐるぐるなんだよ。ほら、今日だって道に迷ったけど、結局海に行けたし」

 「でもさ。私はまっすぐな道を歩きたいよ」

 「わかるよ。でもね、ぐるぐるまわっていても、ふと立ち止まって、後ろを振り向いたら、きっとそれは一本道だよ。環状線だって終点はあるんだ」

 「私はいまを何とかして欲しいよ」

 「そうだね。でも、いまに至るまで、いろんな自分がいたと思うよ」


 コンコンとノックされた。ドアを開けて見えた姿は白衣を着た私だった。


 「はろー! 星が大好きになって天文学者になった世界のあなたでーす」


 は?

 驚く間もなく、後ろからもうひとり顔を出した。これも私だ。


 「あ、私は歌詞を書くのが好きすぎて、詩人になった私です」


 またひとり。もうひとり。ぞくぞくと私がやってくる。


 「あの……。文才はなかったけれど星の絵を描いたらバズって、絵描きになった私です」

 「にゃほ! 世界中の星を追いかけていたら、いつのまにか天文写真家になった私だよ!」

 「ちわ。大学に行ったけれど何にもなれず、結局ひきこもった私です」


 え、ええ? 次から次へと私があふれだす。


 「そして私は……」


 彼女が丸いサングラスを取る。

 あ、ああ!

 私だ!


 「音楽をあきらめなかった世界のお姉さんだよ」


 呆然としている私を前に、彼女がいつのまにか取り出したギターをかき鳴らす。星の明かりが強くなる。車内をミラーボールのように照らす。それから彼女は歌い出した。


 「ぐるぐるしちゃーう、ぐるぐるしちゃーう。あーだこーだ言われちゃう。あーしろこーしろ言われちゃう」


 天文学者になった自分が、私へうやうやしく手を差し出す。え、なんで? ほら握れと手をもっと差し出される。私はその手を取って立ち上がった。


 「みんな好き勝手。振り回されちゃう。ぐるぐるしちゃーう、ぐるぐるしちゃーう」


 くるくるとその場で回転させられる。目が回る。それを詩人になった自分が受け止める。あ、ちょっと楽しい。


 「みんなでぐるぐるしちゃう。宇宙だってぐるぐるしちゃう」


 詩人の自分に代わって、絵描きになった自分が私の体をやさしく抱き締める。自分に抱き締められるなんて、不思議な気分。


 「だからさ。もっとぐるぐるしちゃえ。ぐるぐるして、加速度付けて、飛び出しちゃえ!」


 絵描きの自分が私と手をつなぎ、その場で回る。天文写真家になった自分が交代する。あはは、なにこれ。なんか楽しくなる。


 「過去の自分が今の自分の背中を押すよ!」


 天文写真家の自分がぽんと私の背中を押す。おっとっと。それをひきこもりの自分が照れながら受け止める。やさしいぞ、自分。


 「他人はままならない。でも、やってきたことは裏切らない。自分はままならない。でも、やってきたことは裏切らない」


 ひきこもりの自分が、私をぽいと彼女へ差し出す。彼女の顔が近くにある。あはは。ウィンクしてくれた。かっこいいな、自分は。


 「「ぐるぐるまわって、もっとまわって!!」」


 彼女とハモった。ふたりで歌った。わあ、いい! とてもいい!


 「「あの彼方に向かって、力いっぱい飛んで行け!」」


 みんなでジャンプ! あはは、なんか楽しい。楽しいよ、自分!


☆彡 ☆彡 ☆彡


 自分たちとのバカ騒ぎは楽しかった。遠慮しなくていいし、歌だって好きなバンドのばっかりだった。それはそう。だって自分なんだから。

 30曲歌ったら、もうへとへとになった。二段ベッドの上には、詩人と引きこもりの自分がふたり仲良く垂れ下がっている。他の自分たちは、壁際に寄りかかり、床に寝そべっていたり、ぐったりとしていた。

 気持ちいいだるさに浸りながら、彼女と私は下のベッドに並んで座っていた。寄り添うようにして、ぼんやりと窓を流れる星空を見つめていた。あ、赤い星が見えてきた。彼女がこの宴の終わりを私へ告げる。


 「火星軌道に入るよ。それから月が見えたらすぐ大阪に着くから」

 「もう?」

 「まあね」

 「なんか、寂しいね」

 「ええ……。あんなに大騒ぎしたのに」

 「ごめんね、赤い髪の私」

 「わかってるよ。自分だけじゃ埋められない寂しさがあるんでしょ?」

 「うん、まあ。そんなとこ」

 「もっと奇跡を願いなよ」

 「そんな歳じゃないし。もう私は大人なんだよ。現実見なきゃ」

 「頑固なのはわかってるけどさ。なんたって自分なんだから。だから、して欲しいこともわかる」

 「なにそれ?」

 「みんなで背中を押してあげる。加速してあげる。だから、もっと速く、もっと強く、ぐるぐるしちゃいなよ」


 え?

 あったかもしれない自分たちが一斉に立ち上がった。

 え、なに?

 キスされる。順番に。

 え、自分に?

 ええっ!

 最後は赤い髪をした自分が笑いながらキスしてくれた。


☆彡 ☆彡 ☆彡


 ごとん、ごとん。ごとん、ごとん。

 あ、あれ……。

 寝てたのか。

 電車の中だ。見渡すと、私以外に乗ってる人がいなくて、車内はがらんとしていた。

 車窓からは朝陽に照らされた大阪の街が見えていた。電車は鉄橋を渡る。その丸い形から安治川を渡っているのだと思った。

 夢……、だったのかな。

 隣に置いたカバンには、仕事で持ち帰ったゲラ刷が見えていた。タイトルは『円環状並行世界の証明と複合する自己の存在。たくさんの過去から今へのバトン』。

 こんなの読んでたから、あんな夢を……。

 あれ、なにか右手に握ってる。

 なんだろ。

 手を開く。

 それは、ピンク色のピックだった。

 あ……。

 そっか……。

 夢、じゃないんだ。

 顔を上げる。

 窓ガラスには、赤い髪をした自分が反射していた。


 「もう、やっと見つけた」


 声がした。とても懐かしい声がした。もう会えないと思っていた声だった。その人が車両の端から私へ近づいてくる。


 「心配したんだよ。急に電車の中へ迎えに来いって言われてさ。仕事とバンドの両立は大変なのはわかってるよ。言ってるじゃん。私も働いて助けたいって。だから、大丈夫と言われても心配しちゃうわけ。わかる? ……って、何?」


 抱きしめた。緑色の座席に座ったまま、やっちんを思い切り抱きしめた。ずっと知ってた腰の細さを感じながら、私は泣きだした。

 カバンが落ちてゲラ刷りが床に散らばる。一緒に入ってた駅員さんからの手紙も床に投げ出された。そこには「あなたが本当に行きたい場所まで」と書かれていた。

 ああ、そうだね。私はぐるぐるしていた。ずっとぐるぐるしていた。そして、ここにたどり着いたんだ。

 私はやっちんをもう逃さないようにぎゅっと抱き締めた。泣きじゃくった。やっちんはそんな私を「しょうがない奴だな」と言いながら、ただ撫でてくれていた。

 ありがとう、自分。あきらめてしまった自分。なれなかった自分。つかめなかった自分。過去の自分が、いまの私を前へと押してくれる。だからね。だから、これからも進むよ。ぐるぐるまわっても、それはきっとどこかにたどり着くから。


<了>


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