第2話 蓮と子供

「ん……?」

 目を開けると知らない天井が目に入る。

 真っ白な天井に、眩しいシーリングライトが丸く縁取られている。

 細く目を開けて周囲を確認すると、小さなテレビの置いてある小さな棚と、自分の寝ているベッドと、ベッドを囲むように仕切られたカーテンがあった。

 どうやら病院にいるらしい。

「……生きてんのか」

 吐き捨てるように呟く。

 周りを見るために入れた力を捨て去って蓮はどこともなく視線を落とした。

 何の考えもなく棚の奥で影になっている角に視線を置いて蓮は思考も放棄した。

 それからどれくらいの時間が経ったのかはわからない。

「石原さん失礼しますね〜。点滴変えますね〜」

 背後でカーテンの開かれる音がした。

 女性の声が降ってきて、ガシャガシャとした金属の音や、パシャっという水っぽい音が聞こえる。

 蓮は寝っ転がったまま、ゆっくりと顔だけ振り向いた。

 そんなに酷い顔をしていただろうか。

 蓮の顔を見て看護婦は驚いた表情を浮かべた。

「石原さん目が覚めたんですね」

 よかったと、看護婦は安堵したように胸を撫で下ろした。

 蓮はなにか返事をしようと思ったが、うまく声が出なかった。

 看護婦は医者を呼びに行ったようだった。

「……はぁ」

 掠れる喉で溜息を吐いて、蓮は天井を見上げる。

 言いたいことや聞きたいことは沢山あるはずだが、言葉が何も出てこない。

 蓮の中には今、何もなかった。


 その後、医者がやってきて体のあちこちを診察された。

 いくつか機械の中に放り込まれたりもしたが、医者曰く概ね良好ということだった。

 なんだか治りが早すぎてすごいというようなことを、詳しく言われた気もするが、難しい説明は頭に入ってこなかった。

 とにかくあと一週間くらいで退院できるだろうという話だった。

 その一週間、蓮は死んだように過ごした。

 出されたものを食べ、トイレに行きたくなったら行き、夜になったら寝る。

 看護婦から少しは動いたほうがいいと言われたが、そんな気は少しも起きなかった。

 一週間後、退院した蓮はふらふらと街を歩いていた。

 どこにいく宛てもなく、ただ歩いた。

 暑い日差しが肌を焼くが、気にならないほど蓮の思考は止まっていた。

 にも関わらず。

 習性なのか、心の奥底で望んでいたのか。

 蓮は気づけば自分の家の前まで来ていた。

「夢じゃないんだよな……」

 家はやはり崩れてなくなっている。

 敷地を囲むように立ち入り禁止の黄色いテープが貼られていた。

 重い足取りでテープを潜り、かつて玄関だった場所に立った。

 現実がズンとのしかかる。

 もうこの場から一歩も動けないと蓮は思わされた。

「……くっそ」

 息を吐くだけでいつもより力がいる。

 体の感覚のバランスを失いかけていて、少しの動きだけで体力が持っていかれるようだ。

 ジャリと、ぎこちなく足で瓦礫をどかす。

 それだけで支えを失った瓦礫の欠片がガラガラと崩れた。

 一部の欠片が蓮の足を叩いたが、避ける気にもならなかった。

 それよりもズボンが白く汚れてしまったことで結希に怒られるかもしれないな、などと思って蓮はさらに気分が落ち込む。

 はぁ、と溜息をつきながら蓮は頭を抱えてその場にへたり込んだ。

 へたり込んで、瓦礫の下がよく覗き込めるようになってしまったが故に。

 影になる位置に子供用の靴が二足。

 綺麗に揃えて置かれたものと、乱雑に脱ぎ散らかされたもの。

 家に帰ってくると結希は靴を揃えながら悠太に注意する。

 そんないつもの幸せだった光景がありありと瞼の裏に浮かんだ。

「……う、っあぁ」

 あの日々はもう帰ってこない。

 今になって二人が死んでしまったという現実が濁流のように押し寄せる。

 嗚咽で息も絶え絶えに、蓮は泣く。

「ちくしょう…、守れなかった……! ごめんな悠太、結希……、ごめんよ、母ちゃん……」

 胸元のペンダントを握りしめて、蓮は泣き続けた。


 泣いて涙も出なくなった頃、辺りはすっかり暗くなっていた。

 瓦礫の中から財布を見つけて、それを持って蓮は再び歩き始めた。

 蓮の帰りが遅くなる時、二人でお菓子や食事を買いに行かせるために玄関に置いてあった仮面ハンターのイラストが描かれたがま口財布。

 中には千円札が数枚と小銭がいくらか入っていた。

 財布を片手にふらふらと街を歩いた。賑やかな喧騒から逃れるように人気の無い場所へ。

 河川敷まで来て、眠気を感じて橋の下で眠った。

「疲れたな……」

 帰る家もなく、仕事もない。二人を失った喪失感だけがあった。冷たく硬いコンクリートが蓮の傷ついた心を気にも留めていないように思えて、蓮は不思議と気楽でいられた。

 それからというもの、蓮はどこへ行くでもなく放浪した。

 お腹が空いたら近くのコンビニかスーパーに入ってパンを買って食べる。眠くなれば人気の無い場所を探して地面で寝る。そしてまた起きて放浪する。

 それが数日の蓮の流れだった。

 動いていないと二人の最期の姿が浮かんでくる。歩いていれば何も考えずにいられた。

 数日がたったある日、

「ってぇな、おい!」

 蓮は正面から歩いてきた人とぶつかってしまった。

 俯いた視界の端に人影を見て少し避けたつもりだったが、向こうは一切避けるつもりがなかったらしく、避けが足りなかったようだ。

「……あぁ、すんません…」

「あぁ? 聞こえねぇよ!」

 沈んだ気持ちで少し口を開けて謝罪をしたのだが、相手は気に入らなかったのか。

 わざわざ下から顔を覗き込んで睨みつけてきた。

「テメェちょっとツラ貸せや」

 面倒なことに巻き込まれたなと思いながらも、抵抗するのも面倒で蓮は連れて行かれた。

 男は二人組で、蓮がぶつかったのは背が低くピアスを大量に開けて柄のキツい服を着たいかにもチンピラ。もう一人は筋骨隆々のタンクトップを着た坊主だった。

 チンピラは路地裏の壁に蓮を突き飛ばすと壁に足をついた。

「ぶつかったら謝りましょうってママに教えてもらわなかったかー?」

 バカにするように卑しく笑ってチンピラは蓮に言葉を吐きかけるが、蓮はもう何もする気力が失せていた。

 無視されたチンピラは見るからに苛立って蓮の腹に蹴りを入れた。

「か、はっ……!」

 衝撃で肺から空気が漏れ出た。涎を垂れ、蓮は腕で口元を拭う。

 しかしそれでチンピラの気は収まらない。

 蓮の髪を掴んで立たせる。

「おい、こいつ動けないよう抑えとけ」

「仕方ねぇな。死なねぇ程度にしとけよ」

 口ではもっともらしいことを言っている坊主だが、その口調は明らかに楽しんでいた。

 脇の下から腕を回され、動けないよう蓮は羽交締めにされる。

 蓮の足くらいの太さがある腕で拘束された蓮は、しかし本気を出せば動けそうではあったが毛頭動く気もなかった。

「おらっ! ごめんなさい、だろ!」

 チンピラが大きく腕を振って蓮の顔を右手で殴る。

 続いて左。右と、連続でまるでボクシングの練習でもしているみたいにパンチを連続で繰り出す。

 言葉を話す暇もないほどで、チンピラももともと謝罪させるつもりはないのだ。

 何発か受け、口の中に血の味が滲んできた頃、そろそろ気を失うかもなと蓮は思う。

 一発自体はそれほどのダメージではないが、体を固定されて衝撃を逃すこともできずに何発も受けていては流石に蓄積されているようだった。

 そして脳に響くような重い音が聞こえた。

 全身を震わせるような衝撃が皮膚から伝わってくる。

(あぁ…これは飛ぶかもな……)

 朦朧とした意識の中で蓮は不思議と冷静で。

 気を失う直前まで来るともうどこが殴られたかも分からなくなるんだな、なんて思う。

 意識が遠のくのを待っていると、しかし一向にその気配がない。

「おい、ヤベェって! さっさと逃げるぞ!」

「んだよ、まだ殴りたりねぇのに」

「つべこべ言ってないで走れ!」

 そんな会話を朧げに聞いたと思えば、急に体が重くなる。

 それは蓮の体を支えていた坊主が拘束を解いたからだと、しばし地面に顔をつけてから気づいた。

 路地裏に倒れ込んだまま、人が通る様子もなく助けは現れない。

 ぼーっと、耳に入ってくる音を聞いていてまたひとつ気づく。

 どうやら通りにいる人々は路地裏に倒れた蓮に気づく暇もないほど、切羽詰まっているらしい。

 悲鳴を上げて走っていく姿が、建物と建物の間の隙間から少しだけ見えた。

(またモンスターか……?)

 なんだか最近はモンスターに遭遇することが多いなと思いながらも、どこか他人事だった。

 人々の逃げ惑う感じからすると、モンスターが出たのはそう遠くない場所のように思える。ここにいては殺されてしまうかもしれない。

 しかしそれでも構わなかった。

 蓮が守るべきものはもうない。

 双子の弟と妹はもう死んでしまったのだから――。

(もういいか……)

 蓮に目の前の現実へ向ける注意はもうなく、思い出の中の二人を思い出していた。

 溢れる涙は横向きに顔を伝い、地面をじんわりと湿らせる。

 全てを諦めて眠ろうとした時だった。

「おい、あれはどこの子だ!? あんなとこにいたら危ねぇぞ!」

 大通りの方、その少し遠くからそんな声が聞こえた。

「子供……?」

 思わず反応した蓮は、腕を地面について重い体の上半身だけを起き上がらせた。

 そのまま足を立てて膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。

 ふらつく足取りに壁を支えにしながら大通りへと向かう。

 壁の際、大通りと路地裏の境目に辿り着いたとき、太陽の光が一瞬目を眩ませる。

 目が慣れて視界が戻ってくると、蓮は息を呑んだ。

「おいおい危ねぇって……」

 大通りの真ん中に少女が一人立っていた。

 体は小さい。見たところ結希と大差ないように見える。蓮の見立てでは小学生くらいだ。

 その少女に相対するように、数メートルの距離を開けて獣型のモンスターがいる。大きな牙を持ち、二本足の鋭い爪で地面をしっかりと掴み、全身が厚い体毛に覆われている、大人の倍くらいの高さのオオカミ――人狼ウェアウルフ

 それが威嚇するように喉を唸らせて、じっと少女を睨め付けている。

 しかし少女は微動だにしない。

 ここからでは顔が見えないが、恐怖で動けなくなっているのかもしれない。

 そんな少女を離れた人だかりから見ていた内の一人が叫んだ。

「早く逃げろ!!」

 だがそれが却って逆効果だったようで。

 ウェアウルフは雄叫びを上げて地面を蹴った。

 人だかりから一際大きなどよめきが聞こえた。

 少女とウェアウルフの距離はそう遠くない。

 動く気配のない少女を助けられる距離にいる人はいなかった。


 ――蓮を除いて。


 ウェアウルフが地面を蹴ると同時に、蓮も大通りに飛び出した。

 もつれそうになる足を、気合いで前に運ぶ。

 全てがどうでもいいと思っていたはずなのに、目の前で子供の命が失われるのを黙って見てはいられなかった。

(くっそ、届け……!!)

 ウェアウルフは近づきながら右腕を振り上げてその鋭い爪で少女を引き裂こうとしている。

 ウェアウルフと蓮と、どちらの方が少女に近いか。

 ウェアウルフの攻撃よりも早く少女を助けられるか。

 分からなかったが蓮はがむしゃらに飛び込んだ。

 少女を腕に抱えて地面を転がる。

 かろうじてウェアウルフの攻撃は蓮の足を掠ったに留まった。

『グォォォオオオオオオ!!』

 獲物を横取りされたと思ったのか、それとも増えたことに喜んだのか。

 ウェアウルフは雄叫びを上げてこちらを見た。

 獣らしい荒い息づかいが見えるかのように口から呼吸音が聞こえてくる。

「早く逃げねぇと……っ!」

 胸元に少女をしっかりと抱えたまま、立ちあがろうとするが、しかし足の痛みに顔が歪む。

(足が……! これじゃ走れねぇ!)

 蓮の足からは血が滴っている。

 力を込めると傷口がズキンと鈍く痛んだ。

 どうするべきかと、頭を巡らせながら少女を強く抱きしめる。

 何があってもこの子だけは守らなければならないと。

 次にできること、しなければいけないことを考えてと蓮が頭を悩ませていると、

「……足、大丈夫?」

 鈴の音のような、優しくもはっきりとした声が聞こえた。

 聞こえた声に蓮はしかめ面のまま胸元を見て、慌てて笑顔を作る。

「あぁ、大丈夫だ! お前は絶対守るからな!」

「……そう、良かった」

 蓮に抱かれて小さく縮こまりながらも、胸元から蓮の顔を見上げる少女はふわりと笑う。

 少女の声を聞いたり笑顔を見たりしていると、目の前にモンスターがいて切羽詰まった状況であることが嘘のように思えてくる。

 それほど少女の纏う雰囲気は独特で非現実的で、まるでこの少女の周りだけ時間の流れが異なっているかのようだった。

 しかし現実にウェアウルフは迫ってきている。

『オ、オォォォォオオオオオオオオオオオオ』

 今度は明らかに威嚇する様子で喉を唸らせたウェアウルフに、蓮ははっと意識を正面に戻す。

 打開策はあるが、あまり良い案は浮かばない。

 しかしこの少女を守るためにはそれ以外になかった。

「お前、振り返らずに後ろに走れ」

 少女を地面に優しく下ろして蓮は少女の頭を撫でた。

 そして力を振り絞って立ち上がり、少女の横から前に出る。

 ウェアウルフと蓮が向かい合い、蓮の背中側に少女。

 もうこうするしかない。

「行け!」

 蓮は大きな声で少女に指示して、ウェアウルフの攻撃に備えて構えた。

 壁を容易く破壊するほどの攻撃力を持つウェアウルフに、蓮がいくらも耐えられるはずもない。

 しかし少しでも長く耐えれば少女が助かる確率も上がる。

「こいよ、クソったれ!!」

 自分を奮い立たせるための言葉。

 それに呼応するようにウェアウルフも攻撃の動作に入る。

 距離を詰めてくるウェアウルフに、蓮は時間の流れがゆっくりに感じる。

 先程までズキズキと足を打っていたはずの痛みも感じない。

 これが死に際の走馬灯みたいなものかと、蓮は状況を冷静に見ていた。

 徐々に近づいてくる鋭い爪。あれが蓮を捉えればひとたまりも無いだろうと、死を間近に感じる。

 そしてやはり最後に浮かんだのは悠太と結希の笑顔だった。

(俺も今そっちにいくからな……)

 死を覚悟した蓮は最後に体を強張らせる。

 そして――。


 ――ガキィィン、と。

 甲高い音が耳を突いた。

 思わず身を竦ませてしまうほどの音に、蓮は目を固く瞑った。

 そしてそれから数瞬は一切の音がなく。

 蓮は恐る恐る目を開けた。

「気に入ったぞ、お前。私の部下になれ」

 片手に持った剣で自身の背中越しにウェアウルフの腕を留めながら、不遜に口の端を上げて目の前に立つ女性は蓮にまっすぐな言葉でそう言った。

「え……は…?」

 何が起きたか分からず蓮は困惑した声を漏らす。

 突然現れたどこかの軍服のような白い服を着た女性は顔色ひとつ変えずに、細い片腕一本でウェアウルフの攻撃を受け止め、勝気な目で蓮をしかと見据え、そして意味不明なことを要求してきた。

 一体何が起きているのか。

 理解できないまま呆気に取られていると。

『ガァァァアアウォォオオオオオ』

「チッ、うるさいな」

 ウェアウルフがもう一方の腕を高く振り上げた。

 女性は煩わしそうに鋭い目でウェアウルフを睨みつけると、剣を翻した。

 爪を弾かれたウェアウルフは後ろにバランスを崩し、二、三歩後方へと後ずさった。

 体勢を整えて再び女性に攻撃しようとするが。

 しかしそこに女性の姿はなかった。

 ずっと見ていたはずの蓮の目にも追いつけない速さで女性は移動したようで。

 既に後退したウェアウルフのさらに後方にいた。

 そしてウェアウルフと蓮が女性を認識した時、女性は剣を鞘に納めるところだった。

 女性の背後からウェアウルフは襲い掛かろうと体勢を変えようとするが。

『グォォオオオ…!……オォォオ?』

 振り返った上半身はそのまま滑って地面に落ちた。

 そして遅れて下半身も糸が切れたように地面に崩れ落ちた。

「他愛もないな」

 女性は振り返ってつまらなそうにウェアウルフの死体を見た。

「なん、だ……?」

 蓮は訳もわからず疑問が口をついて出たが、意識が遠のいていく。

 モンスターが死んで緊張から一気に解放されたのかもしれないし、血を流しすぎたのかもしれない。

 薄れゆく意識の中で、しかし振り返る女性の長く白い髪がまるで太陽光の下で舞う雪のようにきらきらと美しかったことだけは覚えていた。

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