王子様のおともだち

日崎アユム/丹羽夏子

大人になってもずっと一緒にいましょう

 この国の王子には侍童という従者がつく制度がある。

 王子が七歳になった時に、父である王の側近の子弟から、優秀で近侍にふさわしいと判断された少年が選ばれる制度である。

 侍童は、少年時代は学友としてともに学びながら身の回りの世話をし、王子が成人してそれなりの役職を得れば、側近として政治に携わることになる。

 王子を支え、守る重大な務めであり、この上なく名誉のある仕事である。貴族はみんな我が子を王子の侍童にしたくてたまらない。侍童になれば出世街道間違いなしだと言われている。


 このたび第一王子として生まれ育ったリオナールにも、優秀な侍童がいた。

 彼の名前をヤヌスという。

 もうリオナールもヤヌスも十七歳なのでもはや侍童と呼ばれることはなくなったが、ヤヌスは今もリオナールの学友として貴族の子弟が集う高等学園でともに学んでいる。


 ヤヌスは非の打ち所がない少年である。学業は優秀で、剣術の腕も立つ。気性は温厚で、誰に対しても物腰穏やかだ。それに何より、美しかった。黒い髪に氷色の瞳は神秘的で、整った顔立ちやすらりと高い背も、社交界の乙女たちをときめかせるには十分であった。


 リオナールにとって、ヤヌスは自分の手足であり、影である。いついかなる時にも自分に付き添っていて、何よりも自分を優先する。学園では常にそばに置いていたし、宮廷に戻ってきても夕飯の時間までずっと拘束していたが、それが当たり前のことで、まったく疑問に思っていなかった。

 王子と侍童は何をするのにでもともに行動するものだ。

 聞いた話によると、どうやら過去実際に影武者として死んだ侍童もいたらしい。それは彼らにとって名誉なことであり、誰にとっても疑問を差し挟む余地のないことであった。リオナールはヤヌスにそういう名誉ある死を与える権利さえ持たされていた。


 金髪碧眼の太陽のようだと形容されるリオナールと、黒髪青目の夜のようだと形容されるヤヌスは、二人で一対だった。誰からどう見てもぴったりな、一組の主従だった。


 だが、リオナールももう十七歳である。いつまでもヤヌスと遊んでいられるわけではない。


 ある日のこと、リオナールは一人の令嬢と引き合わされた。母が主催の夜会で何度か顔を合わせたことのある侯爵の令嬢で、名をマーリーンという。ミルクティーのようなブラウンの髪に優しげな翠の瞳の少女だ。年はリオナールと同じである。


「あなたが学園を卒業したら、結婚式を挙げましょう」


 母である王妃が言った。彼女はたいへん機嫌がよさそうだった。マーリーンもその母である侯爵夫人も、王妃ほど露骨にはしゃいではいないが、満足そうに、穏やかに微笑んでいる。


 リオナールはこの国の第一王子だ。ゆくゆくは王妃にふさわしい女性を妻に迎える必要がある。

 そのこと自体はずっと前からわかっていたが、いざ目の前にそういう名目でやって来た女性が現れると、どうも気後れする感じがした。

 人前では陽気なお調子者で通っているリオナールは、軽口を叩いて場を和ませようと試みた。女性三人は笑ってくれて、「これなら大丈夫そうね」とささやき合った。しかし本心では気持ちがついていかなかった。結婚、結婚、結婚――婚約者の登場はリオナールの人生に義務感と責任感をもたらした。


 それを、リオナールはヤヌスにこぼした。


「婚約だなんて、私にはまだ早いと思わないか? 確かに身分は王族だが、一応学生ではないか。勉強したいこともあるし、公務は公務で忙しい。女の機嫌を窺うのはまっぴらごめんだ」


 ところが、ヤヌスは予想外のことを言った。


「おめでとうございます、殿下。僕はこの時を待ちわびておりましたよ」


 リオナールは愕然とした。


「そうは言っても我々ももう十七歳ですから。国王陛下は殿下が十八歳になったら立太子するともおおせです。その儀式の場には妃の存在が必要ですよ」


 頭がくらくらする。


「お前、いつからそのようなことを考えるようになった?」

「いつからでしょうね」


 ヤヌスは優しく微笑んでいる。その様子は、あのマーリーンという少女とも少し重なった。みんなみんな、リオナールを穏やかな目で見つめている。その生ぬるい空気に、吐き気がしそうになる。


「でも、ほら。我々は、十七歳ですから」


 ヤヌスはそれを繰り返した。


「いい加減、女性との付き合い方も覚えないと。いつまで経っても僕と殿下の二人で遊んでいるというのは不健康だと、王妃様はお考えなのだと思いますよ」


 青天の霹靂だった。




 男女はあからさまに交際するべきではない。招待状を送り、付添人がいるところで、二人きりにならないように、入念な準備の上で会うものである。

 むしろ、これだけでもずいぶんおおらかな時代になったと、母は言う。母は隣国から政略結婚で嫁いできて、結婚前に父と会ったのは婚約式の時のただ一回だけだったのだそうだ。それを考えると、国内の貴族とじっくり関係を構築できるリオナールはたいへん幸福なのだという。


 けれど、リオナールは気乗りしなかった。

 定期的にマーリーンに手紙を送らなければならなくなったが、いつも書く内容が思いつかない。ヤヌスに相談して、ヤヌスにあれはどうかこれはどうかと助言を貰って書いている。ほとんどヤヌスが書いているようなものだ。これでいいのだろうか。こんな男と婚約して、マーリーンはどう思っているのだろう。

 リオナールが乗り気でないのを察して婚約破棄を申し入れてくれないかとも思ったが、侯爵令嬢のほうから王子を婚約破棄するなど前代未聞で言語道断だ。リオナールからも、国内政治を掻き乱してまで婚約破棄する理由はない。マーリーン本人にはもちろん非がない。何か問題が発生してすべてがなかったことになってくれないかと、祈ることしかできない。


 今日も、リオナールはヤヌスと二人で午後のティータイムを過ごしていた。リオナールは長い足を投げ出して、ヤヌスを眺めていた。ヤヌスの顔は美しく、見ていて飽きなかった。


 ヤヌスと目が合う。ヤヌスがにこりと微笑む。


「殿下、今日は少しお話したいことがあります」


 彼が急に姿勢を正したので、リオナールは不安を感じた。自分たちは堅苦しい関係ではない。改まって話をしなければならないことなど何もないはずだった。


「聞いてくださいますか」

「もちろん」


 不安を押し隠して、強がってそう言った。


「どんなことでも。私は器の大きい次期国王だからな」

「それは頼もしい」


 ヤヌスは、相変わらず、微笑んでいる。


「実は、僕も婚約することになりました」


 リオナールは両目を大きく見開いた。

 やはり、ヤヌスは、微笑んでいる。


「ダンバン子爵家のフィオーレ嬢です。この前お会いしましたが、おっとりとした、可愛らしい人でしたよ」


 リオナールは混乱した。いまだかつてヤヌスが女性を評価したことなどなかった。そういうことをリオナールの前で口にしたことは本当に一回もなかった。


「何を突然」

「突然ではありませんよ。父が殿下の婚約話と同時進行で進めてくれていたようで。殿下の婚約話がまとまったから、お前もそろそろいい頃合いではないか、と。そして、殿下が正式にご成婚された後くらいに、僕もそうするのがよろしかろうと」


 そして、ちょっといたずらそうに笑う。


「第一王子の侍童ともなるとより取り見取りなのだそうですよ。自分のこととなるとなんだか恥ずかしいのですが、まあそういう人生もあるのかな、と受け止めています」


 リオナールは椅子を蹴って立ち上がった。テーブルクロスを引っ張って、テーブルの上をひっくり返した。ヤヌスは少し驚いた顔をしていたが、何も言わなかった。


「帰る。お前も下がれ」


 腹の中がぐつぐつと煮えたぎっている。不快だ。反吐が出そうになる。この上ない怒りを感じる。気持ちが悪い。目に入るものすべてを破壊したい。ヤヌスの視界から離れたのち、衝動のままに壁を蹴った。


 不愉快だった。


 ヤヌスのくせに女の話をしている。しかも女に可愛らしいなどという高評価を与えている。婚約しようとしている。


 結婚するのか。所帯を持つというのか。


 それはリオナールよりも大切なものなのか。


 胸の中がぐちゃぐちゃになる。


 ヤヌスには、リオナールより大切なものを持ってほしくない。




 翌日は休日で、授業がなかった。いつもの休日なら朝食の後ヤヌスが宮殿に上がってくるのだが、幸か不幸か今日はマーリーンと会う約束をしていたので、まったくの偶然ながらヤヌスは最初から来ないことになっていた。


 マーリーンとは、午前中は宮殿の庭を散策して、昼食を一緒に取ることになっている。午後は午後でまた別の招待客を呼んでお茶会があるのである。それまでの時間を、リオナールはマーリーンと二人で過ごすことになっていた。当然侍女たちや従者たちはいるが、形式的には二人で語らうことになっている。宮殿の中庭にあるガゼボで、隣り合って座った。


 マーリーンは聡い人で、いつもどおり明るく振る舞うリオナールのほんのちょっとした影に気づいていたようだった。


「いつもよりさらに饒舌ですね。何かございましたか?」


 彼女のそんな一言に驚いたが、何といったらいいものか。リオナールは彼女の顔を見つめたまま言いよどんだ。


「どのようなことでもお話しください」


 マーリーンが優しく穏やかに微笑んでいる。その落ち着いた態度は、ヤヌスにも通じるところがある。ともすれば落ち着きがないとも言われがちなリオナールとは、相性がいいかもしれなかった。


「わたくし、どのようなことでも受け入れる覚悟がございます。もちろん打算ですよ。殿下のことを心配できるいい女だと思われたいのです。だから最初から裏心のあるものとして変に勘繰らずに頼ってくださいませ」


 上品な物腰には似合わない、挑発的な言葉だ。リオナールはついつい笑ってしまった。


「私の近侍にヤヌスという男がいるのはご存じかな」

「ええ、もちろん。令嬢たちの間では国で一番の美男子と評判ですよ。わたくしはあなたのほうが素敵だと思っておりますけれどね」

「彼が婚約をしたというんだ。私が結婚したら彼も結婚するらしい」

「まあ」


 マーリーンがリオナールの顔を覗き込んでくる。


「それで浮かない顔をしておいでなのね」

「おかしいだろう? 婚約はめでたいことなのにな。私はいったい何が引っ掛かっているのやら」

「それはそうですよ、さみしいことですからね」


 彼女の言葉で、ようやく腑に落ちた。


「一番のお友達に自分以外の一番ができることは、さみしいことですわ。真の意味での子供時代とのお別れではありませんこと」


 自分はさみしかったのだ。ヤヌスの心が自分以外の人間に向かうことをさみしく思っているのだ。


 見ず知らずの女にヤヌスを奪われる。自分たちは十年の歳月をともにしてきたのに、ほんの最近出てきたどこの誰とも知らぬ女が間に入ってくるのが嫌なのだ。


 これは、嫉妬か。


 それに気づいた瞬間、かえって心が楽になった。


「そうだ。私は子供だったんだ」


 ヤヌスの言うとおりだ。我々はもう十七歳だ。社交界に出ていくなら、女性との付き合い方も覚えていく必要がある。女性だけではない。広い世界に旅立たねばならないのだ。男も女もなく、お互い以外の人間とも交友を深めていかなければならないのだ。


「心配することはありません。私にも女学校で一緒だった親友が早くに結婚してしまって悲しかったおぼえがあります。おそれながら一緒ではないかとお察し致します」


 そう言って、マーリーンはそっとリオナールの背中を撫でてくれた。その華奢な手の動きが心地よくて、リオナールは安心した。


「殿下にとってヤヌスさんはそれほどまでに特別な方なのですね。今おっしゃってくださってありがとうございます。結婚してからお前より特別な者があると言われるよりはずっとずっといいですわ」

「そうだろうか」

「なんでもないことですよ。ご自身のお気持ちを素直に受け止めてください。そしてできるのならば、ヤヌスさんにそのままを伝えてみてはいかがでしょうか。王子と侍童とはそれほどまでに深いきずながあるのだと言われれば、皆そういうものかと思いますよ」


 彼女の温かい応援の言葉に触発されて、リオナールは大きく頷いた。




 さらにその翌日、リオナールはあえてヤヌスをガゼボに呼び出した。マーリーンと一緒に過ごしたあのガゼボだ。花の咲く庭にあるガゼボはロマンティックでとても男二人が並んで過ごすところではないと母に笑われたが、今は母のことなどどうでもいい。母が采配に失敗したから変にこじれたのである。


 マーリーンの言うとおり、遅かれ早かれ自分にはこういうタイミングが訪れていたのかもしれない。今回は彼女との婚約がきっかけになったが、いいきっかけだったと思いたい。

 そうでなければ自分は一生ヤヌスは自分のものだと思い込んだままだっただろう。

 それでは大人になれない。

 永遠にヤヌスにおんぶにだっこでは生きていけない。ましてやリオナールはこの国の王になるのだから、どこかで自立しなければならなかったのだ。


 ガゼボで待っていると、ヤヌスが普段どおりの服装で現れた。ヤヌスは王子の特別なので、正装でなくても許される。それが尊いことのように思えて、リオナールは目を細めて彼を見つめた。


 ヤヌスは心配そうな顔つきでリオナールを見ていた。目が合うと、その場でひざまずいた。


「先日は殿下のお気持ちに背くような物言いをしてしまい、たいへん申し訳なく思っております。ですがここは忠節のためにあえて申し上げます。僕は今回の婚約を破棄するわけには――」

「よい。わかっている」


 手の平を見せて止める。できる限り優しい表情を意識して笑顔を作ってみせる。


「私のほうこそ、いや私が、悪かった。お前をひどく束縛していた。私がまとわりついていてはお前も自由にならないな。子供っぽいことをしてしまった」


 すると、ヤヌスも笑みを見せた。


「お前も一応貴族なのだから家の体面もあるだろうし、お前自身家庭を持つことに思うところがあるのだろう」

「ええ……、そうですね」


 次の言葉に、リオナールは、両目を見開いた。


「結婚して、子供を作って。殿下のご子息の侍童になれるような子供を育てなければなりませんから」


 ヤヌスの氷色の瞳に、一瞬、昏い光が灯った、気がした。


「殿下のための結婚です。僕が未来永劫殿下のものであるためには、邪魔にならない女を妻に迎えて、早く子供を産ませるのがいい」


 背筋にぞわりと鳥肌が立った。


 自分は何か大きな思い違いをしていたのではないか。自分がヤヌスを束縛しているのではなかったか。ヤヌスは一足先に大人になっていて、リオナールのくびきから離れようとしていて、それで――


「それでも。あなたがどうしても嫌だとおっしゃるならば、婚約破棄などたやすいこと」


 ヤヌスが、リオナールの手を取った。その甲に、口づけをする。


「僕の王子様。僕のすべてが永遠にあなたのものです」


 リオナールは頭が真っ白になった。こいつは何を言っているのだろう、と思った。


「よくないぞ、ヤヌス」

「何がですか」


 リオナールを見上げるヤヌスの目が、笑っている。


「婚約者は大切にしたほうがいい。わざわざ嫁いできてくれるというのだから、大事にしなければだめだ。私とてマーリーンと結婚するのだから、お前も結婚して、お互い平等ではないか。それで丸く収まるのではないか」

「そうですね」


 唇の端は、持ち上げたままだ。


「殿下がそうおっしゃるならば、そうなのでしょう。殿下がそうおっしゃるのであれば、ね」


 それを聞いた瞬間、リオナールの胸の中を何かが突き抜けていった。

 彼は結婚してもリオナールを優先するだろうと、確信した。リオナールが何かを言えば、彼の人生は簡単に変わるだろう。そして彼はそれをよしとするだろう。

 聞いてみたい。

 すべてを築き上げた後に、リオナールと自分の家庭のどちらを取るか、問うてみたい。

 そんな未来を夢想したら、また別のぞくぞくが湧いてきた。


「……お幸せにな」


 リオナールがそう言うと、ヤヌスが立ち上がって「殿下もね」と言った。



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