世界が変わった、そのあとは・後編



「……波流」


 どこからか、わたしを呼んでくれる声がする。


「波流」


「あ……」


 目を覚ましたら、そこには、錬太郎くん。


「どうして……」


「始発で帰ってきたんだよ」


 バツが悪そうに、錬太郎くんが、視線をそらす。


「一晩中、そこにいたのかよ?」


「……うん」


 錬太郎くんを待ちながら、ぼんやりしてるうち、いつのまにか寝ちゃっていたんだ。


 と、そこで、錬太郎くんが、一点をじっと見ているのに気づく。


「あっ、これは」


 抱えていた本を、あわててバッグに押し込もうとする。だけど。


「わざわざ、持ってきたのか? これ」


「……うん」


 横から、錬太郎くんに取り上げられた。


「ごめん。大人げなくて。波流のことを置いて、出て行くなんて」


「ううん」


 錬太郎くんの言葉に、首を振る。


「せっかく、ここまで来てくれたのに。一緒にいれるだけで、よかったはずなのに」


 わたしだって、同じ。錬太郎くんと過ごせるだけで、幸せだったんだよ。それなのに、わたしが錬太郎くんを傷つけた。


「もしかして」


「え……?」


「いつも、そうやって眠ってた?」


「あ……」


 とっくにボロボロになってしまった本が、明らかに、そのことを証明している。


「長い間、ずっと一人だったから」


 孤独だった。安らげる時間もなかった。


「だから、寂しいのと不安で、この本がないと眠れなかったの」


「……それなら」


 錬太郎くんが、視線をそらした。


「その本があれば、それでいいってこと? べつに、俺はいなくても……」


「違う」


 こんなことを言ったら、絶対に重い。だけど、止まらなくなる。


「なおさら、苦しかった」


「何がだよ?」


「錬太郎くんに会いたくてたまらなかったのに……錬太郎くんには、二度と会えないと思ってたから」


 錬太郎くんと再会する前の悲しい夜を、ひさびさに思い出しちゃったの。


「もしかしたら、沙都と錬太郎くんが、一緒にいるかもしれないとか。そんなこと考えるたび、胸が苦しくて」


 わたし、何言ってるんだろう? こんな、錬太郎くんに面倒がられるような……と、その瞬間。


「もう、ダメだ」


 今までの中で、いちばん強く、錬太郎くんに抱きしめられた。


「錬太郎く……」


「悪いのは、波流だから」


 腕をきつくしめつけられたまま、錬太郎くんの息が、わたしの髪にかかる。


「この状況で、そんなことを言われて、何もしないでいられる男なんて、いない」


「…………」


 同じ。学校をやめる日に、わたしを抱きかかえてくれた、錬太郎くんの温かさと。


「好き……」


 角度を変えて、何度もキスされながら、今度はためらわないで、口にする。


「錬太郎くんが好き。どうしていいか、わからないくらい、好き」


 つかえが取れたように、何度でも繰り返す。だけど。


「どれくらい待ったと思ってる?」


 錬太郎くんのキスが深くなっていくにつれて、わたしの言葉は機能しなくなってくる。


「ちゃんと、大切にする。だから、波流が全部欲しい」


「うん……」


 一晩、離れていたからか、わたしも錬太郎くんの熱を求めてやまないの。


「わたしも。わたしも、錬太郎くんの全部が欲しい」


 乱れてきた呼吸に、かき消されそうになりながら、わたしも必死で錬太郎くんに伝える。


「意味、わかってないだろ?」


「わかってるよ」


 びっくりした。直接触れる肌の感触が、こんなにも気持ちよくて、幸せなものだったなんて。全てがさらけ出された恥ずかしさよりも、ただただ、錬太郎くんと溶け合いたい気持ちだけが、わたしを支配する。


「好きだよ、波流」


 耳元で囁かれた錬太郎くんの声が、痛みも何もかも全て、麻痺させる。


「わたし……も……」


 錬太郎くんに体中でしがみついて、わたしも何とか言葉にしようとするんだけれど。


「何? 波流」


 錬太郎くんが少し意地悪く、平然と聞き返してくる。


「好きなの……錬太郎くんが」


 苦しいのを我慢して、やっとの思いで声にしたら。


「波流、可愛い。最高に幸せ」


 そんな信じられないような言葉と共に、錬太郎くんに、ギュッと抱きしめられた。





 小一時間、うとうと二人で微睡まどろんだあと、多分同時に目を覚ました。


「昨日は、どこにいたの?」


「高橋のところ」


 少し笑って、錬太郎くんが答える。


「盛りすぎてた。反省します。余裕なさすぎ」


「やだ」


 錬太郎くんの顔を見て、わたしも笑った。


「ねえ、錬太郎くん」


 錬太郎くんの胸に顔を寄せて、もう一度、体を密着させてみる。


「わたし、想像もしてなかったの」


「何が?」


「こんなに気持ちがいいものだなんて」


「…………」


 わたしの髪に触れていた手を止めて、驚いた表情で、わたしを見る錬太郎くん。


「あれ? えっと、違うの! そうじゃなくて」


 今、明らかに、意味を取り違えられた。


「いや、それは、うれしいんだけど。すごく」


「ううん、あの……!」


 誤解されたままじゃ、恥ずかしすぎるから。


「あのね、全部」


「え?」


「錬太郎くんに、抱きしめてもらったり。髪をなでてもらったり、体に触れられたり。こうして、ただくっついてるだけでも錬太郎くんの温かさが気持ちよくて、幸せになるの」


「当たり前だろ? そんなこと。俺だって、同じだよ」


 心なしか、顔をそむけながら、錬太郎くんが言う。


「だけどね」


 昨日、錬太郎くんをあんなふうに拒絶してしまった理由を、ちゃんと伝えなきゃいけない。


「わたし、ずっと、心と体のつながりは別だと思ってたの」


「そりゃあ、そういうヤツらも、いるだろうけど」


 錬太郎くんが、わたしに視線を戻す。


「わたしの親も、そうだったから。お母さんは、お父さんを繋ぎ止めるために、子供がほしかっただけなの」


「え?」


「お父さんだって、他に好きな人がいても、たまに家に帰ってくれば、お母さんと……あの日だって、そう。お父さんは、お母さんへの愛なんか、とっくになかったはずなのに」


 あのときは、そういう行為が、とてつもなく汚らしく感じられた。


「ああ、エグいよな。自分の親の、そういう場面」


「そ……」


 さらりと言った錬太郎くんに、驚く。


「見ちゃったことあるよ、俺も。たしか、小学校の高学年の頃」


「そうなの?」


 錬太郎くんも、そんなことがあったんだ。


「夜、なんとなく、目が覚めて。何か変な物音がすると思って、親の寝室のドア開けたら」


 一回、顔をしかめてから。


「当たり前だけど、すごい慌ててた。できれば、俺の目には触れさせないでほしかったけど」


 と、今度は、おかしそうに笑った。


「えっと……」


 どんな反応をしていいのか、わからない。黙って、錬太郎くんの顔を見てたら。


「波流」


 錬太郎くんが、わたしの髪に丁寧に触れた。


「たしかに、波流の親は、とんでもない人間だと思う。悪いけど」


「……うん」


 全然、悪くない。


「でも、波流を生んでくれたってだけで、俺は感謝してる」


「錬太郎くん……」


 目が熱くなる。


「結果、今は別れてても、最初から愛も何もなければ、やっぱり波流は生まれてこなかったと思うから」


「そう……かな」


「そうだよ。こんな最高傑作」


 そう言って、錬太郎くんは、きつく抱き寄せてくれた。


「錬太郎くん」


「ん?」


 腕を緩めないまま、錬太郎くんが返事する。


「……大好き」


 離れているし、錬太郎くんは女の子にも好かれる。だから、もしかしたら、心変わりすることもあるかもしれない。


 だけど、わたしは今、錬太郎くんが大好きで。こうして抱きしめてもらったことを、この先ずっと忘れないと思う。それだけでいい。


「何、泣いてるんだよ?」


「ごめん」


 わたしの涙が、錬太郎くんの胸を濡らしてしまった。


「……言っておくけど」


 と、錬太郎くんが少し顔を離して、わたしの目を見た。


「何……?」


 わたしも、まっすぐに、錬太郎くんの瞳を見据える。


「一生、離すつもりないから」


「…………」


「二度と、俺は波流を離さない」


 そう、口にしてから。


「……何、言ってるんだろう?俺」


 恥ずかしそうに目をそらした錬太郎くんに、わたしは自分からキスをする。


「バカ。また、歯止めが効かなくなる」


「一生分、してほしいの。今」


 錬太郎くんの全てを、ずっと覚えていられるように。


「自覚してんだか、してないんだか。けっこう、あおってくるよな」


「えっ? そん……」


 一瞬で余裕がなくなってしまったから、その続きを最後まで言いきることはできなかった。





 * * *





「結局、ほとんど、観光もできなかったよな」


「うん。でも、ゆっくり過ごせて、よかった」


「全然、ゆっくりなんて過ごせてない」


 すねたように、そう言う錬太郎くんとも、あと数分でお別れ。次に会えるのは、いつになるだろう?


「忘れ物ないか?」


「多分、大丈夫」


 また、寂しくなる。でも、たくさん力をもらえたよ。


「そろそろ、乗った方がいい」


「……うん」


 名残惜しいのを我慢して、新幹線に乗り込む。


「今度は、沙都と小日向くんも、誘ってみようかな」


 まだ開いた状態のドアの前で、言ってみた。


「いらない。それにしても、陽のやつ……」


「小日向くんが、どうかした?」


「いや」


 そこで、錬太郎くんは、視線をそらしたんだけれど。


「何? どうしたの? 気になる」


「……この前、電話で話したとき」


 ふてくされた表情で話し出す、錬太郎くん。


「あいつ、波流とホテルに行ったとき、波流が恥ずかしがって、大変だったとか言うから。あと、波流は着痩せするタイプだとか。だから、てっきり……」


「それは……!」


 小日向くん、冗談にも程があるでしょ?


「その……部屋には入っちゃったけど、最後までとかは、全然。本当だよ?」


「いや。それは昨日、なんとなくだけど、わかった。大丈夫」


「う、うん」


 また、昨日、ずっと錬太郎くんと部屋にいたことを思い出して、顔が熱くなる。


「あ」


 無情にも、新幹線の発車のベルが鳴り響く。


「……またね、錬太郎くん」


 やっぱり、どうしても泣きそうになるけれど、涙をこらえて、錬太郎くんに笑顔を向けた。


「波流」


「何?」


「絶対、こっちの大学、受かれよ」


「…………」


「返事」


「はい!」


 とっさに大きな声を上げたら、そこで、ちょうど目の前のドアが閉まった。


 待っててね、錬太郎くん。来年の春、絶対、驚かせてみせるからね……!





 fin



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