壊れるほどの愛を、君に

壊れるほどの愛を、君だけに・前編



「日菜、です」


 父さんに促され、やっとのようすで名前を告げると、不安そうに父さんの陰に隠れようとする、同じ歳くらいの女の子。


「心配しなくていいよ」


 歩み寄ると、ビクリと体を震わせた。


「可愛いね、日菜は」


「本当……?」


 おずおずと顔を上げる、日菜。


「本当だよ」


 見逃さなかった。きっちりとゴムで結わかれたつややかな髪も、眼鏡の奥からのぞく、見たこともないほど透き通った瞳も。


 でも、何よりも心を引かれたのは、周りの草木や小動物、自分たちよりも弱い存在のものに向けられる、その優しい眼差しだったんだ。


「妹だと思って、可愛がってあげなさい」


「うん。もちろんだよ。これからは、日菜のこと、ぼくが守ってあげるよ」


 うれしそうな笑顔が日菜に広がる。日菜が弱い立場にいることは、子供心にわかった。でも、日菜を妹だと思ったことなんて、一度もない。妹だなんて、思えるわけがなかった。出会ったその日から、ずっと。





「ほら、こっち来るなよ。眼鏡ブス」


「悪いんだあ。日菜ちゃんばっかり、かわいそう」


 くせっ毛と、眼鏡をかけているというだけで、日菜を見下す同級生。自分だけが日菜の可愛さ……いや、綺麗さを見抜いていることに、優越感を抱いていた。


「行こう、日菜。何も気にすることなんてないから」


「……うん」


 手をつないでやると、俺を見上げて、うれしそうに笑う日菜が好きだった。内心、ドキドキして、胸が苦しいくらいに。


「何だよ、蒼太。いつも、くっつきすぎだぞ」


「そうだよ。妹だからって、そこまでかばってあげることないのに」


 俺が守ってやることで、特に女子の連中からの日菜への風当たりは、ますます強くなった。でも、日菜に手を出したやつのことは許さなかったから、そのうち、誰も何も言わなくなった。


 俺は俺で、なんとなく輪の中心にいて、それを少し離れたところで日菜が見ていたり、気がつくと近くにいたり。


 幸せだった。日菜に信頼されて、愛されて……もちろん、“兄”としてだけど。でも、父親に育てられたことのない日菜にとって、俺は初めての異性の身内だから、日菜にとっては当然の感情だし、俺もそれで満足していた。


 いつからだろう? そんな日菜に、いらちを覚えるようになったのは。


「今日もクラスの子に言われちゃった。わたしと蒼ちゃんは、本当の兄妹じゃないって」


 俺が四月生まれで、日菜は三月生まれ。理論上は、兄妹でもおかしくない誕生日。


「勝手に言わせておけばいい」


 一応、表向きは普通の兄妹として育てられていた、俺と日菜。


「なんで、わたしと蒼ちゃんは、本当の兄妹じゃないんだろう?」


「…………」


 日菜の悲しそうな表情に傷ついた。まだ、恋という感情を日菜が知らなかった頃の話だ。





 そう。あれは、中学に入学する直前のことだった。全て、そのタイミングだったんだ。


 体も成長し、子供ができるしくみを理解して、そして、気がついた。日菜と、自分の父親の顔に、どこか共通点があること。つまり、それは、自分が好きな女の子が、半分血のつながった妹かもしれないということなのだと。


 この先も、日菜以外の誰かを好きになるなんて、考えられないのに ————— 。


「何してるの? 日菜」


「庭のマーガレット、少しだけもらうの」


 ごめんね、と花に謝りながら、数本摘み取ると、持っていたリボンを器用に結んで、日菜は小さな花束を作った。


「そっか。今日は、日菜の本当のお母さんの命日だったっけ」


「うん」


 申し訳なさそうに、日菜がうなずく。 俺の母親がいい顔しないのを、わかっているからだ。


「行こう。今から行けば、夕方には帰ってこれる」


「でも……」


「一年に一回くらい、会いに行ってあげなくちゃ、日菜のお母さんがかわいそうだ。きっと、待ってるよ」


 何より、それを口実に、子供にとっては長い旅を日菜とするのが、自分自身の楽しみでもあった。


「……ありがとう、蒼ちゃん」


 日を追うごとに、さらに綺麗に笑うようになっていく、日菜。この日菜が妹だなんて事実、どうして、今さら突きつけられるんだ? もう、遅すぎる。


 帰り道、俺と日菜しか乗っていなかったバスの中で、気づいたら、衝動を抑えることができなくなっていたんだ。隣の席でよく眠っていた日菜の唇に、キスしようとしていた。あと一秒、日菜の目が開く気配を感じとれずにいたら —————— 。


「蒼……ちゃん?」


 何も気づかないでいた日菜は、目を覚ますと、不思議そうに俺を見ていた。妹なのに。日菜は、血のつながった妹なのに。


「蒼ちゃん」


 罪悪感と、これから自分はどうなってしまうんだろうという不安で口がきけなくなっていた俺のことを、何の疑いもない瞳で見上げて、そっと日菜は笑った。


「今日は、ありがとう。蒼ちゃん、大好き」


「…………」


 いつの日か、日菜をめちゃくちゃにしてしまうんじゃないか。そう、自分で自分が怖くなった瞬間だった。


 この日を境に、俺は意識的に日菜と距離を置くようになる。それでも、日菜への想いはなおさら募る一方で、次は距離を置くどころか、突き放し、傷つけた。


 いっそ、顔も見たくないというほど嫌われたいのに、強い日菜は、いつまでも笑顔しか見せなかった。今にも泣きそうに、体を震わせてるくせに……いつか、昔みたいな関係に戻れると信じているんだろう。


 俺にとって、何よりも残酷な日菜の笑顔は、同時に、気が狂いそうになるほど愛しくて。日菜自身は何も悪くないのに、自分を苦しめ続ける日菜を憎らしく思うことさえあった。





 そんな、何もかもが限界に達しそうになった頃、同じクラスだった音楽好きの男に、高校の受験勉強の息抜きにと、ある場所に誘われた。


 ライブハウス —————— それが、自分の中で、何かが変わった瞬間だった。


 バンドに対して、特に興味を持ったこともなかったけど、目の前にいる自分と同じ歳くらいのやつらに、こんな演奏ができるのかと衝撃を受けた。


 英語の歌詞は、洋楽のコピーなんだろうか。ジャンルはわからないけど、ポップな曲調のわりに、ルックスや態度は少し攻撃的で、観客すら寄せつけようとしない雰囲気。


 でも、人目を引く女みたいな顔のボーカルと、終始だるそうな表情で完璧なギターを弾く赤い髪の男……そんな二人を見ていたら、今までの自分が急に子供じみて感じられたんだ。


 俺も、あっちの世界に行ってみたい 。とりあえず、ギターとMTRを買って、なんとなく、すでに頭の中で出来上がっていた曲を、一人で形にしていく作業に没頭した。ときには、図書館に行くふりをして、スタジオも使ったりして。


 いつも、どんなときも、日菜への想いがあった。よく思い出すのは、俺が日菜を意識し始めた頃から日菜が庭で摘んでいた、質素な花束。


 いっそ、日菜に恋心を感じないまま、一生が過ぎた方がよかったのだろうか? いや、それはない。どんなに苦しくても、日菜へのこの想いがあるからこそ、俺は俺なんだ。曲を作っていると、そんな気持ちになれた。


 そして、その後の当然の流れとして、曲がいくつか溜まってくれば、いつか見たあのバンドみたいに、ライブというものをやってみたくなる。ギターは地道に練習して、自分のやりたい音楽をやるのに困らないくらいには、弾けるようになった。


 高校に入ると、軽音部でベースをやってる三上と、ドラムの山口に声をかけてみた。俺が作ったデモを聴かせてみたら、一緒にやってくれると言う。部室を借りて練習してみたら、思っていた以上の演奏レベルに驚いた。


 ライブなんて、すぐにでもできそうだ。ただ、人前で自分が歌うことは、できれば避けたかった。自身の全てをさらけ出すことに、さすがに抵抗を覚えたから。


 どうしたものかと、一人でいらちながら、いつかのライブハウスで時間をつぶしていたら。


「あ」


 壁で俺の隣にもたれかかり、タバコに火をつけた男の顔を見て、思わず声を上げた。忘れもしない、あのバンドのボーカル……。


「え? 何?」


 それが、海老名だったんだ。





「うん。いいよ、歌っても」


「え?」


 俺のiPodのイヤホンを耳から外し、あっさりと答えた海老名。しかも、最初の印象どおり、歳は同じだという。


「いや、そんな簡単に……だって、あのバンドは?」


「つまんないやつしか、いないもん。どうせ」


 予想外の反応に、面食らう。


「そう? でも、あのギターのやつとか」


 無表情で飛び跳ねてた、ちょっと普通じゃない感じの、あの赤い髪の。


「折り合いが悪くて、やめさせられちゃった。で、もう、他のやつとバンドやるらしいし」


「へえ。そうだったんだ」


 俺には、願ってもない話だけど。


「ねえ」


 女みたいな顔に、のぞき込まれる。


「え?」


 やっぱり、妙に色気のある男だ。


「どうしたら、こんな曲が書けんの?」


 どうしたらって。


「いや……勝手に浮かんでくるっていうか」


「ふうん」


 いきなり、心の中にまで踏み込まれたようで、ドキリとした。でも、ともかく、海老名と歌ってもらえるなんて、幸運なことだ。自分には歌うことのできない、音に封印した日菜への気持ちを、中途半端なやつに歌われるのは嫌だったから。


「その代わり、俺にギターも教えてよ。俺も、蒼太くらいとは言わないけど、少しは弾けるようになりたい」


「いいよ、もちろん」


 一度、こっちに気を許すと、海老名は人懐っこいし、言い難い魅力のある男だった。いいバンドになると確信し、気持ちも上がった。


 ————— でも、すぐに後悔したっけ。俺自ら、日菜を海老名と引き合わせてしまったんだから。


 はっきりと覚えている。日菜の意識の先が、俺から海老名に移った日のことを。





「あーあ」


 ライブ前の控え室で、何度もため息をついた。


 数ヶ月後には、小さめな会場でライブをやってもマイナスは出ないくらいには、客を集められるようになっていた。このまま、自分の意識を日菜からバンドに移すんだと、俺自身に言い聞かせていた時期だったように思う。


「しつこいよ、蒼太」


 他人事だと思って、おかしそうに笑う、三上と山口。


「あのエフェクター、今日のために買ったのに」


 玄関に置いてくるなんて、俺は何をやっているんだ?


「だからって、親にまで電話する?」


「ベースとドラムに、この気持ちがわかるか。やっぱり、取りに帰る」


 どうしても、あきらめきれない。


「え?」


 そこで、ずっと興味なんかなさそうだった海老名が、顔をしかめる。


「リハーサル、どうすんの?」


「多分、間に合うよ。それに、少しくらい遅れても、どうにかなるだろ? 」


「嫌だ」


 そう言って、女みたいに口を尖らせる海老名は、男の俺をも妙な気分にさせる。


「何、子供みたいなことを言ってるんだよ?」


「ここのPAの男、嫌い。蒼太が対応してよ」


「くだらない。とにかく、俺は家に戻る」


「どっちが子供っぽいんだか」


 三上と山口の笑い声を背にして、ライブハウスを出てきた。中身は幼稚園児なくせに、常に複数の女を相手にしてるような海老名の危うさは、俺には無い、生まれ持ってのフロントマンの資質だと思う。


 このイロイッカイズツというバンドにとって、海老名の存在は、なくてはならない、ありがたいものだ。ある意味、うらやましくもある。


「…………」


 人知れず、ため息をついた。日菜には、絶対に会わせたくない。そんなことを考えてしまうあたり、あいつらの言うとおり、俺も相当子供じみているんだろうけど……と、そこで。


「日菜?」


「あ……」


 ちょうど、改札の真ん前。まさに、その日菜がすぐそこにいた。動揺を悟られまいと、視線を斜め下に落とすと。


「……ああ、それ」


 日菜が大事そうに持っていたのは、例のエフェクターだった。


「今、取りに帰ろうと思ってたところ」


「あ……そっか」


 申し訳なさそうに、日菜が反応した。


「よけいなことをちゃって、ごめんなさい」


 ひさしぶりに、こうして面と向かい合うと、俺が日菜をおびやかす存在でしかないことを、改めて思い知らされる。


「じゃあ、これ」


 紙袋を差し出す手も震えている。


「……ああ」


 受け取ったら、やっと安心した表情を見せた、日菜。


「じゃあね、蒼ちゃん」


「日菜」


 思いがけず、改札の中に戻ろうとする日菜を呼び止めてしまった。


「何? 蒼ちゃん」


 レンズ越しでもわかる、日菜の綺麗な瞳が、無防備に俺を見つめた。


「ありがとう。助かった」


「……ううん」


 数年ぶりに見た、日菜の無邪気な笑顔は、あの頃の何倍も俺の胸を締めつけた。だけど、本当の俺を知ったら、そんな表情は二度と見せないだろう。さっき、ほんの一瞬触れた指先に、狂いそうなほどの欲望を感じた俺のことを。


 ————— そして、この日を境に日菜は変わった。もっとも、その理由に気づいたのは、少し先のことだけど。海老名が、恋の感情を日菜に持ち込んだんだ。





「日菜?」


 ライブハウスの中で、髪を解いた裸眼の日菜をひさびさに見た衝撃。日菜には、わからないだろう。


「……ごめんなさい」


 やっぱり、怯えたように、目を伏せる。


「え? どういうこと?」


 日菜の隣で、不思議そうにしてる三上と、俺の後ろには海老名。


「……妹、だよ」


 つまり、この中で男として日菜に触れられないのは、俺だけということ。忌々いまいましいような気持ちで、つぶやいた。


「え? 蒼太の妹?」


 大きな声を上げながら、上から下まで日菜をながめる三上に、無条件に嫌悪感を覚える。


「蒼太は隠してたっぽいけど、どうやって調べたの?」


 そんな目で、日菜のことを見るな。思わず、口から出そうになった。


「それは……」


 うつむいたまま、小さな声で日菜が三上に答える。


「お父さんが昔よくやってたゲームに、そういう暗号が出てきたから」


「…………」


 日菜に覚えられていた。俺の気持ちを見透かされたんじゃないか。内心、そんな焦りで、いっぱいだった。


「へえ。そういうことだったんだ」


「帰れよ、日菜」


 ニヤニヤしている三上にも気が障って、大人げなく、日菜を突き放そうとしたときだった。


「……嫌」


 思いがけない言葉を、俺は聞いた。


「海老名くんの歌を聴くまで、帰らない」


 明らかに何かが変わった日菜の心に、海老名がいた。受け入れたくない現実に直面した瞬間だった。



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