世界が変わった、そのあとは【錬太郎編】
————— いよいよ、明日だ。
日付を確認して、いつもの自分じゃないみたいに、ドキドキする。そう、明日。波流が、この部屋に泊まりに来る。声を聞くだけで我慢していた波流に、やっと会えるんだ。
片付いてるよな? 見られたら困るようなものも、何もないはずだけど……だめだ。浮かれてるのか何なのか、平常心でいられない。
でも、当然だ。もう、二度と会えないつもりでいた。そして、俺のことを好きであるはずがないと思っていた波流と四日間、二人だけで過ごせるんだ。
電話なんかじゃ、全然足りない。だいたい、顔も見ないで、肝心な話ができるわけもないし。
だけど、内心、断れられるんじゃないかと思っていた。やっぱり、波流がこの部屋に来るなんて、まだ信じられない気がする。と、そこで、携帯が鳴る。かけてきたのは、陽だ。
『ひさしぶり、錬太郎』
「そうでもないだろ?」
週に一回は、陽の声を聞いているような。
『冷たいじゃん』
「何が」
人懐っこい陽の調子に俺が合わせることはないけれど、こうして、週末になると電話をしてくることは、素直にうれしい。
陽のことも、波流と同じように、俺は気づいてやることができなかった。沙都から、陽と陽の母親との関係を聞かされたとき、何も知らずにいた自分が、もどかしくてたまらなかったっけ。
でも、いつだったか、俺がいてよかったと、陽に言われたことがある。陽は強い。俺が陽なら、きっと、そんなふうに思えなかったはずだ。周りを妬んだり、もっと醜い気持ちを抱くだろう。
最初の頃は、何を考えているのか全然わからないヤツだったけど、俺と陽は、ある意味、憧れに近い感情をお互いに持っているのかもしれない。
……そうは言っても、陽と波流の間にあったことを想像すると、また別の話になるけれど。
『錬太郎、聞いてる?』
「え? あ、悪い。何?」
陽の声で、我に返った。
『明日から三日間、急に有給取らされることになったからさ。会社都合で』
「ああ」
明日か。また、波流の顔が思い浮かぶ。
『そっち、行っていい? 沙都は、家族でお父さんの実家の九州に泊まりに行くらしくて。せっかくの休みなのに、暇なんだよね。いいでしょ?』
「いや、よくない」
気がついたら、即答していた。
『なんで? たまには、沙都抜きで……』
「なんでも。とにかく、予定が詰まってる」
なんとなく、波流の名前は出さないでみたけど。
『……ふうん』
不服そうに、小さくつぶやく、陽。
『何? 皆川さんが来るの?』
「いや、まあ。うん」
べつに、恥ずかしがることもないか。でも、どうも、こういうことを陽と普通に話すのに、まだ慣れなくて……と、そこで。
『いいこと、教えてあげるよ』
何やら、含みのある口調。次の瞬間、思いもよらない言葉を発せられた。
『皆川さん、着痩せしてるけど、脱ぐとすごいから。期待しときなよ、錬太郎』
「あ?」
頭の中が真っ白になる。
『でも、苦労するかもね。ホテルに行ったときも、恥ずかしがっちゃって、大変だったから。それはそれで、可愛かったけど』
「おまえ、何言って……」
『じゃあね。健闘を祈っといてあげる』
「おい、陽! ふざけんな」
そこで、一方的に、電話を切られた。
「あの、バカ」
思わず、携帯をベッドの上に投げつけた。
就職してから、それまでの分を取り戻すかのように、子供っぽくなった陽。でも、いくら面白くなくても、言っていいことと悪いことの区別くらい、つくだろ? 波流とのこと、わかってはいたけど、俺の気持ちも少しは考えろよ。
しばらく、
向こうにいる間、朝から夕方まで工場で働いて、帰ってきたら、自分の分の食事を用意していたという波流。そんな生活で、受験勉強に身が入るはずもない。さらに、たまに顔を合わせるのは、かつて「いらない人間」と波流に言い放った、あの母親。
————— あのとき、波流が東京を離れることをわかっていたのは、陽だけだったんだよな。行き先が岐阜だという話も、波流本人から聞いていたという。
ちなみに、俺が今通っている大学を選んだのは、「皆川さんは、関西の方に住むみたいだよ」という当時の陽の言葉が、ずっと頭に残っていたから。岐阜県は東日本で、中部地方じゃないか。
今回、そのことを陽本人に少し愚痴ったら、「皆川さんのことは普通に好きだけど、あんまり興味はなかったから。ごめん」という答えが返ってきた。なんて、適当なヤツなんだ……でも、そんな陽を恨むわけにもいかない。
陽だって、自分のことで、精一杯だったんだ。陽の受けてきた傷は、波流以上に奥深いはずだ。
きっと、お互いに連帯意識を抱いていた、波流と陽。ちゃんと、わかってはいる。いや、俺なんかに、その痛みが理解しきれるわけがないことも。でも、やっぱり、悔しい。陽の方が、ずっと波流の近くにいたことが。
ホテルって、いったい、いつ行ったんだろう? 最後の別れ際だったのか、それとも、その前にも何回か?
「あー、モヤモヤする」
本当に、自分の人間の小さいことを自覚する。そして、欲望の深さも。まあ、でも……と、俺に会うのが楽しみだと言った、数時間前の波流のうれしそうな声を思い出す。
波流と陽の出会いには、やっぱり、運命を感じずにはいられない。でも、運命なんて、いくらでも変わっていくものだから。いや。俺が変えてやったんだ。絶対に、離してなんかやらないから。遠くに離れていても、心だけは絶対に。
————— たまには、くだらないケンカくらいは、することもあるかもしれないけど、ね。
fin
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