壊れるほどの愛を、君だけに・中編
あれから、心がざわついて、よく眠れない。今日も変な時間に目が覚めたまま、再び眠りにつけなくて、階段を下りていくと。
「蒼ちゃん」
洗面所の鏡の前で、気まずそうに、日菜がコンタクトのケースとブラシを隠していた。
「ごめんね。うるさかったかな」
振り向いた日菜の顔は、まともに見れない。薄暗いライブハウスの中と違って、朝日で透けるような肌まで際だっていた。
「……今さら、どういう風の吹き回し?」
「どういうって……」
まただ。俺は、日菜を傷つける。
「高校にも入ったし、髪型とか、もう少しかまった方がいいかなって」
日菜が自分の容姿にコンプレックスを持ってることも、わかってる。それなのに。
「三上の言うこと、まともに受け取ってるんだ?」
「そういうわけじゃ……」
日菜の顔が泣きそうに歪む。自分が手に入れられないのならと、日菜を日の当たらない場所に追いやったままにしようとしている、最低な俺。当然のように、その天罰が下される。
「……髪も眼鏡も」
恥ずかしそうに、小さな声で日菜は続けた。
「海老名くんが、変だって」
一生懸命、俺に説明しようとする日菜。
「海老名くんとは、学校もクラスも一緒で、席まで隣なの。だから、蒼ちゃんにも、少しでも恥をかかせないように……」
半分は、本当なんだろうけれど。
「日菜が海老名に入れ込んでるのは、わかったよ」
「ちが……」
赤みの差した頬を見れば、一目瞭然だ。
「でも、その髪を見て、母さんの機嫌がどうなるかくらい、わかるだろ?」
有無を言わせない横暴。そして。
「その目も」
俺は、さらに追い打ちをかける。
「年々、似てくる。父さんに」
「そんな……」
でも、追い打ちをかけているのは、日菜以上に、自分自身に対してなんだ。部屋に戻って、海老名の歌う自分たちの曲を聴いた。
イロイッカイズツ。このバンドの名前にも、曲にも、俺の全てが詰まっている。皮肉なものだ。これを歌う海老名に、日菜が惹かれるなんて。それでも、ここにしか、俺のはけ口はない。
いつかのライブ終了後、ライブハウスの通路で、明らかに酔った勢いで日菜にキスしていた海老名に手を上げなかったのは、日菜の海老名への気持ちが痛いほどわかったから。
嫌だと言って、海老名を突き飛ばした、日菜の切なげな目。あんな瞳を他の男に向ける日菜なんて、最も見たくなかった。
「ただいま」
いつものように、重い気持ちで家のドアを開けると。
「おかえりなさい」
ある日、玄関で俺を出迎えたのは、日菜だった。
「ご飯、すぐ食べる?」
「え?」
俺が動揺してることに、気づきもしない日菜。
「今日、甲府の叔母さんが倒れたって。それで、お母さんとお父さん、明日まで帰らないから……」
「……ふうん」
何も悪くないのに申し訳なさそうにしている日菜を横目に、子供じみた悪態をつく。
「女でも呼ぶかな」
「……蒼ちゃんが、そうしたいなら」
「嘘だよ」
すぐに、目をそらした。
「せっかくだから、日菜の好きな海老名とか呼んで、ミーティングでもするよ」
「蒼ちゃん、わたし……」
こんな日菜と二人だけでいたら、どうなるかわからない。結局は、あいつらを呼ぶしかないんだ。みんなが来たあとは、何だかんだと気分も乗り、仮レコーディングや他の作業に熱中していた。
「あいつは?」
編集作業の途中で、海老名の姿が消えていたのに気づいたのは、午前1時を回った頃。
「日菜ちゃんの部屋じゃないの?」
スマホをいじりながら、三上が答える。
「まあ、いいんじゃん? 歌入れ、済んでるし」
山口も、ミックスの方に夢中。
「まあ……な」
海老名を呼び戻す理由が見つからない。
「水、飲んでくる」
とりあえず、頭を冷やしてこよう。そんな思いで、キッチンに向かう途中。
「…………」
リビングのソファで眠っている、日菜が見えた。無防備なパジャマ姿で深くソファに寄りかかって、少しずり下がった眼鏡が、いやに男心をくすぐる。
「日菜」
疲れているのか、呼んでも反応すらない。同じ家の中に、これだけ男がいるっていうのに、何をやってるんだよ? だけど。
「日……」
もう一度、日菜を起こそうとして、ためらった。幸せそうな寝顔。きっと、海老名のせいなんだろう。こんな表情、いつもの日菜からは考えられない。
「……おやすみ、日菜」
隣の部屋から毛布を持ってきて、日菜の体を隠すように、そっとかけた。
「蒼太」
まだ、日菜も帰ってきていない、ある日の夕方。
「何?」
部屋でまどろんでいたら、母さんの声で起こされた。
「家の前にね、あなたの学校の制服の女の子がいるのよ。さっきから」
「え?」
カーテンを開けて、外を確認してみると。
「知ってる子?」
「ああ、同じクラス。出てきてみる」
何の用か知らないけど、隣の席の三浦だ。
「可愛らしい子じゃない。あなたに気でもあるんじゃないの? そうよ」
うれしそうにはしゃぐ母親を無視して、階段を下りていく。わけがわからないな……と、ちょうど、そこでチャイムが鳴った。
「はい」
「きゃ……!」
突然開いたドアに驚いたのか、玄関の前で声を上げ、のけぞっているのは、やっぱり三浦。
「どうし……」
「ご、ごめんなさい」
恥ずかしそうに体勢を立て直すと、三浦がペコリと頭を下げた。
「あの、これ」
「え?」
何やら、差し出された。
「明日提出の進路希望調査のプリント。宮前くんの分まで、間違えて持ち帰っちゃったみたいで」
「ああ。いいのに、そんなの。こんなところまで、わざわざ……」
「あらあ、親切に」
そこで、よけいなのが顔を出す。
「あ……宮前くんのお母様ですか? すみません。突然押しかけるようなこと」
「とんでもないわ。助かったわよねえ? 蒼太。そうだわ、こんな玄関先じゃなくて、お茶でも飲んで行って。ね?」
「いえ、そんな!」
恐縮するように首を振る、三浦。だよな、引くよ。
「だめよ、蒼太のために来てくれたのに、ここで返せないわ。ちょうど、おいしいお店のお菓子をいただいたの。ね、一杯だけ。紅茶とコーヒー、どっちがいいかしら?」
「あ……じゃあ、紅茶を」
「とっておきを用意するわね。蒼太、早くリビングの方に」
「本気で言ってんの? ごめん、三浦。帰っていいから。お礼は、また明日にでも」
いい迷惑だと思って、三浦を解放するつもりでいたんだけど。
「ううん。ご迷惑じゃないなら、少しだけ……」
と、その流れから。
「すごい! おいしいです」
なぜか、夕飯まで一緒にとることになっていた、三浦。
「…………」
見ろ。日菜が所在なさげにしてる。いや、わざとか。自分の母親ながら、あからさまな日菜に対する態度の悪さに、吐き気がする。しかも、とどめをさすように。
「それにしても、本当に綺麗な髪ね。手入れが行き届いて」
日菜が部屋を出る直前、そんなことまで三浦に口にした。
「そんなこと……でも、ありがとうございます」
そこで、チラリと俺を見た三浦の表情にも
「日菜」
気がつくと、日菜を追いかけていた。
「……蒼ちゃん」
振り返った日菜の姿を見たら、改めて、運命を呪わずにいられない。
「ごめん、蒼ちゃん。わたしのせいで、雰囲気が悪くなって」
昔みたいに、日菜の髪は綺麗だって、抱きしめて……いや、手を握ってやれたら。ただ、それだけで、日菜を救えるのに。
「その髪……」
せめて、何か一言、伝えてやりたかった。なのに。
「蒼ちゃんの考えてることは、わかってる」
「日菜、俺は……」
俺の思いを取り違え、寂しそうに目を伏せた日菜に、反論しようとすると。
「海老名くんが、嫌じゃないって言ってくれるから。それでいいの」
また、俺の知らない顔を見せられた。
「もう、いいの。だから、わたしは……」
「何を浮かれてるんだか、知らないけど」
「蒼ちゃん?」
「海老名が、日菜を本気で好きになるとは思えない」
海老名がまともに女を好きになると思えないのは、本当のことだった。あいつの乱れた女関係は、周知の事実だ。こんな言い方、するつもりはなかったけど。
「蒼ちゃんには、関係のないことだよ」
日菜らしくない強い言葉は、自分を精一杯保つためだとも、わかってる。それでも。
「なら、俺が言うことは何もない」
余裕がないんだ。海老名に向いてる日菜の気持ちを、これ以上見せつけられるのは無理だ。
「…………」
泣いている以上に悲しそうな目で、俺を見上げた日菜。いたたまれなくなって、母さんと三浦のいるリビングに戻った。日菜を悲しませてる。でも、俺がそれ以上の痛みを感じていることを、日菜はいつか知るのだろうか?
三浦と他愛のない話をして、頭を冷やすと、三浦を駅まで送りに外へ出た。帰り際、俺を好きだと言った、三浦。
三浦が俺の彼女にでもなれば、あの母親も満足して、日菜への態度も少しは和らぐかもしれない。ただ、それだけのために、三浦の想いを受け入れた。後々、それを死ぬほど後悔することになるとも知らずに —————— 。
それは、本当に突然、決まったことだった。
「週末、また叔母のところに行くことになったのよ」
自分の友達でもあるかのように、三浦を夕食に呼ぶ母親。面倒ではあったけど、思ったとおり、日菜への悪意から多少は気がそれているようだ。三浦も扱いが上手で、「大変ですね」と、気遣うような表情で母親を見た。そのときだった。
「花音ちゃん、泊まりにきてくれない?」
「えっ?」
突拍子もない母親の提案に、俺も三浦と一緒に声を上げそうになった。日菜は、どうしていいかわからないといったふうに、固まっている。
「いったい、何を考えてるんだよ?」
とにかく、冷静に対応しようとしたものの。
「やっぱり、だめかしら? そんなにしょっ中、蒼太と日菜が二人きりになるのもどうなのかと思って」
自分の母親ながら、考えることの汚さに吐き気がしてきた。
「わたしなら、全然大丈夫です。うち、放任主義ですし。お手伝いしにきます」
母親と三浦に、断れない状況を作り上げられた。
「ごめん、三浦」
「ううん」
うれしそうな三浦にイラつく気持ちを抑えて、ため息をつく。三浦は悪くない。そう自分に言い聞かせて、三浦への嫌悪感を顔を出さないように我慢した。
「じゃあ、花音ちゃん。蒼太のこと、お願いね」
「はい。お母さんも、お気をつけて」
その日は、すぐにやって来た。
「夕食の準備でもしちゃおうかな」
エプロン持参で来た三浦が、早速キッチンに向かおうとする。いつも、三浦にも悪いとは思っている。
「いいよ。少し、ゆっくりしてろよ」
「ううん。蒼太くんは、部屋で待ってて。わたしに任せて」
そのとき、チラリと日菜を見ると、手伝いたそうに、三浦のようすをうかがっているのがわかった。
「じゃあ、部屋にいる」
「うん! 期待しててね」
日菜が、友達という友達と一緒にいるのを、まだ見たことがない。でも、人懐っこい三浦となら、和やかに話もできるかもしれない。そんなのんきなことを考えながら、階段を上ると、ベッドに寝転んで、小さくため息をついた。
正直、助かった。部屋で二人きりになったときの三浦の物欲しそうな目には、食傷気味だから。
何も悪くない三浦に対して、ひどいこと考えているとは自分でも思う。いっそのこと、三浦を今夜抱いたりしてみたら、日菜への想いも少しずつ……と、そこまで思考をめぐらせ、思わず苦笑いした。
そんなこと、できるわけがないのに。日菜が隣にいる部屋で、そんな汚いことが、俺にできるはずがない。
「ごちそうさま」
微妙な空気の中、夕飯を食べ終えた。何がどうというわけではないけど、明らかに、話が弾んでたという雰囲気ではない。後片付けを日菜に任せて、三浦と部屋に戻ると。
「蒼太くん」
甘えるような声で、腕に手をかけられた。
「……手の凝った料理、ありがとう。風呂、入ってくる」
「うん」
いやに満足げな笑顔。
バスルームに向かいながら、考えた。なんか、三浦って、あの母親に似てるのかも。さっきみたいな、ふとした表情とか、周りから固めていこうとするところとか。だからこそ、あんなに気に入られてるのか……。
ドアのすき間から、丁寧に食器の汚れを流している日菜が見えた。今も、海老名のことを考えているんだろう。俺ではなく、海老名に心の中で助けを求めて。
「蒼太くん」
風呂上りで、少し髪が濡れている三浦が、俺の部屋のドアを開けた。
「今日は、お疲れ様。いろいろ気を遣って、疲れただろ?」
「全然だよ。ね、バスルーム、掃除しちゃっていい?」
「え?」
ながめていた雑誌を閉じて、顔を上げる。
「いや。だって、日菜がまだ……」
「日菜ちゃんなら」
三浦が、無邪気な笑顔を見せた。
「友達の家、泊まりに……蒼太くん?」
その場で部屋着を脱ぎ、外へ出る準備をした。友達の家だなんて、嘘に決まってる。
「寝てていいから」
「蒼太くん……!」
もう、日菜のことしか、頭になかった。当てもなく、とにかく家を飛び出した。電話もつながらない。
「日菜……」
どこにいる?
「日菜!」
それこそ、バカみたいに走り回った。とてもじゃないけど、じっとしてなんかいられない。どれくらい、外にいたのか。
「日菜」
「蒼、ちゃ……」
最寄り駅のホームで日菜を見つけたのは、明け方になってからだった。日菜の顔がいやに青白く映って、なんだか、割れて壊れてしまいそうだった。
「ごめんね、蒼ちゃん……」
こんなときでさえ、きつい言葉しか、かけられない俺に。
「ごめんなさい……蒼ちゃん」
必死で謝る日菜が、たまらなく愛しくて、狂いそうだった。
このとき、日菜がどんな目にあっていたのかは、後に知ることになる。初めて、理性を失うくらい、俺は人を殴った。でも、どんなに三上を痛めつけても、日菜の傷ついた心と体は元に戻らない。
むしろ、悪いのは俺の方だ。幼い頃の日菜との約束。何があっても、それだけは守りたかったのに —————— 。
日菜が荷造りをしている。
『十分すぎるよ』
三上との件で停学騒ぎになった直後、そう言って、うれしさに震えた瞳で、俺の手をそっと握った日菜。
俺にも、二度目の限界がきていた。いつか、この俺も、三上と同じことをやりかねない。日菜が母親にひどく当たられれば、当たられるほど、ますます抱きしめてやりたくなって、そのあと、止められる自信もない。
だから、これでいいんだ。日菜のために。
「蒼太。日菜」
父さんが帰ってきたんだろう。廊下に、母さんの声が響く。場違いな、明るくはしゃいだような声。甲府の叔母の危篤を知らせる数分後の電話で、そんな母親の想像はひっくり返ることになったのだけれど。
「本当に、何もないんだな」
「うん」
予想どおりかかってきた、三浦からの電話を一方的に切って、日菜の部屋に入った。
「……最後に、ちゃんと日菜の顔が見たい」
もう、普通に会えないことは、わかっていた。日菜が、二度と俺の家族の前に現れるつもりはなかったことを。だから、目に焼きつけておきたい。俺の全てだった……いや、これからも俺の心から消えることのない、日菜を。
そっと眼鏡を外して、ずっと直視できなかった、日菜の瞳を見つめた。初めて会ったときと、変わらない色と光だった。柔らかい髪も、全て昔のまま。
「大好きだったのに」
「蒼ちゃん?」
その髪を、ゆっくりと撫でた。
「この髪と同じくらい……いや、日菜の目が、いちばん好きだったのに」
口にするだけで、苦しい。でも、自分に言い聞かせるために、あえて続ける。
「どう見ても、父さんと同じだよな」
「…………」
日菜も俺を見ていた。まっすぐに。そして、わかったんだ。日菜も俺と同じ気持ちでいることが。
「蒼ちゃん……!」
震えながら、出て行こうとした俺のシャツの袖を、ギュッとつかんだ日菜。二人とも、精神状態がおかしかったのかもしれない。でも、決して、禁忌を犯しているという背徳感から、お互いの気持ちが盛り上がったわけじゃない。
「日菜……」
ただ、純粋に好きだという想いに、突き動かされたんだ。
「夢みたいだ」
言葉どおり、夢にまで見た、日菜の肌の感触。
「わたし、も……」
切なげな、でも、幸福に満ちあふれているのがわかる日菜の声が、俺をさらに欲情させる。
「好きだよ、日菜」
何度言っても、言い足りない。
「蒼ちゃん、好き……」
痛みをこらえながら、必死で俺にしがみつく日菜を抱きしめ返して、俺は思った。
今、こ の 瞬 間 に 世 界 が 終 わ っ て し ま え ば い い
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