壊れるほどの愛を、君だけに・後編



* * *



「そーうた。めずらしい。よく寝てたね」


「ん……?」


 この声は、たしか ————————。


「なんだ。海老名か」


 日菜だったら、よかったのに。手にしていた参考書を棚に置いて、ベッドから体を起こす。英語の構文を覚えているうちに、眠っちゃってたのか。


「残念だったね、宮前さんじゃなくて。それにしても、よくもまあ、そんなに頑張れるね。入院中に勉強なんて、俺には無理」


「宮前じゃなくて、園田な。おまえらより最短でも三年遅れることになるんだから、無駄にできる時間はないよ」


 あの日の大量の出血のショックで、長い間意識が戻らなかった俺は、二ヶ月前に奇跡的に目を覚ました。


 でも、もちろん、体につながれていたチューブが取れたからといって、すぐに元どおりに動けるようになるわけではない。今はリハビリ専門の病院に転院して、日々学校のようにカリキュラムをこなす毎日。


 園田というのは、日菜の新しい名字。体の状態がだいぶ落ち着いてから、俺が父さんの本当の子ではなかったことを、不安げに俺に告げた日菜。ただただ、うれしくて叫び声を上げた俺を、日菜は心配そうに見ていたっけ。


 結局、父さんの考えで、元々うちの養子だった日菜を、母方の伯母さんの戸籍上の養子にしてもらえたという。心を病み、施設で療養中の母さんだけでなく、血のつながりのない俺まで気にかけてくれている父さんには、感謝してもしきれない。


かなわないね、蒼太には」


「そっちこそ、めずらしいな。たいてい、学校帰りに日菜と来るのに」


 俺を妬かせるために、わざとやってるんじゃないかと思うけど。そもそも、日菜と海老名が同じ大学に通ってるのだって、俺からすれば、わけのわからない状況で、まだ慣れない。


「たまにはね。蒼太と二人だけで話したいときもあるよ」


「そうか? じゃあ、あっちの談話スペースの方に行くか」


 財布を持って、立ち上がる。


「もう、退院も近そうだね」


「ああ。来週くらいにはって」


 俺の意識のない間、日菜がよく関節の曲げ伸ばしをやりに来てくれたこともあって、体があまり固まらずにすんだということだ。それは、担当の先生から聞いた話。日菜の口からは一度も出ていないのが、どこまでも日菜らしい。


「で、何?」


 自販機で買ったコーヒーを渡しながら、単刀直入に切り出す。


「ん?」


「何か、話があるんだろ?」


 バンドの活動だけでなく、それなりに深いつき合いを海老名とはしてきたつもりだから、それくらいはわかる。


「うん……ちょっと、気になってたことがあってさ」


「言ってみろよ」


 この傷ができた経緯や、俺と日菜の関係のこととか、たいていのことは、日菜の話と山口からの情報で知ってるはずだけど。三上の話だけは、今日みたいに日菜がいないとき、海老名の方から、さらりと教えてくれた。


 あいつは、海老名の間接的な知り合いの女の子にも同じようなことをしようとして、そのすぐあとにバイクの事故で死んだという。後味の悪さは感じたものの、因果応報だとしか思えなかった。


「蒼太に誤解されてたら、嫌だなと思うことがあるんだよね」


「誤解? 俺が?」


 意外なことを言う。


「うん。ちょうど、蒼太の意識が戻った日だったかな。宮前さんと話したんだ」


「何を?」


 まだ、俺は、日菜と海老名の間にあったことを全て知っているわけではないし、あえて聞こうとしていないところもある。


「そのとき、宮前さんが言ってたことがね。宮前さんはずっと、俺が蒼太を傷つけるために自分に手を出したんだと思ってたらしいから。蒼太にも同じように思われてたんだったら、嫌だなあって」


「それは思ってない。そんなこと、考えたこともない」


 まさか、そんな話だったとは。


「だいたい、自分が男に普通に好かれる要素がないと思ってるのは、日菜本人だけだし。日菜なんて、近くにいたら、好きにならない方がおかしいよ」


「いや、そこまではいかないと思うけどね。宮前さんって、いろいろ性格が面倒で、疲れるもん」


「おまえに、そう言われると引っかかるけど……それより、俺を傷つけるためって? 俺、海老名に嫌われてたのか?」


 むしろ、そこがショックだよ。


「そんなわけないじゃん。俺と違って、蒼太は何でもできちゃうから、うらやましいと思ってただけ。単純に、いいなあって。それが、ハスネちゃんを通して、変なふうに伝わったみたい」


「そうか? でも、何もできなかったよ、結局。日菜があんなに明るくなったのも、おまえのおかげだし」


 俺は、あの頃、海老名になりたかった。何の苦慮もなく、ずっと日菜の隣にいて、日菜に好かれ、男として日菜を守ってやりたかった。


「それ以上、蒼太に何ができたの? 俺、さすがに、宮前さんのために、蒼太と同じ行動を取れる自信はないよ」


「当たり前だよ。おまえとは、年期と思いの深さが違う」


「知ってる。最初の頃から、気づいてた」


 そう言って、海老名は笑った。今となっては、日菜が他の男に助けを求めて、俺から完全に離れるようなことにならなかったのは、海老名のおかげだと感謝もしているくらいだ。だから、矛盾してもいるんだけど。


「だったら」


「ん?」


 無邪気な目で、こっちを見る海老名。


「……おまえだけは、日菜に手を出さないでくれてもよかったんじゃないか? いくら、全部の事情をわかってなかったとはいえ」


 俺の日菜への気持ちを知っていながら、最低でもキス以上のことはしていたわけだから。


「蒼太だって、彼女いたじゃん。三浦さんだっけ? ライブにも何度か来てたよね。かわいそうにね、あの子も。山口に聞いたら、あのあと、けろっと他の男に行ったらしいけど」


「だろうな。よかったよ、それで……いや、でも、俺が三浦とつき合うことにしたのは、おまえが日菜に手を出したあとのことだからな? 友達がいのないやつ」


「…………」


「何だよ?その顔」


 あきれたような目つき。


「ひどい言いようだね。俺は一応、蒼太は宮前さんを吹っ切ろうとしてるんだと判断したから、宮前さんを本気で好きになっただけなのに」


「そんなの、おまえの勝手な思い込みだろ? 俺は、いつだって……」


「やっぱり、気づいてなかったんだ? しかも、蒼太って、自分の都合の悪いことは忘れるタイプだったんだね。せっかく、一生黙っててあげようと思ってたのに」


「え?」


 何やら、含みのある感じだな。


「蒼太、エビネっていう女に、心当たりあるよね?」


「……あ」


 記憶の隅に残っていた、俺の黒歴史が頭によみがえる。


「覚えてる。覚えてるけど」


 そういえば、あの人は『エビネ』と呼ばれていた。俺がバンドを始めたばかりで、他のバンドのライブにもよく一人で通っていた頃、そのエビネさんにライブ帰りに声をかけられて、そのあと……。


「いや、名前も顔も海老名に似てるとは思ったんだ。でも、海老名とエビネだから、偶然だと……え? どういうこと?」


「どう見ても、顔同じでしょ。姉弟きょうだいでしかないよね。あれは、俺のおねーちゃんで、本当の名前は海老名 音々ねねっていうの。で、エビネ」


「…………」


 だめだ。自分の中でも、何が何だか。


「びっくりしたよ、普通に。勝手に持って行かれた俺のモヘアのセーターを取り返しに音々のマンションに行ったら、蒼太が音々のベッドで寝てるんだもん」


「海老名、あの場に来たのか? あれは……!」


 誤解のないように、ちゃんとここで、状況を説明しておきたい。


「たしかに、エビネさんのマンションに泊めてもらったことはある。調子に乗って、慣れない酒で酔い潰れちゃってたら、エビネさんが声かけてくれて」


 当時、エビネさんといったら、綺麗なだけじゃなく、ベースを弾いているところも格好いい人だったから、エビネさんの方から話しかけられたのが、普通にうれしかったんだ。


「でも、泊めてもらっただけで、何もなかったから」


 正直なところ、部屋で変な気を起こしそうになった瞬間はあったけど、すぐに日菜の顔が浮かんで、どうにか思い止まったんだっけ。で、気がついたら、朝というか昼だった。


「嘘じゃないからな。やましいことはしてない」


「べつに、ごまかさくていいよ。何もなかったとかいう方が、逆に気持ち悪いし」


「いやいやいや」


 それじゃあ、俺が困る。


「ちゃんと、エビネさんに聞いてくれよ。頼むから」


「嫌だよ。どうでもよすぎるし、そこに関わりたくない」


 げんなりした表情で、海老名が息をつく。


「まあ、そうだよな。今さら」


 俺だって、忘れてた話だったのに……いや、意識的に忘れようとしていた話、か。


「今さらだね。蒼太が一人でいい子ぶろうとするから、つい出しちゃった。自分で言うのも何だけど、俺はけっこう、友達には義理堅いんだよ」


 そう言って、今度は首を傾け、口角を上げる海老名。


「……おまえって、大人だな。その件、ずっと俺に言わなかったし」


「だって、蒼太も触れられたくなかったでしょ? あ、気にすることないよ。俺の友達で、もう一人いるから。中学生の頃、音々が手を出したやつ。でも、そっか。大人になっちゃったのかな。宮前さんのおりしたり、生意気な高校生の世話までしてるから」


「それを聞いて、エビネさんのことは、ちょっと気が楽になったけど……生意気な高校生? ああ、イロイッカイズツのベースか」


 日菜がたまに、うれしそうに話してる。ベースの上手な “イケメンくん” が、自分を慕ってくれてるって。


「なついてるんだって? 日菜に」


「うーん……なついてるっていうのかなあ、あれは」


 少し意味ありげな反応をする、海老名。


「まさか、その高校生、真剣に日菜をねらってるのか?」


「ではないんだけどね。宮前さんが天使か女神にでも見えてるみたい。こじらせて、やっかいな方向には行ってるよ」


「へえ」


 そんなこと、当の日菜は夢にも思ってないんだろうけど。


「いいよ、べつに。高校生だろ? 可愛いもんだよ」


「あ。そいつの顔、見てみる?」


 そうは言っても、どんなやつなのかくらいは多少気になると思ったタイミングで、海老名が携帯の画面を俺の前に出した。


「これ。保科っていうの」


「……これが高校生? しかも、たしか、一年生だったよな?」


 全然、可愛くないな。そこで、俺の表情を見て取ったのか、海老名が笑った。


「大丈夫だよ。この先、宮前さんが蒼太以外に揺らぐとことは、絶対にないから。俺が、最初で最後」


「だから、それが嫌なんだよ。おまえだからこそ」


 わかってて、わざと言ってるな。


「しょうがないんじゃない? 蒼太も音々と寝てたし」


「……俺は、本当に隣で寝かせてもらっただけだから。おまえと違って」


 我ながら、いやらしい言い方だ。


「俺だって、ライブのあとで蒼太に見られた以上のことは、宮前さんとはしてないよ。安心した?」


「え……?」


 気まずい思いで、顔を上げる。


「はっきり、聞けばいいのに。それを確かめたかったんでしょ? そりゃあ、こっちからは何度か誘ったこともあったけどね。宮前さん、しっかりしてるから」


「ああ……そうか。まあ、そうだよな」


 一気に力が抜けた。


「そうだ。エビネさんといえば、今、どうしてる?」


「音々? 最近は会ってないけど、旅行会社に就職して、真面目に働いてるよ。バンドもやめて、ちゃんと落ち着いたみたい」


「そういえば、エビネさん、言ってた気がするな。海外に行くのが好きだって。でも、エビネさんは、昔から落ち着いて……」


 と、そこで。


「エビネさん? 蒼ちゃんと海老名くんの友達?」


「宮前さんか。遅かったね」


「…………!」


 無邪気な顔で近づいてくる、日菜の姿が。


「あ、いや……エビネさんっていうのは、海老名のお姉さんのこと」


 俺が居心地の悪い思いで答えるのを、海老名が楽しそうに見ている。


「海老名くん、お姉さんがいたんだ? 綺麗な人なんだろうね」


「綺麗かどうかは知らないけど、顔の造形はほぼ俺と同じだよ」


「それなら、やっぱり……」


「あ、日菜。今日は、面会の終了時間までいれるのか?」


 会話を遮るように、割って入った。絶対、海老名は面白がってるな。


「うん。もちろん」


 日菜が俺の方を見て、ふわりと笑う。また大人っぽく、綺麗になった日菜。ここに海老名がいなければ、最高だ……と思った瞬間、海老名と目が合った。


「じゃあ、あとは宮前さんに任せて、俺は行こうかな」


「えっ? 海老名くん、帰っちゃうの? ごめんなさい、話が盛り上がってたところ、邪魔しちゃったみたいだね。海老名くんもよかったら、もう少し……」


 せっかく気を利かせてくれた海老名を引き留めようとするのは、日菜の優しさ。でも、わかっていても、もやもやすることも多い。


「帰るよ。帰らないと、今度は俺が蒼太に刺されそうだから」


「えっ?」


 海老名の言葉に、日菜が目を白黒させる。


 俺が気に入らないのは、海老名が日菜を好きだったことを、日菜が全くわかっていないことだ。自分は海老名の気まぐれで手を出されただけだと思っているから、今はこんな何のわだかまりもない関係になってるんだよな……。複雑だ。


「じゃあね、蒼太。宮前さんは、明日の心理学の出席、よろしく」


「あ……行っちゃった」


「いいよ。もう、十分話した」


 知りたかったことから、知りたくなかったことまで。


「蒼ちゃん」


 海老名が談話室から出て行くと、日菜は俺の正面に座り直した。


「リハビリ、順調みたいだね」


 いまだに、俺が初めて意識を取り戻したときのような涙目で、俺を見る日菜。


「真面目に頑張ってるから」


「退院できる日も近そうだね」


 そう言って、また涙をこぼした、日菜の頬に触れる。


「園田日菜、か」


 なんとなく、声に出してみる。


「宮前蒼太……くん」


 いたずらっぽく笑い、日菜も俺の名前を口にした。こんな表情もするようになったんだ。


「園田さんっていうのも、新鮮でいいかも」


「そんなの、嫌」


 顔色を変えて、日菜がムキになる。


「わたしは、蒼ちゃんに “日菜”って呼ばれる瞬間が、すごく幸せなんだから」


 真顔で、そんな可愛いことを言う日菜。ここが病院であることを呪いたい。


「あ。そろそろ、夕食の時間だね。食堂に行かないと」


「本当だ」


 せっかく、いいところだったのに」


「また来週、海老名くんと来るからね」


「いいかげん、海老名となんか、連絡取るなよ」


「そういうわけじゃないよ。だって、同じ授業取ってるから、会っちゃうんだもん」


「どうだか」


 手すりにつかまって、ゆっくりと自分の力で立ち上がる。


「本当だよ? いつだって、わたしは、蒼ちゃんのことしか頭にないのに。蒼ちゃんさえいてくれれば、何もいらな……」


「俺も。一日中、日菜のことしか考えてない。おかしくなりそう」


「え……ええっ?」


 いちいち、本気で恥ずかしがる日菜を笑いながら、一歩ずつ今日も踏み出していく。再び、自分だけの力で、日菜の全てを守れる日が来るように ——————。







 壊れるほどの愛を、君だけに


           END




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番外編・後日談集 伊東ミヤコ @miyaco_1

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