番外編・後日談集

伊東ミヤコ

そして世界は全て変わる

世界が変わった、そのあとは・前編



「波流」


 新幹線の改札を出てすぐ、すでに待ってくれていた錬太郎くんに、声をかけられた。


「おはよう、錬太郎くん」


 まだ、全然慣れない。このわたしが、錬太郎くんの彼女だという状況に。


「ほら。貸せよ、荷物」


「あ……ありがとう」


 四日分の着替えの入った大きなバッグを、錬太郎くんに手渡す。


「重くない? 」


「重いよ」


 なんだか、さっきから愛想のない、錬太郎くん。


「じゃあ、自分で持つよ。悪いもん」


 もう一度、自分のバッグに手をのばすと。


「あ、ごめん!」


 一瞬、錬太郎くんの指に触れたから、あわてて手を引っ込めた。結局、バックは受け取らずに。


「それくらいのことで、何赤くなってるんだよ?」


「赤くなんか、なってないもん」


 錬太郎くんが変なことを言うから、わたしの顔が急に熱くなってくる。


「赤いよ」


「錬太郎くんだって、赤いもん」


 と、そこで言い返して、何の気なしに錬太郎くんを見上げたら。


「…………」


 本当に、心なしか、錬太郎くんの頬に赤みが差しているような気がするけれど。


「行こう。早く」


「……うん」


 ひさしぶりに会った、錬太郎くんの横顔にドキドキさせられながら、錬太郎くんのあとをついていく。


 東京の予備校や寮の生活にも慣れてきた頃、少しだけ与えられた、夏休み。もちろん、電話は何度もしていたけれど。


「この前の模試、どうだった?」


「錬太郎くんに教えてもらったところ、出たよ」


「やっぱりな」


 勝ち誇ったように、錬太郎くんが笑う。こんな感じ、なつかしい。


「あいつらは、相変わらずだろ?」


「うん。ちょっと前に沙都とは会ったけど、小日向くんも元気だって」


 あの日 ———— 再会した日以来、錬太郎くんと会うのは、初めて。


「だろうな」


 錬太郎くんも懐かしそうに、少し目を細める。


 錬太郎くんが実家の方に帰ってくれば、二人にも会えるのに。どうして、わたしを京都に呼んだんだろう? それが当然のように言われたから、何も考えないで、ここまで来てしまったけれど。





「ここだよ」


 地下鉄に乗り継いで下車した、静かな駅。そこから、また少し歩いたところにある、小さなマンション。


 ……そうだ。この錬太郎くんの部屋で、わたしは四日間過ごすことになるんだ。


「入れよ。散らかってるけど」


「うん。おじゃまします」


 脱いだ靴をそろえて、緊張しながら、中に足を踏み入れる。


「とりあえず、お茶いれるから」


「あ、ありがとう」


 わたしの荷物を床に降ろすと、キッチンに向かってくれた、錬太郎くん。本棚に目をやると、到底、わたしに理解できなそうな経済の本が、たくさん並んでいる。


「錬太郎くん、すごいんだね」


 一冊手にしてみたけれど、何が何だか、わからない。


「なんで? そういうのを専門に勉強してるんだから、読めて当たり前だろ?」


 そう、つまらなそうに答える錬太郎くんは、高校生の頃と全然変わっていない。


「そっか」


 なんだか、落ち着かない。本を元に戻して、テーブルの前に座る。


「ん」


「ありがとう」


 お茶を受け取って、一口含んだら、沙都のところに泊めてもらおうと家を飛び出した、次の日の朝のことを思い出した。


「あのときも、錬太郎くんがいれてくれたお茶、すごくおいしかったんだよ」


 もし、錬太郎くんがいてくれなかったら、わたしは今頃、どうしていたんだろう?


「……ああ」


 少し考えてから、錬太郎くんが、聞いてきた。


「あの日は、何があったんだよ?」


「ううん、あの……」


 お父さんとお母さんの寝室の前を通ったときのことなんて、錬太郎くんには言いたくない。


「やっぱり、陽?」


「ううん。あのときは、違う」


 あわてて、首を振る。


「じゃあ、何?」


「えっと……」


 電話では、本当に聞きたいことをお互いに聞けないでいた。その日にあった他愛もない話とか、わからない問題を教えてもらったりとか、そんな感じだったから。


 だから、錬太郎くんがわたしのことを、ずっと見ていてくれてたっていう話だって、いまだに真実なのかどうか……。


「言いにくかったら、今はいいよ。外、出るか?」


「そうだね。ちょっと、散策してみたい」


 気まずい空気だったわけではないけれど、いきなり部屋に二人きりでいるのは意識してしまうから、錬太郎くんの提案は、ありがたかった。





「晴れてて、よかったね」


「ああ」


 賀茂川の土手に並んで座って、キラキラ光る水面を見る。


 ……やっぱり、今日の錬太郎くんは、口数が少ない気がする。


「あのさ、錬太郎くん」


「え?」


「本当は、忙しかった? 迷惑だった?」


 いろいろな思いが頭を過ぎる。


 あの日、錬太郎くんは、わたしに会いたかったと言ってくれた。でも、わたしは次の日に仕事が入ってたから、すぐに家に帰らなくてはいけなくて、そのあとは三日に一回くらい、電話で話してただけ。


 沙都には笑われたけど、もしかしたら、錬太郎くんは……。


「そんなわけないだろ?」


「だって」


 さっきから、わたしの顔も、ずっとまともに見てくれない。


「あんまり、しゃべらないし」


 最初の頃は気がつかなったけれど、錬太郎くんは女の子に人気ある。この三ヶ月の間に、他の女の子に目が行っても不思議じゃない。


「……まだ、信じられないんだよ」


 そこで、顔をそむけたまま、錬太郎くんが口を開いた。


「何が?」


「波流が、俺の目の前にいることが」


「え……?」


 隣に座っている錬太郎くんに、目を向けた。


「やっと、実感がわいてきた」


 今度は、わたしが錬太郎くんに見つめられる。


「わたしだって」


 つい、錬太郎くんから、目をそらしてしまう。


「わたしだって、夢みたいだよ。錬太郎くんと、こんなふうに一緒にいられること」


 何度も何度も、夢に錬太郎くんが出てきたの。


「うん」


 小さく返事をした錬太郎くんの左手に、わたしの右手をギュッと握られる。


「……やばい」


「何が?」


 その手の感触に、ドキドキしながら、聞いてみたら。


「波流が」


「わたしが?」


「可愛くて」


「そ……」


 この音は、どっちの心臓の音?


「そんなこと、初めて言われ……」


 その続きは、錬太郎くんの唇の中に吸い取られたの。


「俺は、波流が好きだから」


 手をつないだまま、ただ触れただけのキスなのに、体中が熱くなって、体中で訴えている。錬太郎くん、大好きって。


「波流は?」


「……好き。錬太郎くんのことが、好き」


 ずっと、ずっと、錬太郎くんに、伝えたかった言葉。今、やっと言えた。


「よかった」


 心底安心したように、大きくため息をついた、錬太郎くん。


「波流の気持ちが、俺と同じで」


「うん……」


 いつか、考えたことがあった。自分の好きな人に自分を想ってもらえるのが、いったい、どんな気持ちなのかって。こんな気持ちだったんだね。


「好きだよ、波流」


 今度は、錬太郎くんの右手で顔を引き寄せられて、少し長めのキスをする。


「……わたしも」


「うれしい」


 額と額をつけて、そう笑った錬太郎くんに、もう一度「わたしも」って言おうとしたのに、涙で声にならなかった。


「何か食べに行く?」


「よかったら、わたしが作るよ」


「本当に?」


 立ち上がって、手をつなぎ直す。言葉なんて、いらないんだね。錬太郎くんとつないだ手から、空白の期間の想いがこんなにも伝わってくる。





「どう……かな?」


 煮物を口に運んだ、錬太郎くんの反応を見る。


「うん。おいしい」


「よかった」


 錬太郎くんの表情に安心して、わたしも箸をつける。


「料理は、苦手なんじゃなかったっけ?」


「今でも得意ではないけど、向こうにいるとき、よく作ってたから」


 錬太郎くんのお母さんは料理上手だったから、ためらう気持ちもあったんだけれど、やっぱり、夕食くらいは作ってあげたいと思ったし……。


「今、どうしてんの?」


 と、そこで、複雑そうな顔の錬太郎くんに聞かれた。


「何……が?」


「あの母親」


「あ、うん……元気だよ」


 そうだった。錬太郎くんが最後に聞いた、あのお母さんの言葉は、きっと衝撃だったに違いない。“いらない子” だなんて。


「年下の彼氏ができてから、毎日、すごく楽しそう」


「ふうん」


 納得のいかない表情で、錬太郎くんがわたしを見るけれど。


「でも、そのおかげで、今勉強できてるわけだし」


 多分、お母さんは、わたしだけが幸せになることを許してくれなかったと思うから。


「親として、最悪だよな」


「うん。だけどね」


 錬太郎くんが、いらちを覚えてくれるのは、うれしいんだけれど、でも。


「……わたしが東京に戻るとき、お母さん、泣いてたの」


 考えてみたら、一度も離れて暮らしたことはなかったんだ。


「自分でも、バカみたいって思うんだけどね。それを見たら、今までのことも許せる気がした」


「信じられないくらい、お人よし」


 思ったとおり、あきれた顔の錬太郎くん。


「うん。でも……」


 錬太郎くんが、いてくれたから。だから、そんな気持ちになれたんだよ。そう、言おうとしたら。


「ごめん」


 突然、錬太郎くんに謝られた。


「ずっと、何も気づいてやれなくて」


「そんなこと」


 笑って、首を振る。


「波流が苦しんでたとき、俺は自分のことしか考えられなかった」


「いいんだよ、そんなの」


 あの頃のわたしは、誰に対しても、あいまいな態度で接してばかりいた。


「錬太郎くんに、周りをバカにしてるように思われても、当然……」


「そうじゃなくて」


 そこで、錬太郎くんが少しだけ、わたしから目をそらす。


「自分でも、どうしてなのか、わからなかったんだ」


「何が?」


「おまえが陽を見てるのを目にするたび、イライラしてたまらなかったのが」


「あ……」


 沙都の言葉を思い出す。


「わたし……」


 ドキドキするの。ドキドキしすぎて、どうにかなりそうなの。


「やっと、俺のものになった」


「…………!」


 不意に、ふわりと体が持ち上げられて、ベッドの上に、ゆっくりと降ろされた。昼と違って、錬太郎くんに見下ろされながら、唇を合わせる。


 錬太郎くんの体は温かくて、気持ちがよくて、幸せを感じられて、安心できるけれど。


「待って、錬太郎くん」


 でも、やっぱり。


「待てない」


「待って、わたし……」


 いろいろ、思い出したくないことを思い出しちゃうの。


「波流……」


 錬太郎くんの声の響きも、いつもと違う。なんだか、錬太郎くんじゃないみたい。


「錬太郎くん」


 離して……! そう、声に出そうになったときだった。


「……誰だ?」


 唐突に聞こえた、チャイムの音。顔をしかめて、錬太郎くんが立ち上がる。


「待ってて」


「あ、うん」


 わたしも起き上がって、軽く服を整える。


 どうしよう? 怖くてたまらない。錬太郎くんのことが好きだからこそ、この先に進むことに不安を感じて……と、そのとき。


「開けろ、錬太郎!」


 ドアの外から聞こえてくるのは、明らかに酔っぱらった、同じ年くらいの男の子の声。玄関の前で、錬太郎くんが止まった。


「錬太郎くん?」


「面倒なのが来たから、居留守使う」


「でも……」


 声は、どんどん大きくなる。


「いるんだろ? 錬太郎! 電気、ついてるぞ」


「…………」


 あきらめたように息をついて、錬太郎くんが、げんなりとした雰囲気でドアを開くと。


「飲みすぎて、帰れない。今日、泊めてくれよ」


 想像どおり、泥酔した男の子が玄関に倒れ込んだ。無言のまま、わたしの顔を見る、錬太郎くんに。


「いいんじゃないかな。泊めてあげなよ」


 内心、ほっとしながら、そう伝えた。





「ごめん! 本当に、ごめんなさい」


 朝、目を覚ましたら、昨日の男の子がすごい勢いで謝ってきた。


「いいよ、もう」


 その言葉とは裏腹に、明らかに怒っているようすの錬太郎くん。


「うん。本当に、気にしないでね。ここまで無事に歩いてこれて、よかった」


 なんだか、おかしくて、わたしは錬太郎くんに気がつかれないように、少し笑ってしまった。


「優しいなあ、波流ちゃんは。なあ? 錬太郎」


 調子よく、そんなことを言う男の子。名前は、高橋くんだっけ。


「どうでもいいけど、早く……」


「いやー、しかし、昨日は参った」


 錬太郎くんを遮るように、話し始める高橋くん。


「いきなり、夏帆が……あ、彼女ね。好きな男ができたとか、勝手に言い出すから」


「それなら、しょうがないだろ? 別れるしかない」


 錬太郎くんの口調も、相変わらず。


「冷たいね、錬太郎は」


 助けを求めるように、高橋くんがわたしを見る。


「そんな、すぐには割り切れないよね」


「そうだよ。わかってくれるでしょ?」


 感じのいい、優しそうな男の子なのに。


「まあ、錬太郎には、わからないよな。女なんて、向こうから寄ってくるもんな」


「そうなの?」


 そこも、変わってないんだ。


「よけいなこと言うなよ、高橋」


 錬太郎くんは、嫌な顔をしているけれど。


「そうだよ。飲み会なんてやったら、大変だよ? 錬太郎に持ち帰られたい女が、何人も群がって」


「持ち帰る?」


「やめろって、高橋」


 錬太郎くんを気にせず、高橋くんは続ける。


「そうそう。錬太郎に抱かれたい女が」


「…………!」


 思わず、錬太郎くんの顔を見た。


「でも、わかった。錬太郎が他の女に無関心だったわけ」


 納得したようにうなずく、高橋くん。


「波流ちゃんといると、落ち着くもん」


「そ……そうかな?」


 そんなふうに言われたこと、ないんだけれど。


「沙都ちゃんも可愛かったし、錬太郎の周り、レベルの高い子ばっか」


「高橋くん、沙都に会ったの?」


 一気に、親近感がわく。


「会ったよ、四月の終わり頃。男と一緒に、こっちに旅行に来てたんだよな。名前、何だっけ」


「小日向くんだね。小日向陽くん」


 わたしと再会する、ちょっと前だ。沙都と小日向くんが、錬太郎くんのいる京都を旅行先に選んだことが、いいなあと思う。


「で、錬太郎の高校のときの話とか、いろいろ聞いてさ」


「本当? わたしも聞きたい。あと、大学での錬太郎くんのことも知りたいな」


 途中から、錬太郎くんは、あきらめたようすで。結局、高橋くんが部屋を出たのは、夜になってからだった。





「本当に、あいつは……」


 ドアを閉めるなり、すぐに勢いよく鍵をかけた、錬太郎くん。


「高橋くんのおかげで、楽しかったよ」


 笑いながら、お皿を片付ける。


「それに」


「それに、何だよ?」


 ふてくされたように、錬太郎くんはベッドの上に寝転がった。


「錬太郎くんが、わたしのことかばってくれて、男の子とケンカしたことがあったとか」


 それは、沙都と小日向くんが、高橋くんに話したらしい。


「……ああ。そんなこともあったけど」


 わたしが学校をやめてから、いろいろな憶測が飛び交う中、わたしを中傷するようなことを言った男の子に、錬太郎くんは周りも気にしないで、突っかかってくれたって。


「ちゃんと誤解を解いたのは、沙都だよ」


「うん。でも、うれしかった」


 三人分の食器を洗い終え、水を止めた。


 わたしは、ずっと、一人だと思ってたの。小日向くんは遠くで違う幸せを見つけて、沙都には失望されて、錬太郎くんも、わたしのことなんて、きっと忘れているだろうって。だけど、そうじゃなかった。


「波流」


「ん?」


 錬太郎くんの方に、近づいていくと。


「もう、限界なんだけど」


「え……!?」


 あっという間に、腕を引っ張られた。何か、言葉を発しようとしたんだけれど、すぐに、わたしの舌は錬太郎くんの舌に捕えるられた。その熱に、わたしの頭も溶けそうになるの。だけど。


「錬太郎く……」


「限界だって、言ってるだろ?」


 しゃべろうとするたび、少し苛立った錬太郎くんに制される。わたしは、錬太郎くんが好き。錬太郎くんも、わたしを好きでいてくれる。


「好きだよ、波流」


 この甘い囁きも、きっと真実。だから、大丈夫だよね?


 愛もないのに、そういう行為をした、お父さんとお母さん。寂しさをまぎらわせるために、わたしを抱こうとしたことがある、小日向くん。


 …………。


 何も、変わらないよね? ここで、錬太郎くんに抱かれたからって。わたしと錬太郎くんの関係に、変化が起こることはないよね?


「波流?」


「…………」


 わかっているのに。今の状況と過去の体験に、ひとつも関連性もないこと。でも。


「どうした?」


 わたしの涙に気がついた錬太郎くんが、戸惑いの表情を見せる。でも、やっぱり、心配なの。何かが変わっちゃうんじゃないかって。


「嫌なの」


「え?」


「錬太郎くんとは、こういうこと、したくない」


 言ってから、口に出してしまったのを後悔するまで、何秒もかからなかった。


「待って、錬太郎くん!」


 下着姿のまま、タオルケットにくるまって、急いで錬太郎くんを玄関まで追いかけた。


「ごめん、違うの」


 どうしたら、伝わるの?


「わたしは……」


 錬太郎くんが好きなの。ただ、それだけなのに。


「おまえが、そんなに嫌な女だとは思わなかった」


「違う……」


 心臓がズキズキするよ、錬太郎くん。


「明日の昼過ぎまで帰らないから、鍵はポストに入れておいてくれればいい」


「待って……!」


 こんな格好で外に出るわけにもいかなくて、わたしは、錬太郎くんの出ていったドアをぼう然と見つめていた。


 錬太郎くんがいなくなった途端に、空気がひんやりしてくる。ベッドの上には、まだ温かさが残ってるけれど。


「錬太郎くん……」


 寂しいよ。一人なのが、こんなに寂しく感じる。


 もう、戻りたくないのに。一人で泣きながら眠って、いつのまにか迎えてる朝なんて、二度と訪れてほしくなかったのに —————— 。



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