白い街の群像

平手武蔵

赤黄色のデッドコピー

 古びた書斎の机の上、開かれたノートパソコンの画面には、まだ書きかけの小説が表示されていた。椅子に深く腰掛ける男の指が時折キーボードを滑り、画面の文字が増えては減りを繰り返していた。

 思考の海が凪いでいた。航海する指は羅針盤を持たない。その指の主である健一の短く整えられた白髪混じりの髪、少し皺の目立ち始めた顔を青白い画面の光が照らしていた。それは元来の柔和な顔付きをひどく気だるげな印象にさせていた。

 辺りが暗くなり始めていたことに、健一はふと気付いた。巡る季節は秋になり、日が暮れるのが早くなっている。天井から吊るされた手のひら大の太陽に対して、健一は書斎を照らすことを許可した。最近は特に働き者なので、夜がなかなかやって来ない。まったく困ったものである。


 最愛の妻を亡くしてからというもの、健一は作家としてどうやらスランプに陥っていた。光の届かぬ洞窟で裸のまま出口を求め、岩肌で傷つきながら延々と彷徨さまよっている。洞窟の陰で地雷が息を潜めて隠れている。見て見ぬふりをして、その事実に焦りすら感じない。いっそどこかで踏み抜き、爆発してしまえばいい。


 妄想を振り払おうと、ノートパソコンを操作する。AI小説生成ツールが画面に表示された。長きにわたって表現者としてあり続けた自分が絶対に踏み入れてはいけない禁断の領域。そう決めていたのに。

 時代は変わったんだ。そう言い聞かせて、震える手をキーボードに置いた。自身が書いた文章を読み込ませ、その先のプロットの概要とキャラクターの設定を細かく記述した。

 エンターキーを押す。画面の向こうでAIが文章を生成し始め、ものの数秒で初稿が画面に表示された。流れるように生成された文章は日本語として意味は通るものの、どこか機械的でキャラクターの描写も血が通っていないように見え、どうにも違和感が拭い去れなかった。


「やっぱり考え直そう」


 AIなどに一瞬でもすがろうと思った自分を恥じた。ついに魂を悪魔に売り渡してしまった。良心の呵責が茨の鞭となって心を締め付ける。

 ノートパソコンの天板を閉じ、健一は席を立った。煮詰まってしまった時、身の回りの掃除を始めるのが健一のルーチンワークであった。しかし、最近はその頻度があまりに高くなっていたので、普段とは違う場所を掃除し始めた。

 そこで埃をかぶった箱を見つけた。何をしまったものであったか思い出そうとするも、皆目見当がつかない。開けてみると、その箱には健一が若い頃に書いた未発表の原稿が詰まっていた。手に取ると紙の感触が少し懐かしい。健一はその中の一冊を開き、ページをめくり始めた。


香嵐渓こうらんけいの紅葉は、燃えるように揺れている赤黄色の絨毯だった……」


 その一文を読んだ瞬間、健一の心は過去へと飛んだ。あの秋の日、かつての恋人である真理恵と共に訪れた香嵐渓の美しい景色が鮮明に蘇る。巴川ともえがわの清流に映る紅葉は、印象派の絵画のように鮮やかだった。待月橋たいげつきょうで見た彼女の笑顔、風に揺れる紅葉――溶けて混ざって、その境界が曖昧になる。ライトアップが消えるその時まで、二人で語り合った未来の夢。全てが昨日のことのように感じられた。


 健一は再びページをめくった。作中の登場人物に投影する形をとりながら、心に感じたままの言葉がつづられていた。真理恵との思い出が一行一行に染み込んでいる。

 ただ一滴の水だった。それは心の砂漠に真っ黒な染みをぶちまけ、ドロドロと浸食を続ける。それをかき混ぜ、拭い去り、あらわになるものはどんな形をしているのだろう。古びた原稿をむさぼるように読み進めるうちに、奇妙な感覚に陥った。

 果たしてこれを書いたのは本当に自分であったのか。小説としてはどこか稚拙ながらも、荒々しいほどの生の感情が熱を帯びて律動していた。これと比べてしまえば――ノートパソコンの中にある書きかけの小説はスリープ状態でとっくに冷めきっていて、挙句の果てにAIという冷水まで浴びせられた、上っ面だけのデッドコピーだった。


 原稿を静かに置き、健一は書斎の窓から外を見つめた。風が一段と冷たくなっている。庭に植えられた楓はまだ色づくには早いが、紅葉の季節が近づいていることを肌で感じた。今にして思えば、あの頃は作家としての成功を夢見ながらも、常に自分の才能に対する不安と戦っていた。真理恵との関係も、その一部だった。

 真理恵と出会ったのは健一がまだ二十代後半の頃、ある文学イベントの後のパーティーでのことだった。無名の作家だった健一に、真理恵は興味を持って話しかけてきた。真理恵は美術館で働くアートキュレーターで、芸術に対する深い理解と情熱を持っていた。芸術や文学について語り合って意気投合し、その夜のうちに深い絆を感じることになった。

 真理恵とは頻繁に会うようになり、美術館や文学イベントに共に足を運んだ。真理恵は健一の作品に対して、独自の観点から率直な意見を述べた。健一は真理恵の存在に感謝し、多くの詩や短編小説を書いた。真理恵との関係は互いに刺激し合い、支え合うものだった。

 その関係は唐突に終わりを迎えた。真理恵にアメリカの美術館からオファーがあり、自身のキャリアのため、渡米することを決意したのだ。健一は真理恵の決断を尊重し、応援した。その一方で、自分の心の中にある寂しさを隠していた。真理恵を引き止めることなく、ただ見送ることしかできなかった後悔が今でも胸に残っている。


「もし、あの時もっと素直になれていたら……もっと自分の気持ちを伝えていれば、何かが変わっていたのだろうか?」


 健一はかぶりを振った。妻が死んで間もないというのに、他の女性のことを考えるなんて、本当にどうかしている。……少し肌寒くなってきた。窓を閉め、書斎の机に向かおうとした時のことだった。


「健一、どうだ? 進んどるか?」


 かどの取れた柔らかな響きの尾張の言葉。開け放したままにしていた書斎のドアの向こうから、長年の友人である石橋が人懐こそうな笑みを浮かべていた。健一の作家デビュー以来の担当編集者でもあった。

 ゆるい腹回りは長年、編集業に心血を注いできた証である。丸い顔に総白髪、いつも変わらないチェック柄のシャツとよれよれのカーディガン姿に、健一は全幅の信頼を置いていた。最近では、奥さんを亡くした君のことが心配なんだわと言って、健一の自宅が石橋のテレワークスペースとなっている。

「相変わらずだよ。石橋さん」

「そうか。連載の方、まだ休載せなかんかもな」

 頭を掻いた石橋に、健一は申し訳なく思う。

「その古びた原稿は何だ?」

 石橋が原稿を目ざとく見つけて手に取った。健一が制止する間もなく、眼鏡を上にずらしてページをめくり始めた。


「これは……君がまだ無名だった頃の作品だろう?」

「石橋さんも覚えてたのか。この作品には昔付き合っていた真理恵との思い出が……あの頃の情熱や夢が詰まっている」

 健一は遠くを見つめながら言った。石橋が頷き、原稿の一節を声に出して読む。

「『風が吹くたびに、紅葉の葉が舞い上がり、まるで僕たちの未来を祝福しているかのようだった』か……言い方は悪いけど、今の君ならこんな安直な表現はせんだろうな」

 石橋は原稿を置き、健一の目をまっすぐに見た。

「あんなに大事やった真理恵さんとの別れを乗り越えたで、今の君がある。それが君の作品に深みを与えとる。奥さんとの別れだって、そうやって全部吞み込んでしまって、君はまた新たな作品を生み出せるはずだ」

 直視できずに健一は目を伏せてしまう。さらさらと盛られるグラニュー糖のように甘い言葉。こぼれ落ちては冷めきったコーヒーの中へと溶けていく。カップの底に溜まるばかりで、飲んだところで熱が脳まで届くことはなかった。


「それはそうと。真理恵さんの話が先に出るとは思わんかった」

「どういう意味だい?」

 健一はいぶかしく思って石橋に尋ねた。

「アートブックの企画をしとって、関係者のリストに真理恵さんの名前を目にしてな。会ってみたら、まさかの本人で驚いたんだわ。真理恵さんは最近、活動の拠点を日本に戻しとるらしい。健一の話は一応、避けとったんだが、真理恵さんの方から話題を出してきてな。久しぶりに会いたいで、ちょーっと話をしてくれんかって言われて。……君の方はどうなんだ、健一」

 なぜ真理恵は日本に戻ってきたのか。それ以上にどうしてまた、とっくの昔に終わった相手と会いたいと言ったのか。今さらの言葉が引っかかる。ひょっとしたら、妻を失った寂しさを埋めてくれるかもしれない。そう期待している自己本位の感情をとても醜いとも思った。

 複雑な気持ちがないまぜになってしまい、そこから健一は石橋との会話をよく覚えていない。ただ、この機会を逃したら永遠にその機会が失われてしまう――そんな気がして「僕も会いたい」と言ったことだけは覚えている。


 ◇


 閑静な住宅街である白壁しらかべの自宅から、名古屋随一の繁華街であるさかえまでタクシーを十分ほど走らせ、健一はにしき三丁目の交差点に降り立った。

 錦三丁目の夜はネオンの光に包まれている。きらびやかな看板が並び、夜の街を彩っていた。多種多様な居酒屋や飲食店が密集する地区であり、それを目当てに若者やビジネスマンがごった返し、にぎやかな声が響き渡っていた。少し奥まで進むと、クラブやラウンジなどの高級店も姿を見せ始め、夜の社交場としての面が現れていく。


 やがて石橋が真理恵との再会の場として設けてくれたバーの前までたどり着いた。ドアを開けて中に入ると、店内はしっとりと落ち着いた雰囲気で、柔らかなジャズが流れていた。カウンター席に座ってバーテンダーと話をしている女性の横顔が目に入る。何年も会っていないのに真理恵だとすぐに分かった。

「真理恵。少し待たせてしまったかな」

 健一の呼びかけに真理恵が振り返り、笑みを浮かべた。

「久しぶりね、健一。でも不思議。文芸誌のインタビュー記事で最近、お見かけしたからかしら。思ったより感動ってほどでもないわね。それにしても随分、おじさんになったじゃない」

「記事を読んでくれていたのは嬉しいけど、再会の一言目から手厳しいな。君の方こそ、おばさんじゃないか」

「せっかく何年ぶりに会ったっていうのに失礼な話ね」

「君から言い出した話じゃないか。まったく」

 二人して笑った。


 もう五十手前だというのに真理恵は変わらず美しかった。肩の辺りまで伸ばされた緩やかなウェーブの黒髪は、絹のように滑らかで光の加減によって亜麻色に輝いて見えた。彼女のファッションセンスも健一の記憶に残るままだった。シンプルでありながら洗練されたスタイルで、今日は淡いブルーのブラウスに黒のスカートを合わせていた。耳元でささやかに揺れる小さなピアスも彼女の上品さを際立たせている。

 記憶と違う部分もある。それは年齢を重ねたゆえの落ち着いた佇まいや優雅な所作が示すもので、芸術に対してどこまでも真摯に向かい続けたであろうその姿は、自然体でありながらもどこか神秘的な雰囲気を漂わせるに至っていた。

 二人はカウンター席に並んで座り、昔話に花を咲かせた。真理恵がアメリカでの経験を語るのを聞きながら、健一は真理恵の成長を感じていた。真理恵も健一の作家としての成功を喜んでいるようであった。

 真理恵は会話に関する絶妙なバランス感覚があって、それは昔から変わっておらず、健一はなぜ真理恵に惹かれていたのか再認識もした。話は尽きることがない。しかし、どこか居心地の悪さも感じていた。今日、話したい部分はそこではないのだ。きっとお互いに。


――不意に会話が途切れた。真理恵はほとんど空になっていたカクテルのグラスに口を付けた。最後の一雫に真理恵の喉元が小さく揺れた。あんなに空気だったBGMのジャズが今では妙に耳障りだった。


「健一。今日は会ってくれて、ありがとう。石橋さんには無理を聞いてもらったけど、あなたに会って、どうしても話しておきたいことがあったの」

 真理恵が切り出した。ついにその時が来たかと酔いを抑え、極めて平静に努め、健一は「それはなんだい?」と尋ねた。

「私、嘘をついてたの。あなたとお別れする時に言った、アメリカの美術館からオファーがあったっていう話」

 あまりにも予想外で「どうして、そんな嘘を」なんていう間抜けな言葉しか出なかった。真理恵は本心から別れたいと思って、優しくも卑怯な嘘をでっち上げたということになる。さっき話してくれたアメリカでの経験も全てデタラメだったとでも言うのだろうか。全てが不可解だ。

「アートキュレーターとして私は当時行き詰まっていたわ。毎晩遅くまで構想を練って、これ以上は考えられないぐらいの完璧な展示企画だった。でも酷評で、すぐに代役を立てられた。それが何度も何度も続いたわ。あの頃は本当につらかった」

「そんなこと、君は話してくれなかったじゃないか」

「言えるわけないじゃない。あなたが私に求めていたのは、豊かな知性と感受性、そして芸術に対して深い理解と情熱を持った、誰よりも強い完璧な女性像――あなたの母親役だったでしょう?」

 健一は何も言えなかった。真理恵は本当に素晴らしい女性だった。だから無意識のうちに彼女に頼りすぎていたのかもしれない。彼女のことを見ようとせず、自分のことしか見ていなかったのかもしれない。彼女であれば何も言わずとも、全てを分かってくれていると思い込んでいたのかもしれない。

 真理恵は少し目を伏せ、深呼吸をした。彼女の指がグラスの縁をなぞり、その動きが微かに震えているのが見えた。

「あなたが長編小説の新人賞を受賞したってまるで子供みたいに喜んでいたのを見た時、もうダメだと思った。心からの『おめでとう』を言えなかった。あなたへの嫉妬や自分への憐れみが募って、私自身がどんどん小さく感じられて……惨めだった。そんな自分が嫌で、あなたと距離を置くことが必要だと思ったの」

「今さら、そんな話は聞きたくなかった。あの時、少しでも悩みを打ち明けてくれてたら、僕だって――」

 真理恵が静かに首を振り、健一の言葉を遮った。真理恵はバーテンダーに手を挙げ、注文をした。


「XYZをください」


 それはアルファベットの最後の文字を名前に冠するラムベースのショートカクテル。真理恵がそれを注文するのは、これで二人の関係は完全に終わりだという意味を込めているのだろう。健一がそう考えていた時――

「バカね。何そんな怖い顔をしてるのよ」

 真理恵の人差し指が健一の頬に優しく触れた。不意の行動に驚いて彼女を見遣ると、その顔には微笑みがたたえられていた。

 どこかの席で吸われている電子タバコの甘く焼けるような匂いがして、呼吸も満足にできていなかったことに気付いた。

 鼻腔をくすぐる背徳の空気を肺へと送り込みながら、健一は意を決して口を開いた。

「君のことがなんだか分からなくなった。久しぶりに会いたいって言われたから、また友人としてやり直せると思ってた。会ってみたら別れた理由が嘘だったという告白。つらい思いをさせてしまったのは悪かったけど、とっくに終わった相手に改めて言うことだったのかな。過去の清算……そんなのただの自己満足じゃないか。おまけにXYZなんて終わりを意味するカクテルを注文するなんて、当てつけもいいところだ」

 振り絞り、吐いて出た毒の言葉に真理恵から笑みが消えていた。バーテンダーが真理恵の前にカクテルを置いた。

「このカクテルを注文した意味。本当にそうだと思ってるの? だとしたら、ちょっと寂しいかな。私たちが初めて出会った夜、一緒に飲んだカクテルだったでしょ。これ以上のものはない最高の夜だってね」


 XYZ――その言葉の示す意味が一瞬にして塗り替えられた。


 真理恵は真実を打ち明けた。健一と別れた後、彼女は研鑽を積み本当にアメリカの美術館からオファーを得ていた。その後、元の職場で彼女の展示企画を酷評した上司、大役をかっさらった別の部下との間に不適切な関係があって、真理恵は不当な評価を受けていたことも分かったという。

 真理恵はその事実を追求して、彼らに責任を取らせたいとは思わなかった。そんなことに時間をかけるなら、失われたものを取り戻すため芸術に打ち込み、その成果をもって彼らを鼻で笑ってやるのが一番の復讐だと思ったのだそうだ。

 健一はようやく理解した。真理恵は何も変わらない。ある秋の日の香嵐渓、巴川の清流に映る紅葉、待月橋で見た彼女の笑顔、ライトアップが消えるまで二人語り合った思い出――古びた原稿にあった赤黄色の記憶は色あせず、時を越えてさらに彩りを豊かにして、今ここに息を吹き返したのだ。


「話の続きね。アメリカの美術館を退職してから、その経験を糧にフリーランスとしてアートキュレーターをやっていくことにしたの。日本に戻って来たのはそういうこと」

 真理恵は鞄の中からタブレット端末を取り出した。少し操作して「今、コンペの真っ最中なんだけど、ある美術館での今度の展示企画よ」と健一に見せた。少し眺めて興味深い企画だと認めながらも、それが今までの真理恵になかった一面を示していたことに、健一は驚きの感情を禁じえなかった。

「現代アートを主軸にするだって? 今まで君はあんなに否定的だったじゃないか」

「そうね。かつてはそうだった。技術よりもコンセプトに重きを置く現代アートのアプローチがどうも苦手だった。でも芸術の最先端と言える環境に身を置いて考えが変わったの。古典的な芸術の美しさ――それは技術に裏打ちされた素晴らしいものだけど、現代的な新しい視点を取り入れることで、芸術の可能性はもっと裾野まで広がっていくと気付いた。言うなれば、これは私にとって生涯の挑戦なのよ」

 健一に宣言された真理恵の崇高な理念。それはAI小説生成ツールという文明の利器に対して、浅いところだけを見て不要と断じ、一切の活用をしようとしない自分への警告のようにも思えた。真理恵がその本質を変えることなく違った価値観を取り入れ、さらに高みを目指したように、自分もかくあるべきなのだと健一は思った。


 そこからは穏やかに時間が過ぎていく。妻を失ってからずっと得られなかった、かけがえのない時間。その幸せをずっと噛み締めていたかった。


「話は変わるけど、私と別れた後、結婚したんですって?」

「ああ。今年から東京の大学に通っている娘もいる。でも妻とは最近、死別した」

「そう……石橋さんから聞いていたのはそこまでね。奥さんはどんな人だった?」

「君とは全然違うタイプだったよ。いつも一歩引いて男性を立てる。そんな奥ゆかしい女性だったよ。君のようなタイプはもうゴメンだと思ってしまったのかもしれない」

 健一は苦笑し、喉を潤そうとしたところで、カクテルのグラスが空になっていることに気付いた。バーテンダーに注文したのはXYZだった。

「あら。私に付き合ってくれるの? ありがとう」

 グラスを合わせ、鈴のような音を合図に二人して口を付けた。真理恵はグラスを置くとほっと息を吐き、少し濁った白く透明な液体にさざ波を立てた。

「最後に私があなたに会いたいと言った理由を話すわね。一人でずっとアメリカで頑張ってきた。でも、やっぱりあなたのことが忘れられなくて」

 真理恵の目に特別な意味があるように感じられた。それは健一がかつて抱いていた感情を呼び覚ますものであった。

 今すぐ彼女を抱きしめたい。肌で彼女を感じたい。健一が口を開きかけたところで、真理恵から左手に触れられた。

「もし……もしもよ。あなたの気持ちがまだ、奥さんのところにあるのなら潔く身を引こうと思った。でも、どうやらそうみたい。誰かの身代わりなんて私は嫌だから」

 健一の左手の薬指に光る結婚指輪。真理恵の指はそこを指していた。健一は自分の失態に気付いてしまった。真理恵との復縁に期待しておきながら、結婚指輪を着けていたままだったなんて。急速に感情が冷えていく。

 真理恵はグラスに残ったXYZを全て飲み、グラスを置いた。

「今日はありがとう、健一。私はこれで失礼するわね」

「ちょっと待ってくれ、真理恵! まだ話は終わっていない!」

 健一の声がまるで聞こえていないかのようだった。真理恵は財布から紙幣を何枚か取り出してカウンターの上に丁寧に置き、何かに急かされるようにバーを出ていった。


「お客さん。閉店の時間ですよ」

 うなだれている健一にバーテンダーが肩を叩いた。

「ああ。もうそんな時間ですか」

 視界がぐるぐる回っている。明日はろくな目覚めにならないだろう。

「僕たちの話を聞いてましたか? そりゃあ、死んだ妻のことも大事ですけど、男なら他の女性を好きになるのも自然なことでしょう」

「ははは。そんなことを言う男に普通、女性は寄り付きませんよ。でも色男はちょっと違うようですね。彼女の置いたお金、よく見てみてください。申し訳ないですけど、すごく気になってしまって、こっそり覗いてしまいました」

 バーテンダーの言葉で健一は紙幣をあらため始めた。紙幣の中には便箋が挟まっていた。それを読んでみる。

 いつの間にしたためられたのかは分からないが、失礼な形で店を出ているであろうことへの謝罪が簡単につづられており、その最後の一文――

『もうすぐ紅葉の季節ですね。赤黄色の絨毯みたいな香嵐渓の景色。季節が巡る度に思い出してしまいます。いつかまた、ご一緒できることを願って。真理恵より』


 ◇


 あれから健一はAI小説生成ツールの活用を本格的に検討し始めた。普通に使っては手垢のついたような表現の面白みのない文章にしかならない。しかし、様々な角度からAIに指示し、無数にアプローチを行うことで、光る表現が出てくることに気付いた。

 ただ、それも生成された文章のせいぜい数パーセント程度にしかならない。その数パーセントを肉付けしてやり、またAI小説生成ツールを活用する。その繰り返しにより機械的な文章が人間的なものになっていく。出来た文章はもしかしたら自分では考えつかなかったものなのかもしれないが、まぎれもなく自分の文章として腑に落ちるものとなっているのだ。


「健一! これはどえらい見事やな!」

 もはや健一の自宅の住人と言っても過言ではなかった、担当編集者の石橋が印刷された完成作品を片手に持って、息を荒げながら書斎に転がり込んできた。

「石橋さん。その……前に教えてもらったAI小説生成ツールを使ってみたんだよ。毛嫌いしていたけど、物は使いようってことが身に染みて分かったよ」

「そうか! 全然分からんかったがや!」

 健一は苦笑してしまう。興奮すると尾張の言葉が強く出る石橋であった。

「この作品には、前に見つけた未発表の原稿も文章サンプルとしてAIに提供している。そこから生成された文章は、使い物にならない部分も多かったけど、自分にとっては再発見の連続だったよ」

「いつもと違うなと思っとったけど、そういうことやったか! 確かに、昔の作品みたいな熱があったがや!」

 石橋が満面の笑みで頷いていた。紅潮させ、くしゃくしゃになった丸い顔を見ただけで、健一はここまでの苦労が報われるように思った。


 その日の夜、作品の完成祝いにと、自宅で石橋と酌み交わした。

「すっかり忘れとったけど、真理恵さんとはどうなったんや?」

「ああ。お互い、色々誤解があったみたいで、また友人からやり直そうと思っているよ」

「そうか。娘さんには話すんか?」

「まあ、それはおいおい、ね」

 まだ復縁が決まったわけでもなく、じっくり失った時間を取り戻すように向き合っていきたいと言うと、それがええやろうなと石橋は深く頷いてくれた。妻の両親に対しても説明の責任はある。乗り越えるべき課題は山積みだ。

 完成作品の話に移ると、石橋は終始、作品の内容をべた褒めであった。この担当編集者は本当に溺愛が過ぎる。酔い潰れてソファーでトドのように眠る石橋に呆れながらもブランケットをかけてやり、健一は書斎へと戻った。ここのところ働き詰めであったノートパソコンをねぎらい、電源を落としてやった。


 窓の外、庭に植えられた楓はすでに色づき始めている。窓の近くに立ち、健一は夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 この白い街のどこかで。赤黄色の記憶のデッドコピーは新たな彩りを得て、今もどこかで生きている。


 了

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白い街の群像 平手武蔵 @takezoh

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