一輪の花

TatsuB

第1話 別れ

私は今日、母と一緒に買い物に出かけ、街を歩いていた。


交差点で信号待ちをしていたその時。


「ドーン」という鈍い衝撃音が響いた。


交差点の中で、車同士が激しく衝突していたのだ。


その衝撃で、何か大きな破片が私たちの方に飛んできた。




私は、どうやら死んでしまったらしい。


何故か分からないが、そう思った。


私が今いるここは、天国なのだろうか。それとも、三途の川なのだろうか。


周りはすべて真っ白で、ほんのりと光が差している。道すら見当たらない。


だが、なぜか私は、向かうべき場所がわかっていた。


「このまま進まなければ」


そう思い、まっすぐ進んでいくと、目の前に一つの黒く丸い空間が現れた。


きっと、この穴に入らなければならないと、直感で感じた。




私は黒い丸い空間をじっと見つめた。どこか不気味だが、同時に引き寄せられるような感覚もあった。恐怖というよりは、ここが「終わり」であり「始まり」でもあると直感でわかったのだ。


足を一歩踏み出すと、その穴がゆっくりと広がっていった。私はそこに吸い込まれるように進んでいく。どこまでも黒い、深淵のような空間。だが、なぜか怖くはなかった。


暗闇の中、急に足元が温かくなった。目の前に、小さな光が現れたのだ。最初は星のように小さな光だったが、それは次第に大きくなり、気がつくと私は広大な草原に立っていた。


青空が広がり、風が穏やかに吹いていた。遠くには大きな木が一本、そしてその下に何か人影が見える。私はふと、自分がここに導かれた理由を知りたくなった。その木の下の人影が、私に何かを伝えようとしているかのように感じたからだ。


「行かなきゃ...」


自分の意思とは関係なく、足が自然にその方向へ向いていた。草の感触、風の匂い、すべてがどこか懐かしい。まるで、ずっと昔からこの場所を知っていたかのような感覚に包まれる。


やがて、木の下にたどり着くと、その人影がはっきりと見えた。それは、私の母だった。




お母さんは、いつもと同じ優しい笑顔を浮かべていた。私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。なぜここにいるのか、そしてどうして私たちがここにいるのか、答えを求めて口を開こうとしたが、言葉が出ない。ただ、胸の奥で何かが締め付けられるような感覚があった。




「大丈夫よ...」と母が静かに口を開いた。その声は、温かさがあった。


私はようやく声を出せた。「お母さん...私たちどうしてここにいるの?これって、夢なの?それとも...」


母は優しく首を振った。「夢ではないわ。でも、恐れることもないの。あなたは、まだ終わっていないわ。」


その言葉に、私は驚きとともに戸惑いを感じた。「まだ終わっていない...?どういうこと?私は、死んだんじゃないの?」


母は私の手をそっと握り締める。温かく、優しさが伝わってくる。「あなたは今、岐路に立っているのよ。ここは、天国でも地獄でもない。あなたがどこへ行くべきか、まだ決まっていない場所なの。だからこそ、私がこうしてあなたに会いに来られたの。」


私はその言葉を飲み込むことができずにいた。「じゃあ、私はどうすればいいの?どこに向かえばいいの?」


母はふわりと微笑んだ。「あなたが本当に何を望んでいるのか、それを見つけること。心の奥底にある願いに耳を傾けなさい。それが、あなたの次の道を決めるのよ。」


私は混乱しながらも、お母さんの言葉を必死に理解しようとした。何を望んでいるのか...そんなこと、生きていた時にもよくわからなかった。それなのに、今さらどうやって?


母は私の手を軽く離し、ふっと遠くを見つめた。「さあ、行きなさい。ここでの時間は限られているわ。私は...もうそっちに行けないみたい。ごめんね。」


「どうして?お母さんも行こうよ!」


だが、周りの景色がお母さんと一緒に段々と消えていく。


「...どうして、お母さん。」




私は再び歩き出す。どこに向かっているのかはわからない。ただ、母の言葉が胸に響いていた。「自分が本当に望むもの」


それが何なのか、まだわからない。だが、母が信じているのなら、きっと私にも見つけられるはずだ。


そう信じて、私は再び歩き続けた。


私は歩き続けた。草原の風は心地よく、空は澄み渡っている。それでも、心の中にはわずかな焦りがあった。お母さんが言った「自分が本当に望むもの」とは一体何なのか。それがわからないまま進んでいくのが、どこか不安だった。


どのくらい歩いただろうか。ふと足を止めると、遠くに見慣れた光景が広がっていた。それは、私が子供の頃に遊んでいた家の庭だった。大きな桜の木が立ち、その下にはベンチが置かれている。


春の日差しを浴びながら、私はそこに座り、風に揺れる桜の花びらを眺めていたことを思い出す。




「あの頃は、幸せだったな...」ふと口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。何も考えず、ただ日々を過ごしていた子供の頃。あの時、私は何を望んでいたのだろうか。大きな夢はなかった。ただ、家族と一緒に過ごす日々が何よりも大切だった。


その時、庭のベンチに誰かが座っているのが見えた。近づいてみると、それは私の父だった。彼は、かつての穏やかな笑みを浮かべながら、静かに桜の木を見上げていた。


「お父さん...」思わず声が漏れた。父が亡くなったのは、私が小学生の頃だった。それ以来、母と二人で懸命に生きてきたが、父のいない生活にはずっと寂しさが残っていた。


父は私の存在に気づくと、微笑みながら手を振った。「久しぶりだな、元気か?」


私は、久しく見た父の顔に驚くこともなかった。


そして、私は父の隣に座り、しばらく何も言わずに桜の木を見上げていた。まるで、過去に戻ったような感覚だった。


「お父さん、私は...もうわからないよ。お母さんが言ってたけど、私は本当に何を望んでいるの?ってでも、分からないんだ。ただ、みんなと一緒にいた頃が幸せだった。」


父はしばらく私の言葉を聞いていたが、ゆっくりと口を開いた。「それでいいんだよ。それが大事なんだ。何か大きなことを成し遂げる必要なんてない。お前が本当に大切にしていたもの、それがすべてだ。」


「本当に大切にしていたもの...」私は父の言葉を繰り返し考え、改めて思い返した。私にとっての幸せは、家族と一緒にいること、穏やかな日常、そんな小さな瞬間だったのだ。


その時、周りの光景がふわりと消え始めた。桜の木や庭が薄れていき、再びあの白い空間が広がっていく。父の姿も次第に遠のいていったが、彼は最後にこう言った。


「お前の心が導く道を信じろ。それが、次の一歩に繋がるんだ。」


私は一人になった。だが、今は不思議と恐れや不安は消えていた。私が本当に望んでいたもの、それは「大切な人たちとのつながり」だったのだ。それが私の心に残る一番の願いだと、ようやく気づいた。


「きっと、これが私の道なんだ...」思いながら、私は再び歩き始めた。


私は、自分の心が少しずつ澄み渡っていくのを感じながら、白い空間を歩き続けた。足元は軽く、まるで風に乗っているような感覚があった。父と母、二人との再会を経て、私の中にあった迷いは消えた。両親の言葉が、私の進むべき道を示してくれたのだ。




「次はどこへ行くのだろうか...」




そう考えながらも、不安はなかった。むしろ、次に訪れる何かを心待ちにしている自分がいた。白い光の中で、再び黒い穴のようなものが目の前に現れた。前と同じように、それはどんどん広がっていく。そして、吸い込まれるようにその中へ足を踏み入れた。




目を開けると、私は病院のベッドに横たわっていた。周囲の機械の音が規則的に鳴り響き、点滴が腕に繋がれている。白い天井、そして消毒の匂い...生きている。私は、現実に戻ってきたのだ。




「ここは...」




ゆっくりと起き上がろうとすると、誰かの声が聞こえた。




「起きたんだね...良かった」




その声に顔を向けると、そこには私の友人がいた。彼女は涙を浮かべながら、私の顔をじっと見つめていた。




「ずっと心配してたんだよ。あんな事故に巻き込まれて...もう二度と目を覚まさないんじゃないかって...」




私は一瞬、何のことかわからなかったが、徐々に記憶が蘇ってきた。そうだ、私は交通事故に遭って、意識を失ったのだ。その瞬間、私は死にかけていた。


あの白い空間は、その境界線だったのだろう。




「大丈夫、私は...戻ってきたよ。」


友人は私の手を握りしめ、安堵の表情を浮かべた。「本当に良かった…」


「...それより、お母さんは?」




その後、医師や看護師が入ってきて、いろいろと検査が行われた。どうやら、私は意識を失った状態で数日間眠っていたらしい。しかし奇跡的に、大きな後遺症もなく目を覚ますことができたのだという。


しかし、母は、私を庇って、体に大きな傷を負い、即死だったという。


私も本当なら、死ぬところだった。だが母が私を救ってくれたのだ。




ベッドに横たわりながら、私は心の中で再び両親のことを思い出していた。両親はもうこの世にはいない。けれども、あの世界で出会ったことが、私にとって現実以上の経験であったことは間違いない。




そして、私ははっきりとわかった。自分が本当に大切にしているもの、望んでいたもの...


それは「生きること」そのものだ。家族や友人との繋がり、そして今ここで生きていることの奇跡。そのすべてが、私にとっての宝物だ。


退院後、私は日常に戻った。けれども、以前の自分とはどこか違っていた。何気ない日常の一瞬一瞬が、これまで以上に愛おしく感じられた。


ある日、ふと空を見上げると、青空の中に大きな桜の木が思い浮かんだ。父と母と一緒に過ごしたあの庭。そして、両親の優しい言葉。それが、今の私を支えている。


「ありがとう...お父さん、お母さん。」


心の中でそう呟き、私は再び歩き始めた。これからも、私の人生は続いていく。その一歩一歩を大切にしながら、私は生きていくのだ。


今日も世界は美しいみたいだ。

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