乾物屋

すらかき飄乎

乾物屋

   「乾物屋ひものや



えゝ、乾物屋ひものや御座ござい。水母くらげで御座い……


 夢にさいなまれたあさい眠り―――

 夢とうつゝとのさかひ散〻さん〴〵彽徊ていくわいした擧句あげくやうや覺醒かくせいしつゝある頭。

 そのりぬ頭で、起きた後の段取を鬱〻うつ〳〵捏繰囘こねくりまはし掛けたが、ふと今日が日曜だといてほつとした。


えゝ、乾物屋ひものや御座ござい。乾物屋ひものやで御座い……


 聞慣きゝなれぬ物賣ものうりこゑが遠くから近附ちかづいて來る。


えゝ、乾物屋ひものやで御座い。水母くらげ乾物ひもの……


 中〻なか〳〵良い聲だ。

 思へば、僕の子供時分には方〻はう〴〵に良いこゑ物賣ものうりがゐた氣がするが、近頃では一向いつかうに聞かなくなつた。んな聞惚きゝほれるやうな聲は近來きんらいめづらしい。


えゝ、乾物屋ひものや御座ござい。水母くらげ乾物ひもの……


 しかし、一體いつたい水母くらげなんぞが乾物ひものになるのか知らん。んな、水つぽいぶよ〴〵した物を干した所で、どうなるものか腑に落ちない。

 隣を見ると、掛布團かけぶとんが二つにたゝまれてゐる。さいは階下でめし支度したくでもしてゐるらしい。六つになる息子もうに起出して、下に行つたやうだ。


えゝ、水母くらげ乾物ひもの乾物屋ひものやで御座い……


 まどを開けて覗いて見たが、張出したのき往來わうらいを七割方覆隱おほひかくしてゐるために、聲はすれども乾物屋ひものやの姿は一向に見えない。


えゝ、乾物屋ひものやで御座い。水母くらげで御座い……


 味噌汁の匂ひに、はらわたがぐる〴〵音をてゝ蠕動ぜんどうする。一つ、朝飯のさいに、乾物屋ひものやから何か買つてやらう。水母くらげ乾物ひものとやらを買つてもい。

 梯子段はしごだんを降りて臺所だいどころを覗くとさいが振向いた。


「あら、御早おはやう。どうなすつたの? 今日けふは日曜日でせう」

「うん、目がめてしまつたのだ。……それあまあいんだが、ほら、乾物屋ひものや

「なあに?」

乾物屋ひものやだよ。ほら、聲が聞こえるだらう」

「いゝえ、聞こえなくつてよ。……乾物屋ひものやさん?」

「おや、聞こえないかい?」


えゝ、乾物屋ひものや御座ござい。水母くらげで御座い……


「ほうら、聞こえた。乾物屋ひものやだよ。朝飯に何か買つておいで」


えゝ、水母くらげ乾物ひもの乾物屋ひものやで御座い……


「あら、本當ほんたう……。でも、水母くらげ乾物ひものつてへんなのね」

其變そのへん乾物ひものが僕は所望しよまうなのだよ」

「おゝいやだ、水母くらげなんて。他の物になさつて。ね? 御菜おさいなら、鐵火味噌てつくわみそもありますし……」

いや水母くらげだよ。何、厭なら、ついでに他の乾物ひものも買つて來ればい。でも、水母くらげを忘れては駄目だめだよ。さあ、買つて來給きたまへ」


えゝ、乾物屋ひものやで御座い。水母くらげ乾物ひもの……


 賣聲うりごゑうち眞前迄まんまへまでつて來た。良い聲だと思つてゐたが、近くで聞くと厭に疳高かんだかく、きんきんと家中うちゞゆうに響き渡る。


「ほら〳〵、急がないと、もう行過ぎちまふ」

「あら、あたし本當ほんたういや水母くらげなんて……。それに、んな頭髪あたまで、表になんか出られやしないわ」


 成程なるほどひど頭髪あたまだ。寐癖ねぐせまげの根がゆがんでゐる。


てゐるあひだに、枕が外れてゐたの。だから……」

「なあに、相手は乾物屋ひものやだよ。構ふもんかね」

「いやあよ。あたしづかしいわ。貴方あなた行つてらして。御願ひします。ね?」

御前おまへは、亭主に乾物ひものなんぞを買はせようといふ料簡れうけんかい? 隨分ずいぶんなもんだね」

「ぢやあ、よくつてよ。……しやうちやん。……庄ちやん、いらつしやい」


えゝ、水母くらげ乾物ひもの乾物屋ひものやで御座い……


「おい〳〵、庄太郞しやうたらうなんかをつかふのか……」

「よくつてよ、知らないわ! ……庄ちやん、ほら、此御金このおかねを持つてね。乾物屋ひものやさん、ね、おんもにゐるでせう。ね、乾物屋ひものや小父おぢさん。『水母くらげ乾物ひもの頂戴ちやうだいな』つて……」


 庄太郞はにこ〳〵しながら、表に驅出かけだして行つた。


小父おぢさん、小父おぢさん……

……えゝ、乾物屋ひものやで御座い。水母くらげで御座い……

…………小父おぢさん、小父おぢさん……


 乾物屋ひものやこゑは遠離る。其遠離そのとほざる聲を、庄太郞しやうたらうの聲が追掛おひかけて行く。


えゝ、乾物屋ひものやで御座い。乾物屋ひものやで御座い……


 ――――?


えゝ、乾物屋ひものやで御座い。水母くらげ乾物ひもの……


 の聲は……?


えゝ、水母くらげ乾物ひもの乾物屋ひものやで御座い……


 ――庄太郞? ……!


 何時いつにかに、庄太郞の聲が乾物屋ひものや入替いれかはつてゐる。庄太郞の聲が乾物ひもの賣步うりあるいてゐる。


えゝ、乾物屋ひものやで御座い。水母くらげで御座い……


 たしかに庄太郞の聲だ。


「おい、大變たいへんだ! 庄太郞だよ。庄太郞が……。おい、聞こえないのか!」


 どうした事か、さいはぷいと脊中せなかを向けたまゝ、石のやうにだまつて動かない。


「庄太郞! 庄太郞!」


 あはてゝ表に飛出したが、とほりに庄太郞は見えない。乾物屋ひものやも居ない。風に吹かれた紙屑かみくづがころ〳〵ところがり、庄太郞の賣聲うりごゑかすれるやうにひよろ〳〵遠離る。


……えゝ、乾物屋ひものやで御座い。水母くらげ乾物ひもの……


せつ! せつ! 節子せつこ!……」


 戸を開放あけはなした家裡やうちに向かつて怒鳴附どなりつけたものゝ、丸で木のうろだかいはほらだかのやう。おのれこゑが、がらん〴〵とこだまするばかり。



…………えゝ、乾物屋ひものやで御座い。乾物屋ひものやで御座い……




 ふと氣が附けば、日は中天に差掛さしかゝつてゐる。


 何時いつにやらもうひるか―――




 しかし、けにかん〳〵と照附てりつける。

 寒天みたやうな僕の天窗あたまはすつかり乾上ひあがつてしまつて、




 ――――最早もはや細君さいくんかほだに思ひ出す事が出來ない






                         <了>









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乾物屋 すらかき飄乎 @Surakaki_Hyoko

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