異端
しばらく走ってからまずは狩りだと、朝の静かな街を越えてナイルの畔へ向かい、そこで飛んでいた水鳥を二羽射落とした。
随分と狩りに出ていなかったものの、あまり感覚は鈍っていないと、撃ち落とした鳥を持ち上げながら自分を少しだけ誇らしく思えた。
胸を反らしながら空を仰ぐ。目を閉じたら、獅子の咆哮が遠くに鳴っているのが聞こえた。いつもなら迷いなく駆けて行くものだが、さすがに一人で獅子を狩るほどの無茶はしない。
怪我をして帰ればどうなることか。一人で宮殿を抜け出したことへの説教も待っていると思えば尚更無理をしようとは思えなかった。
獲物を馬に括り付けながら、ふと兄の顔が思い浮かぶ。兄に悪いことを言ってしまった罪悪感も少なからずあり、この鳥で許してもらおうと目論んでもいた。これで怒りが治まればいいのだが。
矢も残り1本となったのを見て、今度は街の方へ向かおうと再び馬に跨り、地を駆けた。
街へ。狩りのために、走り抜けてしまって、飛び出した当初はあまり様子を見ていないが、この時間帯であるならば、朝の静けさなど嘘のように生活を営む民の姿を目の当たりに出来るだろう。それを思うほどに胸が躍った。
兄に連れ出された時のように、溢れんばかりの熱気と人々の生き生きとした姿ばかりが脳裏を過る。
だが、街に着いても、思い描いていた風景はひとつして現れることは無かった。商人や子供たちで埋め尽くされるはずの道に、人は数名以外おらず殺風景。仕事帰りの達成感に満ちた男たちの表情も、男たちが持ち帰ってきた報酬に喜ぶ家族の声も、香ばしいパンを焼く香りもなく、吹き流れる風の香りには悲しいものがあった。
単にここがそう言う場所なのかもしれないと考え、宮殿近くまで馬を走らせたが、辺りが夕暮れになりかけても求める光景は現れない。
これが兄と姉が危険だと言って俺を外に出さなかった理由だろうか。
確かにこの異様な雰囲気に奇妙さはあったが、兄と姉の言うほどのものは感じられなかった。
不思議に思いながら馬を止め、地に足を下ろしてみる。履物の上から地の感触を踏みしめ、今度は歩いてみようと思った。馬上と歩くでは見えてくる景色も違うというものだ。
どこか緊張している馬の顔を撫でる。乗り手がいつもと違う所為があるのだろう。勢いで乗って来てしまったものの、こうした様子を見ていると馬が哀れになってきた。
陽が暮れる前には戻ろう。そう思いながら、手綱を引いて太陽の沈み始めた西へと自分の足で歩き始めた。
夕暮れ独特の赤い光に満ちているからかもしれないが、やはり物寂しさは変わらない。人がいない他に何が違うかと問われたら、はっきりとは言えない。
毎日民の姿を見ている訳でもなく、何より久々の外出で、この妙な不安の中でいつもとの違いからくる違和感を感じ取るだけしか出来なかった。
それでもふと、唐突に思った。窓を締め切っているのだと。
前に来た時は、立ち並ぶ家々は窓と扉を大きく開き、そこから色んな表情が覗いていた。様々な人々が様々な顔をして、多くの声を立てていた。開け放たれた道は、だからこそ賑わい、その営みの豊かさを感じることが出来たのだ。
扉も同じ。何かを恐れているかのように閉じ切ってしまっている。
以前目にした開放感のある通路はあまりに寂しく、孤独感と静けさを浮き立たせているのだ。
一体どういうことだ。何故、まるで一人も住んでいないかのように皆が息を潜めて暮らしているのだ。兄が俺を外に出すまいと理由と何か関係があるのだろうか。
気づいてしまうと、どうしようもない不安ばかりが大きくなった。
得体の知れない何かがこのアケトアテンを襲っているのは確かだ。だが、それが何であるかは分からない。
やはり誰かを連れてくるべきだったかと悩んでしまう。
どこにもやれないこの光景の物悲しさがまるで自分の中を侵食していくかのように、唐突に誰か親しい人物に会いたい衝動に襲われた。
だが、ここで帰ってしまうのは気が引けたし、一人で大丈夫だと言い切って飛び出してきた手前、悲しいからといって帰るのも嫌だった。なんて曲がっている性格だろうと自分に呆れてしまうが仕方がない。
どうしたものかと考えを巡らせていると、カーメスの顔が思い浮かんだ。今は自分の実家に帰っているはずだ。彼なら、兄の頭の中のことを少しくらいは教えてくれるかもしれない。
会いに行こう。カーメスに。
あの明るい性格を思うと、沈んだ気持ちも突然と明るくなった。
カーメスは貴族出身。貴族の屋敷は宮殿近辺一帯にまとまっているから、何となくあの屋敷だろうという目星はついた。
思い立てば、実行に移さない手はない。馬に跨り、再び走り出した。
貴族の屋敷が並ぶ一帯にきて、ようやく人々の影を見た。この辺りは変わらないのだと胸を撫で下ろした瞬間に取り巻く異変を感じた。
人々は一点の方向に釘付けになり、恐怖の表情を浮かべていたのだ。ある女は悲鳴を上げ、傍にいた我が子を抱き上げると家に逃げ込むように走り出す。とにかく馬を降り、顔が見えないよう上着の余りを頭に被って様子を見ようと人混みの中に駆けこむ。
見えたのは、真っ赤な炎だった。一帯の屋敷が燃え、茜の空に火柱を伸ばしている。油でも巻かれたのか。遠くにいるはずの自分の頬にさえその熱が取り巻いた。屋敷の柱の影を人々が走り抜け、助けを求める声が小さく耳を打つ。数人の屈強な身体付をした男たちの影が、燃える炎の赤の中に黒々と踊っていた。
獣が吼えるように何かを叫びながら屋敷の中に押し入り、棍棒を振り回しては家を壊している。
「なんだこれは」
言葉を発さずにはいられない。この国でこのような狼藉は許されるはずがない。王家の者として、見過ごせるものではなかった。
漠然とした怒りを覚えていると、はっと我に返って、地を蹴った。
「カーメス!!」
あの中には彼がいるのだ。
「坊や、危ないぞ!坊や!!」
隣にいた老人が叫んだのを、遠くに聞いた。
右も左も突然分からなくなり、炊き込める煙に足がふらついた。呼吸を拒絶するかのように大きく咳き込み、口元を手で覆う。
想像していたものとは全く違う。父が守ろうとしていたものはどこにもない。悲惨な有様だった。止められるのも無視して俺は燃え盛る屋敷の方へ走り出す。
そうして屋敷に辿り着く前に何かにつまずき、豪快に転んだ。膝と腕に痛みを感じながら起き上がると、自分の行く手を阻んだのが、倒れていた人の身体であることを知った。
その男の服装からして、貴族だろう。宴の席で何度か見たことのある服装だ。
「た、助け……」
我に返り、彼のすぐ近くに腰を落とした。背を深く刺されていた。相手の黒目は大きく揺れ動き、焦点は定まっていない。もう助からないと医師でもない自分でも分かった。煙に混じって嫌な鉄の匂いが充満する。
「王は!!王は何故……!神を……!私は反対したというのに……!」
王とは、父のことだ。父が、何かしたのか。
「王の所為だ……何もかも……あの異端の」
俺は掠れた声で泣き叫ぶ相手の声を汲み取ることしか出来なかった。
吐き出される言葉でさえ、意味が汲み取ることが難しいものだ。むしろ背後で燃え盛る炎の音の方が大きい。どうしていいのか分からず、困惑している内に相手は呆気なく事切れてしまった。
目を見開いたまま動かなくなった人間に恐怖を感じ、逃げるように立ち上がる。
人が死ぬのを見るのは初めてだった。
この状態は何だ。
腕を擦る。まるで別世界にでも落とされたかのようだった。以前見た光景とはまるで違う。
カーメスは、どこにいるのだろう。この屋敷はカーメスの実家だ。ここに彼は帰っている。絶対にいるはずなのだ。
──探さなければ。
そうして死体の間を走っていると、一人の男が地べたを這うようにして屋敷から離れようともがいているのが見えた。生きているのだと分かって、慌てて男の方へ近寄る。
「大丈夫か!」
咳き込みながら尋ねると、男は顔を上げて俺の顔を捉えた途端、大きく目を見開いた。
「……王子?」
名を呼ばれたかのように自分の胸が飛び跳ねた。
「もし、……もしや、末の王子では?」
振り返って己の足を掴んだ相手を見て、また心臓が大きく鼓動した。
「お前は……」
顔は煤で汚れているが、見覚えがある。カーメスの父親だ。
幼少の頃に父の傍に仕えていた。息子であるカーメスを後継にして、引退した人物が目の前にいた。
「一体何があった」
「ああ……何故、今このようなところにいらっしゃるのです」
相手は怪我をしていた。肩と腿に矢が刺さっている。
どうにかこうにかここまで逃げてきたのだろう。
「カーメスは……カーメスは、どこにいる」
「おそらくまだ中に。私を逃がしてくれたのです」
聞いて、大きく息を呑み、炎に呑まれた屋敷を振り返る。
「それよりも王子」
彼は俺の上着を掴んだ。
「お逃げください……一刻も早く」
民を残してここを去れと言うのか。
「我々の言葉をファラオにお伝えください、この改革は過ちだったと……!今すぐに戻さねば国は滅びる!この都は、もうもちませぬ」
国が亡びる?
まさか。父が治める国だ。滅びるなどあり得ない。
「ここをお逃げください!さあ!!!」
「お前はどうなる……置いては行けぬ、お前を狙っているのだろう」
この一帯で最も高い位置にいる権力者がこの男だった。先程から向こうからカーメスの父親の名が叫ばれている。
「あなたがいると知れれば、矛先は私ではなくあなたに向かいます。あなたは殺されましょう。今回のことの見せしめとして」
見せしめ。何のための見せしめだ。
溢れ出す疑問と不安を振り払うように首を横に振る。
「捨て置くことは出来ぬ」
喉が震えていた。目が回りそうだ。全身が今自分の置かれた状況に怯えていた。
何も分からない。
彼らは王家を非難している。それもあの父を。偉大なる父を。だからここを襲っているのだ。
漠然とだが、そう直感した。そうとしか思えなかった。
自分が抱いていた、信じていたものが止めることもできないままに崩れていくような気がした。
熱気をまとった、緊迫した空気が喉を焼いている。大きく咳き込み、煙に沁みる目元と額の汗を腕で乱雑に拭った。
とにかくこの老人を安全なところに運んで手当をしなければならない。
「王子、どうかお逃げを……」
どこか。どこか、ないか。
相手の腕を自分の肩に回し、屋敷から離れようと足を動かした。思った以上に自分には力がなく、大の大人を運ぶには少し進むのに相当な力を要した。
辺りが燃えている。木造という訳でもないのにここまで燃えてしまうのかと恐怖が全身を駆け巡る。
足元に倒れている者たちの中にも生きている者がいたが、彼らに構う余裕がなかった。そんな自分が悔しかった。不甲斐無さに泣きそうになった。
父は、この現状を知っているのだろうか。それでいて放っているのか。こんなにも人が死んでいるのに。
鼻先から汗がしたたり落ちた時、人の気配がした。倒れている者ではない、追手のような。殺気立った気配。
「いたぞ!!」
声に顔を上げると、あっという間に灯りを片手にした男たちが駆け寄ってきて、逃げる暇も無く周囲をぐるりと囲まれてしまった。
逃げ場はないかと慌てて目を凝らすが、人を支えた身でいつもの身軽さは到底出来ることではなかった。
「餓鬼」
一人、屈強な身体付の男が俺の前へ歩み出た。
口内に堪った唾を飲み込む。
「その老いぼれをこちらに引き渡せ」
上着の中から相手を睨みつけ、首を横に振った。
「お前も憎いだろう。憎いはずだ。この国を変えた王家が」
言われていることに眉を顰める。
それでも首を横に振る俺に、相手は苛立たしげに顔を歪めた。
戦うしかない。戦って突破するしか。ぐっと唇を噛みしめると、後ろから伸びてくる手を感じ、咄嗟に振り返ったと同時に大勢が飛びかかってきた。
もみくちゃにされ、カーメスの父親とも引き剥がされ、訳が分からないまま地面に身体を押し付けられる。
声を上げることも出来なかった。カーメスの父親の掠れた悲鳴が聞こえる。俺が捕らわれたことに対する恐怖と絶望がその表情に炎の明かりと共に浮き出ていた。
「どこの餓鬼だ」
「離せ!!」
口から飛び出した声は掠れていた。
「顔を見せろ」
そう言われて、今まで深く身に着けていた上着が剥がされた。
腕につけた黄金がこれでもかと炎の明かりに輝きを増す。陽も沈んだ暗闇に、この色はあまりに眩しすぎた。
「……王子、か……?」
息も止まる思いだった。
王家の証である蛇が刻まれた黄金の腕輪など、王家の者であると何よりも物語っている。周囲の誰もが唖然とした面持ちで俺を見ていた。
「異端王の、息子?……まさか」
──異端。
何故、父が異端なのだ。
民のため、国のためと生きてきた父が、何故。
「子供じゃないか」
俺の顔を見た男の一人が戸惑いの声を上げる。その手には血にまみれた剣があった。
「末の王子だ。兄の方が有名だが、弟もいる。間違いない」
「これが、異端王の倅か」
身分が露見したのなら仕方がない。伸し掛かる力に身体全体で抗い、喉までで止めていた言葉を吐き散らした。
「この所業、いかなることか!!どのような理由の下であろうと許さぬぞ!」
子供らしいか細い声。何の説得力もない、弱々しい声だった。悲しいほどに、自分が思っていた以上に俺は子供だったのだ。
誰もが息を殺すようにして俺に視線を注いでいる。視線に込められているのは軽蔑。
言われた通り、老人に向いていた目は今まさに俺だけに向けられていた。王家の息子である俺だけに。
多くの目に見下ろされている。兄や姉から注がれていた愛情のあるものとは程遠い、恐ろしいほどの白い眼差し。黒と赤に満ちた空間で、その白さだけが浮き立っている。
地面に押し付けようとする力が強まり、思わず呻く。
誰より敬愛していた父が、異端と呼ばれていることなど知らなかった。
この国で何が起こっているかなど、知らなかった。
今ですら飲みこめていない。
聴覚を炎のけたたましい音が支配する。
白い目の奥から手が伸びてくる。自分に向かって。
決して讃頌する手ではない。恨みを晴らそうとするかのような、悍ましく、恐ろしいものだ。
自分の悲鳴が頭を貫いた。
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