ナイルの畔

 進んでいく景色がとても美しく、落ち着きを失って、きょろきょろと兄の腕の中から周りと取り囲む風景を眺め、何か見つけるたびに身を乗り出す。

 ナイルは記憶よりも水かさを増し、これでもかと水面をなびかせている。毎年恒例の氾濫が近づいているせいだろう。

 初めて意識して氾濫を眺めたのは去年のこと。黒々と蠢き、いつもの光景を一夜にして一変させてしまったナイルは、生きているのだと思った。兄が教えてくれたように、ナイルには神が住んでいて、だからこそ我々は生きて行ける。ナイルの神ハピによって命が運ばれ、生きるための作物を育ててくれる。我々はすべてに生かされているのだと。これほどに満ちた世界に生きている自分があまりにも特別に感じ、その幸福を噛みしめる。

 あの興奮をまた味わえるのだと思うと氾濫が始まる時期が待ち遠しくてならなかった。

 全身に感じられる柔らかな風が好きだ。過ぎて行く水や土の匂いが好きだ。燦々と降り注ぐ、黄金を振り撒く太陽が好きだ。息も止まるほどに過ぎて行く光景の何もかもに心打たれ、隣を走るカーメスと一緒に声を立てて笑い、少し離れたところを走る他の兵たちに無邪気に手を振った。


 ところが、そのまま連れて行ってくれるだけという甘い考えでは駄目だったことを後になって思い知ることになる。

 兄は兄なりの考えを持って俺を遠出に誘ったのであり、建物も人気もない、ナイルの畔まで来ると、馬を止めた。どうしたのだろうと後ろの相手を振り返ると、相手は爽やかさに満ちた表情で、いきなり手綱を俺に渡してきた。


「さあ、お前の番だ」


 ぎょっとして後ろの兄を振り返った。


「馬の乗り方など、やったことがない……できぬ」


ふるふると首をふるが、兄の怖いほど自信に満ちた表情は変わらない。


「だからやるのだろう。お前ももう八つになる、馬に乗ってもおかしくは無い年だ」

「でも」

「でも、ではない。兄も初めてを乗り越えて今に至るのだぞ。馬に乗れなければ狩りにも行けぬ。……ほら、いつものあの調子を思い出せ。どこへでもひょいひょい行くのがお前だろう」


 手綱を持たされ、兄を唖然と見上げる。


 ああ、そうか。

 姉はこれを分かって反対していたのだ。この時ばかりは姉に賛同すればよかったと滅多にしない後悔をした。


「さあ、兄を真似てやってみよ。今まで散々見て来たはずだ」


 この調子では、何もやらないで終わるというのは許されない。兄は俺がやるまで帰らないつもりなのだ。

 どうしようかと戸惑いつつ、顔を上げて馬上から視界を見渡すと、カーメスが少し心配そうな面持ちでこちらを見つめ、他の兵たちも息を潜めて見守っていた。

 心配しているのなら止めてくれれば良いものを、兄に逆らおうとする者はまずいない。

 自分が手綱を持った馬は、兄が後ろにいるにも関わらず、とても頼りない感じがして、その馬上もいつもに増して不安定な気がした。少しでも身体をずらしたら、地面にずるりと落ちてしまいそうだ。

 こんなにも馬上は高かったか。もう何も思い出せない。

 不思議なことに、思い出そうとするほどにあらゆるものが頭から飛んで行ってしまう。

 こう感じてしまうのは自分の気持ちのせいなのは分かっていたが、この状態ではどうしようもない。

 怖いものは怖い。不安なものは不安に変わりない。

 けれど、何かあっても良いように兄が後ろにいるのだろうと思えば、何とかなるのではと妙な出所の知れない期待がどこからともなく湧いてくる。

 今まで見てきた馬上での兄の動きを頭の中に描きつつ、意を決して、えいやと引いたら、馬は勢いよく走り出した。

 予想外のことに、思わず悲鳴に似た声を上げた。

 思っていた方と違う。全くの逆方向だった。

 ぐうんと凄まじい力に振り落されそうになりながら、咄嗟に身体を丸めて馬にへばり付く。


「そんな体勢では馬は言うことを聞かぬぞ」


 声を上げる暇もなく、どうにか止められないかと手綱を握り直してみるものの、初めての馬に恐れをなして、力が上手く入らない。

 後ろの兄は助けてくれるどころか、高らかに笑っているし、へばりついている自分は馬の止め方など知らないし、徐々に恐怖だけが伸し上がって来て、このままナイルに飛び込む勢いで馬がナイルの方へ突進し始めた時は、これでもかと泣き喚いた。


「王子!!」


 カーメスの緊迫した呼び声と共に、背後からすっと手が伸びてきた。


「──ああ、楽しい」


 風を一身に浴びた兄は大きく息をつくようにして言うと、俺から手綱を取り、容易く馬を止めた。

 何が楽しいのだと言い返す余裕などなかった。全身が震えてしまって自分が哀れに思えるくらいだ。


「兄上、いやだ、もう帰る」


 目を真っ赤にして訴えるのに、兄は眉を下げて俺の頭を撫でた。


「王子たる者、そう簡単に泣くものではない」


 隣にいた兄の側近であったカーメスも「そうですよ」と追い打ちをかける。


「なかなかの乗りっぷりございましたよ、王子。このまま続ければきっと良い乗り手になりましょう。……今のは冷や汗をかきましたが」

「カーメスもこう言ってくれている。馬に乗れぬ王子など笑われるぞ。私の弟ならば泣かずに前を向け。馬が見せてくれる景色を目に焼き付けよ」


 すると、カーメスは横目で兄を見上げた。


「しかしながら、兄君はやりすぎです。お二人揃って怪我でもなされたら私の首が飛びます」

「すまぬ、少し反省している。もうしない」


 そう言いながら、兄は笑うだけだった。

 少しどころか、反省の色など皆無ではないか。全く以て見えやしない。

 この兄にして、「もうしない」などあり得なかった。


「さあ、馬がどういうものか分かったはずだ。今度は教えながらやろう」


 馬がどういうものかなど考えられなかった。何が分かったはずだ、だ。兄のことは好きだが、こういう無茶苦茶なところは嫌いだ。大嫌いだ。


「膨れるな、愚か者」


 泣きべそをかいた自分の顔は兄ににらみを利かせていたのだろう、兄は俺の膨れた頬を潰した。ぶぶぶ、と無様な音がする。


「背筋を伸ばせ。いつものように」


 嗚咽を呑みこんで、兄が教えてくれる「正しい」姿勢に直し、兄とは比較にならないほどに小さい手で手綱をおずおずと握った。手を、兄が支えるようにして包んでくれる。同じ手だというのに、こんなにも大きさが違うのかと、思わずにはいられない。

 何があっても笑っていられる兄と、これだけのことで泣いてしまった自分の差を明らかにされた気もした。


 それからの乗馬は専門の教師がつき、兄に見守られながら毎日習う破目になったのは言うまでもない。

 兄のそんな無茶なやり方のおかげもあってか、嗚咽を漏らすほどに恐れをなしていた俺は一年も経たない内に、馬を乗りこなし、兄やカーメスと共に狩りまで出来るようになっていた。


 馬に跨り、初めて野鳥を射落とした俺の姿を、満足そうに微笑みながら眺めていた兄の優しい表情はどれだけ時が経とうと忘れられない。


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