1章
父の子ら
兄とは十二、姉とは四つ離れていた。
他にも兄弟姉妹がいたはずだが、名を付けられる前に死んでしまったから分からない。
俺が生まれた頃、兄は飛び上がって大きく喜び、「弟だ」と多くの兵や臣下たちに言い回ったと言う。この話は侍女たちが耳にタコが出来るほどに話し聞かせてくれた。
三人とも母はない。
自分に至っては、自分を生んだ後に死んだために顔さえ知らない。唯一母について知っているのは、キヤという名だけだ。
己の母の顔を覚えているのは兄しかいない。兄にその母の話を聞いても、兄の母は姉と俺の母ではなかった。皆が三人それぞれの母を持ち、それぞれに亡くしたのだ。
兄に話を聞けば、亡き母の姿に思いを馳せることもある。
それでも母がいないながらにそれほど寂しさを感じなかったのは、良い乳母がいて、母の友であった父の側室たちがいて、父に負けず劣らずの愛情を注いでくれたからだと言えるだろう。何より、年の離れた兄が懸命に面倒を見てくれ、絶えず姉が可愛がってくれたことが大きかった。
父と兄と姉の愛情の下に、俺は育った。
「王子」
先日新しい遊び相手として兄に選ばれた兵を相手に、棒きれで遊んでいた俺は呼ばれてはっと顔を上げた。女官長のネチェルが大きめの壺を抱き、こちらに満面の笑みを向けている。
「兄君がお帰りのようですよ」
「兄上が!?」
棒切れを投げ出し、一目散に庭を飛び出して、おかしそうに笑うネチェルの前を通り過ぎる。
「王子、走ってはまた転びます」
「構うな!」
女官長の言葉を振り切り、部屋を出た。
「ネチェル殿は悠長なことを!もっと強く注意していただかなくては!……ああ、王子!そう急がれますな!また転びますぞ!」
慌てて若い兵たちが俺を追いかけてくるが、追いつかれて堪るかと笑いながら廊下を突き切る。廊下で楽しげに髭を揺らし笑っているナルメルに声をかけ、女官たちの間を通り抜け、兵たちを飛び越え、近道をしようと廊下から庭へ着地した。
俺を追いかけていた兵から絶望に満ちた悲鳴が聞こえたが構いやしない。こちらの方が断然近道なのだ。
走っていると、ちょうど庭から戻ってきた姉とその侍女たちと鉢合わせになった。ぎょっとして俺を見て、「アンク!」と姉が声を尖らせた。
掴まっては厄介だと何の返事もせずに一目散に逃げきろうと地を蹴る速度を増す。
途中に通った庭の草に足を取られたものの、なんとか持ち堪え、今度は足元に注意しながら別の廊下に降り立ち、思いっきり床を蹴り上げて、そして兄がいるはずの正門側の外へ。
侍女や兵たちは俺が転びやすいことを知っており、この前も盛大に転び、膝を怪我したために走ることを極端に恐れるが、あんな怪我ごときで大げさになるのも馬鹿らしい。恐れていては何も出来ないではないか。走るのを禁じられるなど、以ての外だ。
外へ飛び出し、ラーの光を全身に浴びる。
大きく息を吸い込み、呼吸を整えると、長い階段下に馬たちが嘶いているのを見つけた。その中で最も立派な馬。もちろんそこに跨るのは自分の兄だ。颯爽と飛び降りた兄は、カーメスと何やら楽しげに話している。
「兄上!」
馬を撫でて労っていた兄は、階段を駆け下りてくる俺に気づき、笑顔で迎えてくれた。
「また走ってきたのか」
目の前まで行くと、相手は「急ぐこともないのに」と少々呆れ気味に肩を竦める。
「兄上も俺が転ぶと心配しているのか」
「そうむくれるな。前も酷い怪我だっただろう。お前は足が少し曲がっているのだから、気を付けなければ」
確かに自分の足は綺麗に真っ直ぐではない。足の裏が少々内側に曲がっており、転びやすいのだと侍医から注意を受けていた。
どうこう言われても、これは生まれつきなのだから仕方がない。
歩いている内にどうすれば普通に歩くことができるかは自分なりに掴めていたし、周りが心配するほど気にもならなかった。
「王子……!」
俺の後ろに、ぜいぜいと肩で息をしている兵がようやく追い付いてきた。
両膝に手を当てて屈みながら俺を見るその姿に、何とも申し訳なさが溢れてくる。
「追いかけて来なくても良いのに」
子供しか通れないような道を飛び越えてきたのだから、大人の身体をした彼の苦労は容易に想像できた。
「そういう、訳には、参りません……!」
ほらみろ、と兄が俺を肘でつついてくる。
「弟がいつも苦労を掛けるな」
「い、いえ!!滅相も御座いません!」
兄への必死の返答は掠れてしまっていた。
「お前には褒美を取らせよう。よくやってくれている」
そう言いながら、兄の手が俺の頭を叩くように撫でていく。
「このような落ち着きの欠片も無い暴れん坊に、表情を変えずについて来られる者はなかなかいまい。どうしたものかと私も困っているのだ」
未だに息を乱したままの彼を苦笑して労う兄の上着を引っ張った。
この話はもういい。自由気ままに、あちらこちらと駆けて行く好奇心の塊と侍女に言わしめた自分に、ついてこられる者などまずいないだろうし、いたらいたで、それは邪魔でしかない。その者を振り切ってやろうと、俺は今以上に無茶をしてあちらこちらを飛び回ってしまうに違いないのだ。それを思えば、この兵は随分よくやってくれている。
兄の服を掴みながら視線を足先に落とし、土をサンダルで踏みつけた。
自分で分かっているほど、自分の性格はひねくれている。素直で、何でも快く受け入れるこの兄とは違って。
「もうよい、兄上。つまらぬ」
何より、どこまでも自由に宮殿内を駆けて行ける気楽さを手放したくは無かった。
「それで兄上はどこへ行って来た?」
眉を下げてため息をつく兄が俺を見下ろした。
「西の方、ナイルの畔だ。神殿の工事があったため、その様子を見て来たのだ」
すると、兄の側近カーメスが俺の傍に膝をついて動物を積み上げた荷車を示した。
「王子、あちらをご覧ください」
カーメスの指先にあるその光景にわっと声が漏れる。
どうしてこの光景に気づかなかったのか。
「すべて、兄君が狩られたのですよ」
想像を絶する量の、狩りで仕留められた動物が山のように荷台に積み上げられている。これらは今夜の宴に父たちに振舞われることだろう。
「凄い……」
「そうでしょう、そうでしょうとも!我が主ながら何と言うべきか私も誇らしい気持ちで胸がいっぱいに御座います。その狩りのお姿は同性の私でも惚れ惚れとするほどで、王子にもお見せしたかったと今何とも言えない気持ちでいっぱいなのです!兄君はまるで鷹の如く獲物を見つけると一目散に私どもに行くぞと声を掛けて走り出すのですが、もうそのお姿は雄々しき、そうですね例えるのであれば……!」
「もう良い」
兄が苦笑してカーメスの頭を軽く叩いた。
「カーメス、お前は言葉が多すぎる」
叩かれた本人はにこにことくせ毛を揺らしながら、照れていらっしゃるのですかと言っている。兄は叱ることなく口をへの字にして冗談気味に大げさな溜め息をつくだけをした。
カーメスは父と兄に望まれて宮中に仕えるようになった貴族出身の少年だった。
兄より五つ年下、へらへらしていて、緊張感があまり感じられない兄の側近ではあるものの、軍事的な能力は若いながらにかなりものだと聞いている。
兄との相性というか、仲と言うか、そういう感覚的なものがよく合って、傍目からすれば彼らはまるで相棒のようにも見えた。
「兄上はやはり凄い!!」
俺は大きく飛び跳ねた。きっと頬も真っ赤になっている。
「いや、このすべてを狩った訳ではない。皆がいてこそ狩ることが出来たのだ。私は最後のとどめを刺したに過ぎぬ」
「俺も行きたい!!今度こそついて行く!弓の腕は上がった、もう足手まといにはならぬ」
せがむと、兄は少し黙って顎に手をやり、唐突に考えを巡らせ始めた。
何を考えているのだろうと、カーメスと頭を並べて兄の顔を覗き込む。兄が何を言ってくれるのかを考えるだけで胸が躍って仕方なく、頬が自然と緩んだ。
「……そうだな。ならば」
徐に顔を上げて俺を見た。
「今から遠出をしてみるか?……もちろん、馬でだ」
「お兄様」
投げかけられた声の方を振り向くと姉がいた。
「アンクに何をさせるつもりなの」
どこからどう見ても、あの顔は怒っている。付き添いも連れずに我武者羅に走っていた俺のことを叱りに来たに違いない。頑固反対だという姉の表情に、兄は笑って「何とでもなる」と返した。
「どうする、アンク」
兄から外へ誘われたのは、これが初めてだった。
いつもは面倒な行事で、大げさに飾り立てた輿や父の操るチャリオットに乗せてもらって移動することの方が多く、兄の前、それも馬の背中に乗せてもらえるのは滅多にない。
兄の誘いに、「これは特別だ」と興奮が身体中を駆け巡っていた。拒む理由などどこにあろうか。
「行く!」
即答だった。
姉の溜め息を聞いた気がしたが、初めての単独の外出に迷うことなく俺は頷いて、兄の手を取ると、兄はまだ幼い俺を前に乗せ、ナイルの畔に向かって手綱を引いた。
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